4-6.後宮の毒3

 可昕クーシンは二十歳を過ぎるまで、敗北を知らない娘だった。


 父は北方の監察を勤める按察使あんさつしで、母はかつての名門だった劉氏の血を引いている。両親は出世や顕示欲の強い性格だったため地方行政だけでは満足に至らず、門閥もんばつ貴族の仲間入りを果たそうとした。そうして当時十八だった可昕クーシンの後宮入りを目論んだ。


「ねえ、可昕クーシン。後宮に入るんだって?」

「誰から聞いたの? 推薦すいせんはされているけど、まだ決まってない。それに後宮には綺麗な人ばかり集まっているって聞いているし」

「え~、可昕クーシンなら絶対に間違いないよ。ねえ、皇后になったら、ちょっとは贔屓ひいきにしてよ」

「皇后って、あれは最初に決まってるんだってば。でも、そうね、せめて四夫人くらいにはなれるかな」


 幼少から愛らしかったため周囲から過度に褒められて育った。それで可昕クーシン自身も大変に自尊心が高い娘になった。これは父が監察であったことへの尺度も含まれてはいたが、彼女が優美であることに間違いはなく、地元で一番の評判だったのも確かだ。


 自分の身体を求めようとして、下心を丸出しにする男ども。


 仲間に入ろうとして、すり寄ってくる女ども。


 美に恵まれて、地位にも恵まれている彼女にとっては、周りの人間は彼女を持ち上げるための存在に過ぎない。だから後宮入りを推薦すいせんされた時も表面上は不安などと芝居をしていたが、本当は何の心配もしていなかった。実際に、同時期に推薦された数十人の中で後宮入りを果たしたのは、彼女一人だけだった。


「才人(※正五品)からになりましたね」

「まあ、いきなり九嬪きゅうひんとはいかないか」


 侍女の艺沐イームゥの言葉に、いくら高官とはいえ地方監察であれば仕方がないと思った。後宮には将軍の娘だったり、門閥もんばつ貴族として古くから都に仕えている一族もいる。だから最初の地位が中途半端なのは彼女自身の敗北にはならない。案外、父も大したことないと感じつつ、後宮入りの推薦は両親の力なのだから、それじゃあ私が引き上げてあげましょう、くらいの気持ちだった。


 初めての九人会も、まあ、大したことないと感じた。


 一緒に演武をする才人九人は、まず、話にならない。器量が悪い女ばかりで、むしろこれと同列扱いなのに腹が立ってくる。美人九人や、婕妤しょうよ九人に関しても、「あ、そう」くらいの感想しか浮かばない。皇帝側に座っている面々としては、皇后はさすがに聡明で気品があるけれど、最初から可昕クーシンは皇后の地位を狙ってないので比較の対象にはならない。肝心の四夫人しふじんは見学に参加しておらず、では、九嬪きゅうひんといえば――


 さすがに、彼女たちには華がある。


 階級通りに、二十七世婦とは格が違う。


 漂う気配に有象無象の妃とは大きな差がある。それは整った顔立ちだけではなくて、背筋を伸ばした美しい姿勢や茶を飲む手の仕草にまで、おそらく出自の違いがそういう所作にも表れるのだろう。彼女たちは自信に満ちているし、多くの美人の中にいる一人、ではなくて、個々の特性を理解して自分たちなりに表現している。


 なるほど、九嬪きゅうひんが四夫人に次ぐ地位にあるのも納得だ。


 先帝は早くに崩御したため、現在の四夫人には空いている席もあるという。では、ここにいる彼女たちと四夫人の座を争うことになる。今から一人一人を品定めしておくべきか。


 可昕クーシンが、さっと見渡したところ、


 そういう九嬪きゅうひんにあっても、一人、更なる別格がいた。


 美貌びぼうで格別というよりも、放っている気配が違った。


 それは後に賢妃になる袁杏エンシン妃だった。当時の彼女はまだ一つ下の十七歳なのに、まるで血を失っているかのような白い肌をして、その反面、燃えるような熱情を秘めた鋭い眼光を放っている。獰猛どうもうな猫のような両目が尖っているのに、やけに気配は冷えている。殺気があって、それでいて冷静なようで、本質が全く分からない。ただ、一つだけ確実に言えることは、『近寄ってはならない』という命の危険を感じること。おそらく同じことを他の妃も感じているのだろう、袁杏エンシン妃の両脇の九嬪きゅうひんは、多少の空間を開けていた。


