4-7.しとやかな乙女

 ――お父さん、お母さんへ。


 そちらはどうですか?


 変わらずに元気に働いていますか?


 いつも泥だらけになって頑張っていますか?


 私も、こっちで泥だらけになっています。掃除をしたり、食事を作ったり、下働きばかりだけど、いつか認めてもらえる日が来ると思って頑張っています。でも心配はいりません。後宮は豊かな場所だから、そんなに不自由はしていないから。


 それに、ちょっといい知らせがあります。

 

 今度、妃の侍女になることが決まりました。


 今、化粧のやり方を覚えています。みすぼらしい恰好はできないからって、私も化粧をしていいみたいで、これからは華やかな場にも参加するから、もしかして帝に見てもらえて、それで私も妃になれたりして……なんて、あるわけがないけれど、この五年の苦労がやっと報われたって、段々と楽しくなってきました。


 早速、お父さんたちに報告したくて、こうして字の書き方も教わりました。


 これからもまだまだ苦労するだろうし、悩むことも多いだろうけど、私はここで元気にやっているって伝えたかった。後宮には綺麗で、素敵で、本当に美しい花ばかりが咲いている。だけど私は野に咲いている花にだって魅力はあると思う。


 私は、ひっそりと咲く野花になりたい。


 後宮に咲く、一輪の華になりたい。


 だから応援してください。


 私も二人の健康を祈っています。



 ――愛緑アイリュより。

 


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「ここの花、枯れちゃったんですか?」

「どの花のことかしら?」


 静月ジンユェが、九訳殿の庭で身を屈めている。掘り返された土を見つめているらしく、英明インミン静月ジンユェの背中から覗き込むと焦げた茶色の土が所々で盛り上がっている。あれは庭師が雑草を掘ったせいで、外から飛んできた雑種の花も取り除いていたように思う。


「庭師が手入れをしていたから、そのせいかしらね。春の牡丹ぼたんが綺麗に咲くようにしますって言っていたから」

「……そうなんですか。ちょっと、残念」


 静月ジンユェは丸い背中のまま、寂しそうに爪で土をいじっている。


「いったい何の花だったの?」

「どこにでもあるような野花だったから名前までは分からなくって……それが、ここでは珍しかった」


 後宮の庭園は丁寧ていねいに扱われている。季節ごとの花々が映えるように、主役の栄養を奪わないように雑草や野花は定期的に摘み取られる。そういうのを気にして心を痛めているのは、随分と繊細なのだが、静月ジンユェのこういうのは今に限ったことではない。


「後宮に似つかわしくないけれど、必死に頑張っているなぁって、見習わないとダメかなって。もしかすると、あの子も、そんなことを思っていたのかもしれない」

「……そういえば、似たようなことを書いていたかな」


 英明インミンは思い出す。一年ほど前に、故郷の両親に手紙を出したいと九訳殿に字を習いにきた少女のことを。身分の低い宮女で、新調してもらった服がまだ馴染んでいない、名前の通りに愛らしい子だった。何度も英明インミンが字を添削てんさくして遅くまで筆を取っていた。手紙を書き終えてから少し間を置いて、一度だけお礼を言いにきた。目の下にくぼみができて、疲れているように見えた。


 以来、彼女は二度と九訳殿には来なかった。


 九訳殿に文字を習いにくる宮女は多いから彼女もそのうちの一人に過ぎない。英明インミンが彼女の現在いまを知ったのは、静月ジンユェからの沈んだ報告だった。四夫人しふじんとの面会で、知っている宮女が死をたまわって思うところがあったらしい。


「みんな……愛緑アイリュのことは気にしなくていいって言うけれど、私にもできることがあったんじゃないかって。彼女が私の所に来たのは不純な動機だったのかもしれないし、賢妃に毒を盛ったのは許されることではなかった。だけど、誰かに助けてほしかったんじゃないかと、今になってそう思う」

「それは難しい問題ね。実際に助けて欲しいと言われていないのだから気に病む必要がないっていうのが正解だけど……そんなに心残りなら、最期にきちんと話をしておく? 勝手に来られて迷惑だと思われるかもしれないけど、見送りがないのは寂しいでしょうから」


 英明インミンの提案に、静月ジンユェは立ち上がる。そうしてゆっくりとうなずいた。


 後宮の南西には『湯灌ゆかん堂』という、名前の通りに死者をとむらう場所がある。


 後宮で亡くなった者は男女問わずにここで死体が洗われて、妃であれば当人の住まいへと、宦官や宮女であれば近場の安置所に一時的に保管される。命の価値が軽い後宮とはいえ、死者へのとむらいは丁重である。だから宮女でもきちんと身体を清めてくしで髪をといで、衣装に身を包む。そうして可能な限りは、えい車(※簡素な棺)で故郷にまで運ばれる。


 後宮に入る時には真南の門から、出るときは南西の門から。


 どちらも一方通行。


 皮肉なことに、これが宮女が故郷に帰るための最短の道となる。とはいえ死体だけでも戻れるならまだましで、身寄りのない者や異国からさらわれて強制的に宮女にされた者には帰るべき場所がない。そういう場合は、共同墓地へと移送されるのが通例だ。都から離れた山林か、もしくは人工的に設置された丘に埋められることになる。


