第8話 ヘアカット
そろそろ切りたいな、と思った頃には、どこでもらってしまったのやら、コロナになった。それからしばらく怠くって、日常生活プラス息抜きでいっぱいいっぱいだったから、切りに行けなかった。のびのびになったらなんかどうでも良くなって、髪なんて気にせずに生きた。そうして今、いい加減鬱陶しくなって、ようやく重い腰を上げようとしている。
散々逃げ回っている間に何が起きたかといえば、毎月恒例かのように物価が上がり続け、大好きだったお菓子ももれなく値上げされて、こんなに払うくらいならこっちでいっかぁ〜、なんてパチモンに切り替えたり、ウィンナーを買ったら悲しくなるくらいちょびっとしか入っていなかったりした。
給料が上がらないくせに、出ていくものばっかり増えていく。ああ、だからだ。だから逃げ回らざるを得なかったんだ。私は悪くない。私は怠惰じゃない。社会が悪い。国が悪い。世界が悪い。私の髪が伸び伸びなのは、こんなに淀んだ世界にした神のせい。
給料が増えていたら、大好きなものがちょっと高くなっても、ウィンナーがちょびっとしか入っていなくても、「あっそ」くらいにしか思わなかったはず。そうして、余裕綽々「髪切りに行くぜ〜」と予約サイトを開いたはずだ。
いい加減切るか、と、重怠い指を強引に滑らせ、予約サイトへアクセスする。かったるい。電話じゃないだけまだマシだけど、ポチポチするの面倒臭い。
ログインIDはかろうじて分かる。けど、パスワードは何だったっけ? ああ、もう諦めちゃおっかな。
適当に入れたパスワードがビンゴで、マイページがパカっと開くと、怒りが沸々と湧いてきた。
自分、セキュリティ激甘すぎ!
もう、予約そっちのけでパスワードを変更したい気分。でも、今それをしたら、いよいよこのサイトにアクセスできなくなる気がしてやめた。たぶん、前にここにアクセスした時も、同じことを思ったんだろうな。ね、そうでしょ? 過去の私。
お気に入りページに遷移する。
あー。当たり前っちゃ当たり前だけど、ヘアカット代もお菓子やウィンナー同様値上げされてる。
まぁ、電気水道ガスだって、例外なく値上がっているわけだ。「値上げするな」などとは口が裂けても言えない。が、しかし。
「それなら、1ヶ月後でもいいかなぁ」
こうして私は、ようやく開いた予約サイトを閉じた。
それから、3ヶ月がたった。
もうすぐ、ほとんど失われし友人の残党、ユアと久しぶりに遊びに行くことになっている。それまでに、切ったほうがいいかなぁ。
ユアはクラスで一番ってくらい髪が綺麗だった。きっと今も、トゥルトゥルなんだろうな。伸び放題の私と横並びになったら、惨めな思いをするかもしれない。
でも、たぶん清潔感さえどうにかできれば、それでいいんじゃないかと思う。オイルつけたり、結んでグルグルしてピッてとめれば、どうにかなるんじゃないかな。
なんてユアに言ったら、「そんな努力をするくらいなら髪を切りに行けばいいのに」って返されちゃうんだろうけど。
面倒なんだよな。首突っ込んでピコピコして指定した髪型にしてくれるマシンでもあれば、首と札を突っ込みに行くんだけどなぁ。
あー。分かった。私、今気づいた。
髪を切るのが面倒なんじゃない。髪を切られるのが面倒なんだ。
じゃあ、いっそ坊主にすれば良くない?
バリカンでビビーってするくらい、自分でできそうだし。
あー、でも面倒臭い。
世間は見た目上、髪を必要としている。人体は頭部保護の都合上、髪を必要としている。
きっと、想像し得ない坊主は、不思議な目を向けられるんだろうな。歳を重ねたおじさんとかだったら、加齢でそうなったんだろうな、くらいなんだろうけど、そうじゃない人だったら、『あの人なんで禿げてんだろう』とか、『禿げちゃう病気なんだ、可哀想』とか思われちゃうんだろうな。
なーんて、こんなネガティブな想像はきっと、私の中にある偏見で、実際に私みたいな偏見を持っている人なんてそんなにいないのかもしれないけど。
「ねぇ。あたし、これから坊主にするんだ」
「……は?」
「薬の影響でさ、抜けてくみたい。だからさ、どうせツルツルになるなら、もう、そうしちゃおうかなって思って」
ユアの告白は、私の心に稲妻を落とした。ユアは髪にこだわりがあるくせに、髪にこだわらない私と「こだわりを持つものは人それぞれだから」って、適度な距離感で接してくれた、女神みたいな人。
そのユアが坊主?
「……じゃあ、一緒にしよう。私、そろそろ髪切りたいって思ってたの」
「ははは。ミィ、せっかくそんなに伸ばしたのに。もったいなくない?」
「ユアは知ってるでしょ? 伸ばしたくて伸ばしてるんじゃなくて、面倒臭がってる間に伸びちゃっただけ」
鏡の向こうに、ふたつの坊主。
「本当に良かったの?」
「いいの。私、今、いろんな意味でスッキリしてる。これは、寄付させてもらうね。まわりまわって、ユアの髪の毛になったらな……なんてさ」
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