4-5.後宮の毒2

 続いて、静月ジンユェ姜帆チャンファン妃の宮殿へと向かう。

 

 貴妃の朱雀宮から東へ、そこから少し北に上ったあたりに青龍宮がある。五大宮を繋ぐ道幅は一様に広い。これは宦官や宮女がそれだけ行き来をするための配慮であり、四夫人の暮らしの豊かさと権力の象徴にもなっている。


 そういう道すがらで、幾人かの妃と擦れ違った。


 同僚の九嬪きゅうひんに、二十七世婦に、その下の八十一御妻と会釈をした。自分がさっきまで居た方向を目指しているから、もしかすると、全員が貴妃の宮殿に行くつもりなのかもしれない。それだけ皆が王麗ワンレイ妃の魅力にかれているのかもしれない。自分も、その一人になった。こうして朱雀宮から離れるにつれて、王麗ワンレイ妃の余韻に後ろ髪を引かれているのだから。


 安梅アンメイの言う、「夢中になりすぎないように」との忠告は分かるけれど。


 仲良く接してくれているのだから敢えて距離を置く必要はないと思う。


 これまで後宮で優しく接してくれる妃なんていなかったし、無視されてばかりで話し相手になってくれる妃はいなかった。皇后は優しい人、だけど、あまりに身分が違い過ぎる。呼ばれもしないのに勝手に行ってはいけない気がする。それを王麗ワンレイ妃は「いつでも来て欲しい」と言ってくれた。あんなに時間を割いてくれて、社交辞令ではないと感じた。


 四夫人は、もっと怖い人たちだと思っていたのに。


 決めつけていたのは私だ。


 静月ジンユェ英明インミン王麗ワンレイ妃のような、強い大人の女性になれたらといいと願う。二人の美の性質は違うけれど、絶対にああいう風にはなれないけれど、いつか、少しだけでも近付けたらいいのに。


しゅく娘娘にゃんにゃんは留守にしております」


 青龍宮に着いて、もう前向きになっていたから、できるだけ笑顔で話しかけた。それでも青龍宮の門の外では無下に払われた。


 貴妃の酔いから一気に目が覚める。


 門番の宦官は要件を尋ねることもなく、姜帆チャンファン妃がいつ戻るかを教えてくれることもなく、そもそも会う気があるのかすらも分からない。昇格の挨拶は正統な理由なのに、これで拒否されれば会うすべがない。実のところ、姜帆チャンファン妃だけは贈り物がなかったから好かれていないと思ってはいた。それでも貴妃が素敵な人だったから、姜帆チャンファン妃も良い人だと楽観的に考えていた。


 さっきまでとは、あまりの温度差に面食う。


 そうして、いつもの現実に戻される。


「……嫌われてるのかな」

「お気になさらず」


 落ち込んで、肩を落としたところを安梅アンメイが励ましてくれる。


「誰にでも、こうです。淑妃が誰かと一緒なのを見たことがありません」


 言われてみれば、朱雀宮から青龍宮に向かうにつれて人が減ったように思う。行き来するのは荷を運ぶ宦官や宮女ばかりで、朱雀宮の時とは違い、妃を一人も見なかった。同じ方向を誰も目指さないし、誰も引き返してこなかった。


 彼女も嫌われているのかな。


 いや、四夫人なのだから姜帆チャンファン妃から求めさえすれば、誰もが快く応じるはず。つまり拒絶しているのは姜帆チャンファン妃からで、わずらわしい人間関係が嫌いなのかもしれない。そういう負の側面は自分と似ているのかもしれない。


 いったん、この場は引き下がることにした。


 会ってもらえないのだから仕方がない。


 では、このまま北に向かって、最後の賢妃のいる宮殿に、玄武宮を目指すことにする。


「……どうしたの?」


 真横の安梅アンメイの足が止まっている。両手を前に添えて、うつむいて立ち止まっている。肩が震えて、表情が暗い。熱でもあるのだろうか。


「大丈夫? 気分が悪いの?」

「……いえ」


 否定するが、小さい声からして説得力がない。


「疲れているのなら……私だけが行ってくるから、先に戻って」

「そうはいきません。上級妃を単独で歩かせるわけにはいきません。大丈夫です、体調が悪いわけではありませんので……ただ、あの人が、怖いのです」


 怖い?


 誰を?


 今から会う、賢妃のこと?