 でも、袁杏エンシン妃とは競い合う性質が違うとも思った。


 可昕クーシンとしては気品や美で勝れば良いのであって、別に武力で後宮を統一したいわけではない。要するに袁杏エンシン妃とは関わらなければいい。彼女を除けば、せいぜい、他は自分と同程度。後宮という場に慣れさえすれば勝つのは自分に決まっている。しかも二人くらいは年齢が三十を迎えていそうだから、では、あの席を狙って九嬪きゅうひんに昇格すればいい。そうして、いずれは四夫人になればいい。この頃は、そう思っていた。


 現実を思い知らされたのは、二年後。


 可昕クーシンは徐々に頭角を現して、才人から美人へ、美人から婕妤しょうよへと順調に階級を上げていった。婕妤しょうよ妃になった十九歳にして初めて夜伽よとぎに指名された。それで当時の修媛妃と入れ替わりに、九嬪きゅうひんの椅子をつかんだ。


 去った妃は三十を過ぎて子宝に恵まれなかったと聞く。出家することで引退の道を選んだとも聞く。出て行きたければ出て行けばいいと、可昕クーシンの心は何も痛まない。むしろ子を成せなかったのを負け犬だと心の中で揶揄やゆしていた。だが、このしっぺ返しを自分も喰らう羽目になった。


 可昕クーシンも、なかなか子を授からなかった。


 そもそも皇帝はどの妃に対しても子を多く成せなかった。つまりは女側の責任ではない。人は皇帝の体質によるものだと語っているが、本当は子作りとは別の性癖が強いせいで、肝心の行為には至らないことが原因だと可昕クーシンは身をもって知った。


 それでも、二十歳になって、やっと女児を授かったことで不安が解消された。


 男児であれば、なお、安泰だったが、公主として血縁関係を増やす後ろ盾になる。子がいるのと、いないのとでは大違い。早速、有力な貴族が将来の婚姻を約束しようと父に言い寄っているらしい。これが父の出世にも繋がって、ついに四夫人の座も見えてきたと、順風満帆のように思えた。


 だが、最初に敗北を悟らされたのは、貴妃の存在だった。


 以前の貴妃が病没して、では自分が昇格すると思っていたのに、指名されたのは自分よりも二つ下の妃だった。


 彼女の名前は、王麗ワンレイという。


 王麗ワンレイの出自は南の門閥もんばつ貴族で、その中でも最上位の存在だった。先代よりも前の、旧皇帝の血筋でもあるらしい。つまり家柄で既に負けている。それだけならまだしも、新しい貴妃に対して九嬪きゅうひんとして挨拶に伺った際に、


此方こなたの力になっておくれ」


 他を圧倒する美貌びぼうに格の違いを悟った。目、鼻、口は当然のこと、腕が、指が、髪の毛の一本一本までもが、同じ世界に生きている存在とは思えない。自分は地元では一番の美だった。後宮に来てからも誰にも見劣りはしなかった。この時代において、自分は上位に位置する女だった。だけど目の前の女は――


 現世を超越した、絶世の美女だった。


 出自も上で、美も上で、気品も、おそらくは知力すらも上。


 全てにおいて敵わない。


 この時、可昕クーシンは自分の周りにいた女のことを、やっと理解した。これまで周囲の人間は自分という太陽をあがめるだけの存在だった。それと同じことを今、私がされている。王麗ワンレイ妃の前では、自分はただの装飾品に過ぎない。


 とはいえ、この時点ではまだ四夫人の座を諦めてはいない。貴妃の座は無理だとしても、他の席を狙うことはできる。そういう野望をいとも簡単に砕いたのは、あの九人会にいた袁杏エンシン妃だった。


「失脚……されたそうです」


 侍女の艺沐イームゥの報告に、可昕クーシンは肩を落とす。出生街道を歩んでいた父が追放されたというのだ。聞けば、按察使あんさつしとしての器量を疑われたとのこと。不正があり、内乱があったらしく、鎮圧できなかった父は責任を取らされた。代わって内乱を沈めたのは、袁杏エンシン妃の一族だった。袁一族は瞬く間に北方を再統一し、帝に領土の一部を返還することで確固たる地位を築いていた。


 それで一つ下の、袁杏エンシン妃が先に賢妃となった。


「わらわの席が欲しいか」


 玄武宮に拝謁はいえつした時の、彼女の第一声。


「お前は九人会で、わらわを見ていたな。あの目は野望に満ちていた。いずれ戦うことになると思っていたが、お前の父は相手にならなかった。では、お前がわらわを殺しに来るか? いいぞ、受けて立とう」


