4-5.後宮の毒2
続いて、
貴妃の朱雀宮から東へ、そこから少し北に上ったあたりに青龍宮がある。五大宮を繋ぐ道幅は一様に広い。これは宦官や宮女がそれだけ行き来をするための配慮であり、四夫人の暮らしの豊かさと権力の象徴にもなっている。
そういう道すがらで、幾人かの妃と擦れ違った。
同僚の
仲良く接してくれているのだから敢えて距離を置く必要はないと思う。
これまで後宮で優しく接してくれる妃なんていなかったし、無視されてばかりで話し相手になってくれる妃はいなかった。皇后は優しい人、だけど、あまりに身分が違い過ぎる。呼ばれもしないのに勝手に行ってはいけない気がする。それを
四夫人は、もっと怖い人たちだと思っていたのに。
決めつけていたのは私だ。
「
青龍宮に着いて、もう前向きになっていたから、できるだけ笑顔で話しかけた。それでも青龍宮の門の外では無下に払われた。
貴妃の酔いから一気に目が覚める。
門番の宦官は要件を尋ねることもなく、
さっきまでとは、あまりの温度差に面食う。
そうして、いつもの現実に戻される。
「……嫌われてるのかな」
「お気になさらず」
落ち込んで、肩を落としたところを
「誰にでも、こうです。淑妃が誰かと一緒なのを見たことがありません」
言われてみれば、朱雀宮から青龍宮に向かうにつれて人が減ったように思う。行き来するのは荷を運ぶ宦官や宮女ばかりで、朱雀宮の時とは違い、妃を一人も見なかった。同じ方向を誰も目指さないし、誰も引き返してこなかった。
彼女も嫌われているのかな。
いや、四夫人なのだから
いったん、この場は引き下がることにした。
会ってもらえないのだから仕方がない。
では、このまま北に向かって、最後の賢妃のいる宮殿に、玄武宮を目指すことにする。
「……どうしたの?」
真横の
「大丈夫? 気分が悪いの?」
「……いえ」
否定するが、小さい声からして説得力がない。
「疲れているのなら……私だけが行ってくるから、先に戻って」
「そうはいきません。上級妃を単独で歩かせるわけにはいきません。大丈夫です、体調が悪いわけではありませんので……ただ、あの人が、怖いのです」
怖い?
誰を?
今から会う、賢妃のこと?
「
傍に来て、
「危害を加えられるわけではありませんから、冷静に対処してください」
こんなことを言われたら、
「お前が
さすがに美しい人だった。
髪を肩の上で揃えて、前髪も横に揃えて、猫のような両目に肌はとても白い。それが黒の衣装と良く映えている。座っている姿勢から
貴妃、賢妃と立て続けに、こういう
実際に、こういう冷静な思考が早くも
それどころではなかった。
肩の震えが止まらない。
怖い。
目の前の人に、まるで温かみを感じない。
この人に逆らってはいけない気がする。
もし、逆らえば――
「顔を上げねば、話もできんな」
賢妃の言葉に膝をついたまま、怯えながら顔を上げた。動物としての本能が、
「度胸が足りんか、これまで人を殺してこなかったとみえる。か弱い性質で後宮を生き抜くつもりか、叶うといいがな」
よく分からないことを言っている。
「こっちに来て座れ、別に何もしない。怯える必要はない。これでも礼儀は弁えているつもりだ。
急に謝罪されたので、ここで初めて
「二人ばかり面倒なのがいてな、紹介の場で揉め事を起こすくらいなら、こっちが大人しくしてやるのが礼儀だろう。もっとも、向こうも来なかったろうが。どうした、こっちに来るといい。せっかく来たのだ、長居させるつもりはないが、祝杯くらいは交わそう」
「はい……お気遣い、感謝いたします」
ゆっくりと立ち上がる。
外見の冷徹さから想像していたよりも、よく話す人だ。口調はきついが、別に彼女に限ったことではないし、後宮の妃は、たいてい、こういう話し方をする。私が必要以上に怯えているだけかも。何もされていないのに、怖いって決めつけている。そういうのは失礼だ。
「酒は
「いえ、あまり」
「だろうな。一杯だけだ、付き合ってくれ。梅を浸けた酒でな、口に合うのかは分からんが」
貴妃の時のように乾杯を求められた。歓迎はされているようだ。少し大きめの杯が二つ置かれて、侍女が徳利を持ってくる。「失礼します」と言って、酒を注ぐ侍女の顔を見た時に、
今度は本当に、息が止まった。
この子を知っている。
つい、先週に香梅堂にいたから。
それは、
自分に仕えてくれて、すぐに追い出されてしまったが、いつか戻ってきてくれると信じていた。どうして、賢妃に仕えているのだろう。尚食に返されて、次の勤め先がここになったのかもしれない。だとすれば栄転になるけれど。
「……お前、新人か」
賢妃は、酒を注いだ侍女を試すように眺める。
「はい、勤めて長いですが、ここではそうです」
「この酒、飲んでみろ」
「……あの、それはどういう」
「わらわに二度、言わせる気か。飲め」
賢妃が酒の杯を突き出して、侍女を
「梅の香りに、不純な匂いが混ざっているな」
「失礼……しました。すぐに取り替えて――」
「その必要はない」
あまりの速さに、
「……かっ……はっ……」
「愚か者が。わらわが気付かないと思ったか」
「……あ……え……」
「おえっ……うえっ……」
「代わりを持て」
賢妃は全く動じていない。二人ばかりの宦官が駆けつけて死体を引きずり、別の侍女が慌てて酒の壺を持ってくる。
「女の血は、美を保つ良薬らしい」
血の滴る刀の切先を、酒に垂らした。
「わらわは信じていないし、そういう趣味もないが、殺した奴の血を喰らってやるのが強者の義務だとは思わないか?」
「この毒を入れた
賢妃が、宦官に尋ねた。
「直近では、そこにいる修援妃になりますが」
「ほお……そうなのか、
「賢妃
すかさず、
「
「賢妃……さま、そちらの宮女は修援妃の元からは去っております。勤めた数日で暇を言い渡しております。ですから、そういう指示はしておりません」
「なるほど。それで、お前はどうなのだ?」
賢妃は、項垂れたままの
「わらわを殺したいと、そう思ったか?」
「そんな……ことは……決して……」
「本当か?」
「本当……です……私じゃ……ない」
「はっはっはっ! 分かっている、あんまりに怯えるから、つい、意地悪をしたくなっただけだ」
先程までの威圧が唐突に消えて、額に手をやって豪快に笑った。
「あの女は自分の手は汚さない。用済みを処分するのにも他人にやらせる性格だ。それでも、わらわは思惑に乗ってやるのだ。不快なものだ。おい、
「いえ……そこまでは、まだ」
宦官が頭を下げた。
「まあ、どうせ
「承知しました、すぐに調べます」
こう指示してから、今度は
「いいか、謀略の糸が二重にも三重にも張り巡らされているのがこの場所だ。お前の侍女だった者が、偶然、わらわに毒を盛ったと思うか? この女も、
わらわを殺しにくるといい。
楽しみに待っている。
賢妃の言葉が、頭にこびりつく。
『
すぐに寝室に入る。布団の上に倒れ込んで、くるまって、丸くなって膝を抱えた。
寒い、心が寒い。
忘れていた、ここは後宮だった。
謀略の
他人の不幸を聞いてはいたが、直接は見ていなかったから、自分まで死ぬことはないと、心のどこかで油断していた。
(
迫る死の影に怯える。
あの人たちと、渡り合える気がしない。
こんな時に、彼が
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