《4》
目を開けば、アレクの涙でくしゃくしゃになった顔があった。
そこは、森のなか、ましてや、俺の汚くて狭い小屋の中でさえなかった。俺は、前年、村長となった男の家に寝かされていた。時刻は既に夜らしく、仄暗い室内には蝋燭の灯が揺れ、窓からは月のひかりが差し込んでいる。
そして俺の周りには、村の老若男女が集められている。そのなかにはヘレナの姿もあった。
「マルク、よくぞアレクを助けた」
「……いえ……」
俺は口籠る。そして頬に鋭く突き刺さる視線の主を見やれば、顔をこわばらせたヘレナのもとに俺の瞳は辿り着く。
そうだ、あの襲撃の夜、俺はこれ以上もなく残虐に、ヘレナの夫を殺したのち、傍らで泣き叫んでいた彼女を犯したのだった。
憎まれるはずだ。
俺はヘレナの尽きることのない憎悪の源を己に見出し、思わず嘆息する。
やがて、村長の男が、蝋燭の灯に照らされる村の衆を見渡して、重々しく告げた。
「村の者ども、ことに女どもよ。あの忌まわしい夜の出来事は、たしかに忘れてはならぬことであろう。だが、その憎しみをこの男……マルクひとりにぶつけ、その罪を贖わせる時は、もう終わりにして良いのではないだろうか。もう、この男を解放してやって良い時が来たのではなかろうか」
仄かな灯のもと、女どもが一斉に下を向く。そして肩を震わせる。なかには涙を堪えきれぬ者もいた。
ヘレナもそうだった。
「人を愛するにも、時には限りがある。同じく、人を憎む時間にも、人間には限りがある。もう、マルクに罪を背負わせる時期ではない。そうしなければ、今度は彼を痛め続けた我らに、いつか罪は及ぶ。そうではないか、ヘレナ?」
唐突に名を呼ばれ、ヘレナが頭を上げた。闇に浮かび上がった琥珀色の瞳は赤く腫れあがり、その表情はいつ見たそれよりも弱々しい。そして、ヘレナは静かに視線を俺の顔に移し、こう言いながら俺に向きあった。
「マルク。私たちの息子を、助けてくれて、礼を言うわ……」
「私たちの!?」
俺は驚きのあまり嗄れた声を張り上げた。
「ええ、アレクは、あんたと私の子どもよ。私は……あんたに犯されてアレクを身籠ったのよ。私は、あんたが憎かった。だからこそ、あんたを痛めつけたし、アレクが成長したら、その手で仇を打たせようと心に決めていたわ。いいえ、いまでも、あんたが憎くてたまらない……!」
俺は、そのとき、いったいどんな顔をしていたのだろうか。だが、なおも、ヘレナの言葉は続く。
「……でも、この憎しみの連鎖に、アレクは無関係だわ。そこに彼を巻き込んではいけないと、今日の出来事で私は悟ったのよ。だから、だから、私はあんたを赦す。……憎いけれど、憎いけれど……赦すわ……いえ、赦せるように、努めるわ……!」
そう絶叫すると、ヘレナは、人目も憚らずその場で泣き崩れた。すかさず、アレクが不思議そうに、号泣する母親の膝に這い上がる。それを見て、俺の目にも、ついぞここに来てから溜まったことのない涙が溢れた。
俺の頬をつっ、と伝う涙を見て、老いた女のひとりがポツリと呟く。
「……私たちは、今宵をもって、マルクを解放しよう。彼を人間として蘇らせるのだ。そう、そうしてこそ、あの夜、彼らに殺された私たちも、人として再び生きることがはじめて叶うのだから……」
しばらくの後、仄かな灯のなか、女のひとりが横たわる俺に、恐る恐る、手を差し伸べた。それに促されるように、やがて、次々と女たちがおのおのの腕を伸ばしてくる。
ヘレナの慟哭はなおも止まない。
それを耳にしながらも、俺は頼りなく震える掌をせいいっぱい広げて、女たちの手をひとつひとつ、そっと掴む。
窓から差し込む月のひかりが、どこまでも静かに、そんな俺とヘレナと女たちを柔らかく包み込み、穏やかに照らす。
俺をあれほどに嬲った女たちの手の感触は、どれもが、あたたかかった。
心に染みるほどに、あたたかかった。
その熱を感じた時こそが、俺の、いや、俺たちの、新しい生が始まった瞬間だった。
奴隷と女と女たち つるよしの @tsuru_yoshino
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