 袁杏エンシン妃は剣を投げる。


「いつでも刺しに来い。だが失敗すれば、お前は死ぬ」


 後宮は新勢力である王麗ワンレイ派か、袁杏エンシン派かに分かれつつある。可昕クーシン王麗ワンレイ派に所属するのは必然だった。袁杏エンシンは父のかたきでもあるし、何よりも、彼女が恐ろしい。身を守るためには王麗ワンレイの魅力にくみするしかなかった。


 もう、可昕クーシンは四夫人になろうとは考えなくなっていた。


 四夫人になれば自力で彼女たちと戦わなければならない。だけど、その自信がない。そもそも四夫人になる妃は地位に足踏みなどしない。九嬪きゅうひんの座に長く留まることがない。後宮入りにしてから、たった一、二年で四夫人にまで登りつめてしまう。


 これは後に姜帆チャンファン妃が証明することになる。


 姜帆チャンファンは十四で後宮入りして、わずか一年でしゅく妃となった。東方の幼魔と評される彼女は王麗ワンレイとは違った性質の美を持ち、関わった男は骨抜きにされて抜け殻となって、最後は廃人になると噂される女だった。実際に帝は一夜にして幼魔におぼれた。たった一回の夜伽よとぎで四夫人になった。


 だから可昕クーシン九嬪きゅうひんの椅子にしがみついた。


 修媛しゅうえん妃であることが自分の人生の代名詞になった。


 それを守るためなら、どんな汚いことでもやった。


 そうして白髪が増えていく。


 かつての可昕クーシンは愛らしい娘だったのに。


 高慢で、自信家で、他人を見下す性格ではあったが、どこか憎めない可愛さがあった。「私に任せておけば、大丈夫」なんて、自信満々の笑顔を見せる女だった。


「おのれ、あの女、帝に此方こなたの悪口を言いおって! 此方こなたを汚い手を使って陥れたに決まっている!」


 疑心は自分を写す鏡である。


 静月ジンユェは何もしていないのに、自分が謀略に手を染めてきたからこそ他人が同じことをすると考える。


 後宮の毒が全身に回り、いつしか、可昕クーシンは笑わなくなった。


 可昕クーシンが後宮に入ってから、八年が過ぎた。


 未だに彼女の夢は叶わないまま、ついに毒殺の容疑で捕まった。


「賢妃・袁杏エンシン妃に対する毒殺未遂の罪で、冷宮らんごんに移せとのお達しです」

「馬鹿な!」


 内侍からの決定に、身に覚えがない。


「賢妃に対して、そんなことをやっておらん! 此方こなたが憎むのは、あの静月ジンユェだ」

静月ジンユェ修援妃が、どうかされたのですか?」

「修援妃は此方こなただと言うておろうが!」


 可昕クーシンは抗う。身柄を拘束されて、必死に抵抗する。


「どうして、此方こなたが疑われている!」

「侍女の愛緑アイリュに指示した罪です。これは賢妃だけでなく、貴妃側からも証言があります。静月ジンユェ修援妃まで葬ろうとしたと」


 ここで、あの輿みこしで軽蔑の眼差しすら向けなかった、冷たい顔を思い出した。


 められた。


 あの王麗ワンレイは、落ち目になった自分の代わりに静月ジンユェを迎えて、嫉妬で毒殺を狙うと読んで、それでいて、愛緑アイリュを賢妃の元へと送り込んだ。


 確率は低いが、賢妃が死ねば、それで良し。


 もし静月ジンユェが一緒に毒で死んでも、毒殺を疑われて賢妃に殺されても、それはそれで良し。


 最後は可昕クーシンに押し付けて、これまでの口封じが完了する。


 これが尽くしてきた、自分への仕打ち。


「わんれぇぇぇいい! あの売女がぁあ!」

「貴妃娘娘にゃんにゃんへの侮辱とみなします。おい、連れていけ」


 かつての愛緑アイリュにやったように、今度は自分が引きずられる。でも、たった一人だけすがる女がいる。


可昕クーシン妃、私も、一緒に、冷宮らんごんへ」

艺沐イームゥ、お前は残れ!」

「嫌です、ずっと一緒だったではないですか、どうか、私も!」

「お前は残って、此方こなたの娘を……あのを、守って……」


 可昕クーシンは母だ、たとえここで自身が滅びようとも、せめて、あの娘が幸せになってくれれば。


 最後に抱いたのは、いつだったか。


 あれから大きくなっただろうか。


 もう、可昕クーシンに知るすべはない。

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