 安梅アンメイは自分の両肩を抱きしめている。そうして小さくなっている。こんなに弱気な彼女を見るのは初めてだ。経験豊富な宮女として、いつも堂々と振舞っているのに。


静月ジンユェ妃」


 傍に来て、静月ジンユェの袖をつかんだ。


「危害を加えられるわけではありませんから、冷静に対処してください」


 こんなことを言われたら、静月ジンユェにだって恐怖が伝染する。急に不安に襲われて、心臓から貴妃と淑妃の音が消えた。


「お前が静月ジンユェか、よく来てくれた」


 さすがに美しい人だった。


 髪を肩の上で揃えて、前髪も横に揃えて、猫のような両目に肌はとても白い。それが黒の衣装と良く映えている。座っている姿勢からすその切り目に太ももが見えて、とても色っぽい。妖艶ようえん、という言葉が似合うが、色街の最上位の遊女のように場慣れした印象を受ける。


 貴妃、賢妃と立て続けに、こういう美貌びぼうばかりに相対すると同性である静月ジンユェは劣等感を覚えてしまう。それでまた、恐縮してしまう。外見では静月ジンユェも決して見劣りはしていない。精神力で圧倒的に負けているのが原因で、つまり、気の持ちようによっては静月ジンユェも同格になれるはず。


 実際に、こういう冷静な思考が早くも静月ジンユェの頭から消えている。


 それどころではなかった。


 肩の震えが止まらない。


 怖い。


 目の前の人に、まるで温かみを感じない。

 

 安梅アンメイが怯えている理由が分かった。


 この人に逆らってはいけない気がする。


 もし、逆らえば――


「顔を上げねば、話もできんな」


 賢妃の言葉に膝をついたまま、怯えながら顔を上げた。動物としての本能が、静月ジンユェをますます、消極的にさせた。


「度胸が足りんか、これまで人を殺してこなかったとみえる。か弱い性質で後宮を生き抜くつもりか、叶うといいがな」


 よく分からないことを言っている。


「こっちに来て座れ、別に何もしない。怯える必要はない。これでも礼儀は弁えているつもりだ。麒麟きりん宮に行かなくて済まなかった」


 急に謝罪されたので、ここで初めて静月ジンユェは息をした。


「二人ばかり面倒なのがいてな、紹介の場で揉め事を起こすくらいなら、こっちが大人しくしてやるのが礼儀だろう。もっとも、向こうも来なかったろうが。どうした、こっちに来るといい。せっかく来たのだ、長居させるつもりはないが、祝杯くらいは交わそう」

「はい……お気遣い、感謝いたします」


 ゆっくりと立ち上がる。


 外見の冷徹さから想像していたよりも、よく話す人だ。口調はきついが、別に彼女に限ったことではないし、後宮の妃は、たいてい、こういう話し方をする。私が必要以上に怯えているだけかも。何もされていないのに、怖いって決めつけている。そういうのは失礼だ。


「酒はたしなむのか?」

「いえ、あまり」

「だろうな。一杯だけだ、付き合ってくれ。梅を浸けた酒でな、口に合うのかは分からんが」


 貴妃の時のように乾杯を求められた。歓迎はされているようだ。少し大きめの杯が二つ置かれて、侍女が徳利を持ってくる。「失礼します」と言って、酒を注ぐ侍女の顔を見た時に、


 今度は本当に、息が止まった。


 この子を知っている。


 つい、先週に香梅堂にいたから。


 それは、愛緑アイリュだった。


 自分に仕えてくれて、すぐに追い出されてしまったが、いつか戻ってきてくれると信じていた。どうして、賢妃に仕えているのだろう。尚食に返されて、次の勤め先がここになったのかもしれない。だとすれば栄転になるけれど。


「……お前、新人か」


 賢妃は、酒を注いだ侍女を試すように眺める。

 