 今回の騒動で亡くなった愛緑アイリュには、帰るべき故郷はあるが。


 四夫人しふじんに毒を盛ろうとした重罪人であるため、さすがに丁重に送り届けてはくれない。それでも身体を清めて、衣装を着て、共同墓地には埋葬されることにはなった。死んだ当人からすれば大差のないことかもしれないが、これから見舞う側としては、最低限の尊厳が保たれているのは心の救いだ。


 英明インミン静月ジンユェは人目を避けて、夕暮れの陰る頃に湯灌ゆかん堂を訪れた。


 近くにある安置所の庭園にまで入ると、そこで二人の女が背を向けて立っている。


 英明インミンたちは咄嗟とっさに樹の裏に身を隠した。


 屈んで、首だけを突き出す。


 こんな時間に、こんな場所を訪れるのは何の用か。よこしまな目的でもあるのか。それにしては高貴な身なりで、一人は妃で、もう一人は侍女で、あの後ろ姿を見たことがある。あれは――


 紫萱ズーシェン妃だ。


 夕暮れの紅が登って、遠くの空に揺れている。雲が流れて影となり、紫萱ズーシェン妃と侍女を覆い隠す。再び影の中から二人が姿を現しても、まだその場から動いていない。そのうちにカラスの鳴き声がした。


「……窈窕ようちょうたる淑女しゅくじょは、君子の好逑こうきゅう


 紫萱ズーシェンがこんなことをつぶやいた。


窈窕ようちょうたる淑女は、寤寐ごびこれを求む」


 うたっているのは、詩経の関雎かんしょだ。これは男が美しい女を求める求愛の詩で、品のある愛の告白なのだが、どうして紫萱ズーシェンはこれを詠んでいるのだろう。さすがの英明インミンも意図をすぐには察することができず、首をひねっていたが、


これを願いて叶わざるは、寤寐ごびこれを願う」


 この一文を聞いて、おおよそ察した。


 この節は本来の詩ではなく、紫萱ズーシェンが言葉を変えている。『これを願いて』は、しゅく女として、君子の良き連れ合いとして見染められることを示していて、それが叶わないのなら、寝ても覚めても、願い続けるしかないと言っている。



 ――美しくて奥ゆかしい乙女は、君子の良き連れ合いである。

 ――しとやかな乙女は、寝ても覚めても想い求められる。

 ――それを願っても叶わないのなら、寝ても覚めても願い続けるしかない。



(……誰にも目を掛けられなかった宮女の、心情を詠ったのね)


 英明インミンがこう解釈したところで、紫萱ズーシェンは自分の髪からかんざしを引き抜いた。


「……あなたは綺麗よ、愛緑アイリュ妃」


 腰を屈めて、しばらく眺めている。


 やがて振り返ろうとしたあたりで、英明インミンは首を引っ込めた。


 足早に紫萱ズーシェンと侍女が、その場を去ってゆく。わざわざ人目に付かない時間帯を選んで訪れたからには見られたくはないのだろう。だから敢えて声は掛けなかった。


「……紫萱ズーシェン


 静月ジンユェは微かな息を吐くように小声で言って、紫萱ズーシェンの背中を見送っている。そうして樹の陰から姿を現して、本来の目的へと、愛緑アイリュが安置されている棺の前に向かう。


 ふたが少しだけ開いている。


 その中から安らかに目を閉じた、愛緑アイリュの真っ白な顔が見えている。顔の横に紫の花が添えられて、髪には銀色のかんざしが差してある。


「私……やっと分かりました」


 静月ジンユェも自分の髪からかんざしを引き抜く。

 

「きっと紫萱ズーシェンも彼女を犠牲にしたことを悔やんでいた。それは……もっと早くに私が感じるべきことだった。命の保身に怯えるより、もっと、早くに」


 静月ジンユェは水晶のかんざしを、紫萱ズーシェンとは反対の髪に差した。


「……私、嬉しかったんです。理由はどうあれ、私の所に来てくれたことが嬉しかった。だから愛緑アイリュには戻ってきて欲しかった……それを願っているだけじゃ、ダメだったのに。他人に頼ってばかりで、それじゃあ、ダメって分かっていたのに……何もしなかった。何もできなかった……もう遅いけど、勝手だけど、せめて」


 そう言って、やっぱり静月ジンユェは泣いてしまうのだ。


 でも、それでいいと英明インミンは思う。対照的な二人だからこそ成し得る大業があるのではないかと。


 この春に、香梅堂の梅の花はますます、色味を深めていく。


 白と赤に染まって、甘美な芳香に包まれていく。


 そういう中に、たった一つだけ紫の花があるらしい。その花を静月ジンユェは、一番、好きだと言っていた。


 でも、その紫も。


 白い花がなければ、また、輝かないのだと英明インミンは思う。


 

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宮廷の九訳士と後宮の生華 狭間夕 @John_Connor

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