《3》

 さらに数年が経過した。

 俺の日々は、相変わらずだった。


 だが、村の女の態度は、少しずつ、少しずつだが、寸分の時間をも漏らさず、自分たちの村のための労働へと身を捧げる俺に対し、柔和になりつつあった。というのも、村には新しい男たちが入ってきて、その生活には多少なりともだが余裕が生まれつつあり、また、それとともに、俺たちの襲撃という村の大惨事は、ゆっくりと過去のものになりつつあったのである。


 いつまでも過去に囚われているべきではない、といった意見が、新しく村に入った男たちを中心に広がりつつあるのを、当の俺も肌で感じ取っていた。それに合わせるように、いつしか、俺の足輪は外されていた。だが、それは俺が長年の虐待で弱りきっていて、この村から逃亡する恐れが無いという理由からだったが。


 だが、ヘレナの苛烈さは相変わらずだった。俺に対する暴行は止むことなく、時に村の男たち、また、ときには女たちに諌められることもあるほどだった。

 ことに、彼女が激怒したのは、ヘレナの6歳になる息子アレクが、俺に懐いてしまったことだった。


「マルクおじちゃん! 森にチイラの木の実を取りに行くの、いっしょに行こうよ!」


 今日もアレクは、母の目を盗んで俺のもとを訪れる。俺は薪を割る手を止めると、白いものが大半を覆って久しい髪をかき回しながら、ため息をつく。


「俺を誘っちゃ駄目だと、母さんからいわれているだろう? アレク」

「そうだけど、僕ひとりじゃ、チイラの木は登れないし」


 すると俺と一緒に薪を割っていた、村の男が苦笑混じりに言った。


「いいじゃねぇか、行ってやれよ、マルク。ヘレナには俺がごまかしておいてやるよ」

「……いいのか?」

「あぁ、マルク。あんたもたまには、息抜きが必要だろうしな」

「わーい、マルク、行こう行こう!」


 アレクが喜びのあまり俺の手を掴んで振りまわす。俺はヘレナに時の仕打ちを想像して、内心、怯えながらも、アレクの手を取り、森の方向へとゆっくり身を翻した。



 村外れの森のなかの空気は、新緑の匂いに包まれていた。それは俺がその数年吸ってきたどの空気よりも、清涼で、俺は思わず深く息を吐き、吸うのを繰り返した。それを見て横を歩くアレクが笑う。


「そんなに気持ちいい? マルク」

「ああ、こんなに気分がいいのは、この村に囚われて以来のことだよ」

「囚われて? マルクはいったい、何でここに来たの?」

「母さんから聞かされて無いのか? アレク」


 俺は草いきれを踏みしめつつ、意外な気持ちでアレクに問うた。木々を渡る風と陽のひかりの心地よさに目を細めながら。


「うん、ただ、マルクには近づいちゃ駄目、って言うばかりなんだ」

「そうなのか」


 その時、俺の視界をなにかが掠めた。黒く細長い紐のような、影。それが、アレクの足元を這っている。

 ……蛇、それも、あれは、毒蛇だ。


「アレク!」


 俺が叫んだ時にはもう遅かった。アレクの手が力なく垂れ、チイラの青い実が詰まった籠が、俺の足元にゆっくりと落下するのを俺は呆然として見やった。アレクの膝ががくん、と崩れ、森の木漏れ日のなかに、どさり、とその身体を転がす。


「噛まれたか……! アレク、しっかりしろ!」


 俺は蒼白な顔のアレクの身体を揺さぶった。そしてアレクの膝に痛々しく刻み込まれた蛇の牙の跡に、唇を這わすや、勢いよく毒を吸い出す。何も考えている余裕は無かった。木々を揺らすやわらかな風と、チチチ、という小鳥の囀りを浴びながら、ただひたすらに、俺はアレクの膝から毒を吸って吐き、吸っては吐いた。そのうち俺の体内に入った毒が意識を浸し出す。


 俺は急速に朦朧としていく意識のなか、自分の生がこんな形で終わることをどこか意外に思う。


 ……てっきり、ヘレナの虐待のすえ、老衰して死んでいくとばかり思っていたのにな……。


 俺は思わず笑った。笑ったつもりだった。だが、唇を軽く歪ませることができただけかもしれぬ。それを確かめることもできぬまま、俺の痩せこけた身体は森のなかに転がる。


 悪くは無い死に方だ、と、走馬灯のように頭を巡る自らの人生を顧みながら。


 ……そうだ、あんな罪をも、犯したというのに。

 ああ、そうだ、あの晩、俺はヘレナを……。

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