「はい、勤めて長いですが、ここではそうです」

「この酒、飲んでみろ」

「……あの、それはどういう」

「わらわに二度、言わせる気か。飲め」


 賢妃が酒の杯を突き出して、侍女をにらみみつけている。


 愛緑アイリュは動かない、動けない。焦点を失った瞳で驚愕の色を顔に浮かべて、声が詰まって、何かを言おうとして、それでまた固まった。


「梅の香りに、不純な匂いが混ざっているな」

「失礼……しました。すぐに取り替えて――」

「その必要はない」


 あまりの速さに、静月ジンユェの動体視力では動きを捉えられなかった。いつの間にか賢妃は刀を抜いて、侍女の喉を貫いている。


「……かっ……はっ……」

「愚か者が。わらわが気付かないと思ったか」


 愛緑アイリュが両手で喉を押さる。体を前に傾けて、血が盛大に噴き出る。彼女の返り血は賢妃と静月ジンユェの顔と髪を濡らしていく。


「……あ……え……」


 愛緑アイリュは床に倒れた。両目を見開いたまま赤い渦を広げた。もがいて、もがいて、すぐに絵になった。


「おえっ……うえっ……」


 静月ジンユェがたまらず、椅子から倒れる。腹を抑えて、この間まで一緒にいた女の人形を見て、げえげえと胃酸を吐いた。


「代わりを持て」

 

 賢妃は全く動じていない。二人ばかりの宦官が駆けつけて死体を引きずり、別の侍女が慌てて酒の壺を持ってくる。


「女の血は、美を保つ良薬らしい」


 血の滴る刀の切先を、酒に垂らした。


「わらわは信じていないし、そういう趣味もないが、殺した奴の血を喰らってやるのが強者の義務だとは思わないか?」


 静月ジンユェには理解できない。その言葉も、この状況も。


「この毒を入れたかばねは、前に誰に仕えていた」


 賢妃が、宦官に尋ねた。


「直近では、そこにいる修援妃になりますが」

「ほお……そうなのか、静月ジンユェ


 静月ジンユェは顔を上げた。もう涙を流して、口から胃液が垂れていた。未だに現状を把握できていないが、かなり、嫌な予感がした。


「賢妃娘娘にゃんにゃん


 すかさず、安梅アンメイが助け舟を出す。


娘娘にゃんにゃんはよせ」

「賢妃……さま、そちらの宮女は修援妃の元からは去っております。勤めた数日で暇を言い渡しております。ですから、そういう指示はしておりません」

「なるほど。それで、お前はどうなのだ?」


 賢妃は、項垂れたままの静月ジンユェあごを持ち上げる。


「わらわを殺したいと、そう思ったか?」

「そんな……ことは……決して……」

「本当か?」

「本当……です……私じゃ……ない」

「はっはっはっ! 分かっている、あんまりに怯えるから、つい、意地悪をしたくなっただけだ」


 先程までの威圧が唐突に消えて、額に手をやって豪快に笑った。


「あの女は自分の手は汚さない。用済みを処分するのにも他人にやらせる性格だ。それでも、わらわは思惑に乗ってやるのだ。不快なものだ。おい、静月ジンユェの前は誰だった?」

「いえ……そこまでは、まだ」


 宦官が頭を下げた。


「まあ、どうせ可昕クーシンだろう。すぐに裏を取れ。王麗ワンレイの廃棄処理を手伝ってやるのはしゃくだが、見逃してやるほど甘くはないからな。それに可昕クーシンはいろいろと画策もしてきた。わらわが引導を渡してやっても釣りがくる」

「承知しました、すぐに調べます」


 こう指示してから、今度は静月ジンユェの肩を軽く叩いた。


「いいか、謀略の糸が二重にも三重にも張り巡らされているのがこの場所だ。お前の侍女だった者が、偶然、わらわに毒を盛ったと思うか? この女も、可昕クーシンも、お前も、ただ利用されているに過ぎない。わらわは、お前を利用したりはしない。回りくどいのは嫌いだからな。しかし、助けることもない。自力で上がって、そうしてから――」


 わらわを殺しにくるといい。


 楽しみに待っている。


 賢妃の言葉が、頭にこびりつく。


 静月ジンユェはそれから、どうやって香梅堂まで帰ったのかを覚えていない。おそらくは安梅アンメイが抱きかかえて、ずっと泣いたり、うめいたりして、時折、倒れていたに違いない。


ユェ……ちょっと、どうしたの?』


 すぐに寝室に入る。布団の上に倒れ込んで、くるまって、丸くなって膝を抱えた。


 寒い、心が寒い。


 忘れていた、ここは後宮だった。


 謀略のおりだった。


 他人の不幸を聞いてはいたが、直接は見ていなかったから、自分まで死ぬことはないと、心のどこかで油断していた。


シャオ……怖い、怖いよ)


 迫る死の影に怯える。


 あの人たちと、渡り合える気がしない。


 こんな時に、彼がそばに居てくれたら。

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