4-4.後宮の毒1

 紅の貴夫人は、緑の愛娘を救済する。


 光となる道を漆黒が閉ざしている。闇の元凶は北にある。賢者は愚者であり、猛毒を以って御さねば永遠に暗黒に覆われる。


 手筈は既に整っている。


 あとは女神の意思に従うのみ。


 さすれば緑の華が、後宮に咲く。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 静月ジンユェは昇格したお披露目として、久しぶりに皇后の麒麟きりん宮を訪れた。


 前にここに来たのは香梅堂に移転する日だった。あの時は皇后しかいなかったので気が楽だったが、今日は知らない顔ばかりが集まっている。静月ジンユェの紹介が目的なので、正二品よりも上の階級の妃が集合することになっている。


 ここのところ、後宮という千人を超える山の頂上からの目線だった。


 それは静月ジンユェにとっては落ち着かない地位ではあったが、胃を痛める苦悩にはならない。それを今日は、自分が一番下になる。修援は九嬪きゅうひんで真ん中くらいの序列とはいえ、新参者の静月ジンユェには関係ない。実態としては最下位になる。


「皆、揃いましたね」


 謁見えっけんの部屋の奥に座っているのが、皇后・李金リジン妃。皇后は左右の椅子に座っている妃たちを見渡して、真ん中に一人で立っている静月ジンユェを見た。静月ジンユェは、全員が揃った、と言われても皇后の手前の椅子がまだ空席なので、立ったまま動かずにいる。


「今日は新しい修援妃を迎えます」


 これに、急いで膝をつく。

 

 四夫人が来ていない。


 てっきり全員に挨拶すると思っていたのに、皇后こうごうの手前の四つの椅子だけが空いている。奥から序列の通りに座るので、あそこが四夫人の椅子になる。徳妃だけは欠番になっているらしいから、貴妃、淑妃、賢妃の三人は不参加ということになる。


 そういえば、皇后の宮殿に四夫人の誰かが訪問しているのを見たことがない。


 数回しかここに来ていないとはいえ、一度くらいは顔を合わせてもいいはず。皇后は以前に、気の強い妃ばかりだと憂慮していたように思う。もしかすると関係が上手くいっていないのかも。


 静月ジンユェは両膝を床について、皇后に拝礼した。


 それから左右の九嬪きゅうひんに礼をする。


 さすがに九嬪きゅうひんは全員が揃っていて、静月ジンユェを除く八人が左右の椅子に座っている。彼女たちのすぐ後ろには侍女頭が立っている。こんなに多くの視線に囲まれていると、段々と心臓の鼓動が高鳴って、胸が苦しくなってきた。だから見知った人物を見ることで安心を得たいのに、侍女頭の安梅アンミンは真後ろの、入り口側の離れた所に立っている。そうなると、顔馴染みはもう一人だけ。

 

 斜め前に座っている妃に目線を向けたら。


 紫萱ズーシェンと目が合った。


 すぐに「前を見なさい」と口が動く。


 慌てて視線を前に戻した。


 九嬪きゅうひんには当然、紫萱ズーシェンがいる。普段は関係だけれども、こういう場面で知り合いがいるのは心強い。これからも、ずっと彼女とは一緒なのだと考えたら、ちょっと勇気が湧いてきた。それで、もう少し優しくしてくれればいいのに。


「どうぞ、立ちなさい」


 皇后からの許可を得て、静月ジンユェは立ち上がった。


「一層に美しくなりましたね、静月ジンユェ修媛妃」

「いいえ……とても皇后娘娘にゃんにゃんには及びません。ここにいる皆さんの美しさにも、及びません」

謙遜けんそんは変わらないようですね。修媛妃も、ここにいる皆さんも、後宮に仕える身として皆で協力してください。決して帝の心労を増やしてはなりませんよ」

「はい、皇后娘娘にゃんにゃん


 一同が声を揃えたことで皇后は、ゆっくりとうなずいた。そうして空席になっている四夫人の椅子を見てから、


 ふう、とため息を吐いたように思う。


「……披露はここまでとします。それぞれ、お帰りなさい」


 座っていた九嬪きゅうひんが一斉に立ち、礼をして、入口に近い妃から順番に部屋を出ていく。静月ジンユェは最後まで残って、その後に、皇后と少しだけ話をした。「昔は定期的に集まっていたのだけれど」と皇后は心労を吐露とろしていた。やはり気苦労が絶えないらしい。皇后は後宮での頂点に位置しているはずなのに、四夫人の勝手な振る舞いは許されるのだろうか。いったい四夫人とは、どういう人たちなのだろうか。


「それでは、四夫人の宮殿を順番に回りましょうか」


 麒麟きりん宮を出て、安梅アンミンが言う。


「……急に訪問して迷惑にならないかな」

「最初に御付きの宦官が取り次いでくれるので問題ありません。むしろ、下の立場からは積極的に向かうべきです」


 さっき、四夫人がいなかったことで緊張が幾らか緩和されたようには思うが、終わってみれば、まとめて済ませてくれた方が良かった。


 そういう静月ジンユェの心情を察したのか、


「挨拶をするだけですから。それに貴妃とは既にお会いしているので、歓迎してくれるでしょう」


 それは先日のことだった。


 皇后と貴妃と、賢妃が贈り物をしてくれたので、お礼を言いにいくべきだろうと途中まで出向いたところで、正式なお披露目の後にした方が良いかなと思い直した。それで引き返そうとした時に、朱雀宮から外出していた貴妃と会った。


「そなた、静月ジンユェであろう。一度、会いたいと思っていた」


 迷惑にならないように退散しようとしたところを先に呼び止められたから、とても焦った。急いで頭を下げて、贈り物の礼を告げた。


「そなたが喜んでくれれば、此方こなたも嬉しい」


 天女のように微笑む。

 

 なんて、美しい人。


 静月ジンユェは貴妃を間近に見て、一瞬、自分が息をしているのかさえ分からなくなる。同性に対して、ここまで見惚みとれたことはない。紅いかんざしに花を飾り、黒い髪を流して、宝石のような透き通る眼球の上には凛々りりしい眉が乗っている。顔の中心にすっと鼻筋が通って、色気を帯びた唇には赤みが差して、健全な白い肌と長い指に、声は小さく、それでいて、鳥のさえずりのようにはっきりと聞こえる。


「どうした、ほほが赤こうなっておる。もしかして此方こなたを好きになってくれたのか」


 心地の良い声色に耳がくすぐられる。頭の中までくすぐったい感覚がして、それからどういう会話をしたのか、あまりよく覚えていない。気が付いたら部屋に戻っていた。


 静月ジンユェは改めて、貴妃から順番に挨拶回りをすることにした。


 一度会っているとはいえ、貴妃への訪問だけを飛ばすわけにはいかない。序列としても貴妃が一番、上になる。


 四夫人の宮殿は皇后の周りを囲うように配置されていて、


 ――最初は南の、貴妃・王麗ワンレイ妃の朱雀宮。


 ――次に東の、淑妃・姜帆チャンファン妃の青龍宮。


 ――最後に北の、賢妃・袁杏エンシン妃の玄武宮。


 徳妃の席が空いているので、左に回れば序列通りになる。


「また会いに来てくれたのか。嬉しいぞ」


 貴妃・王麗ワンレイ妃は静月ジンユェの緊張を他所に、笑顔で歓迎してくれた。椅子から立ち上がって、食卓机に移動して、「正面に座っておくれ」と手招きをしてくれる。すぐに侍女たちが茶を運び、点心に、饅頭まんじゅうに、クルミやライチや赤い木の実が瞬く間に机を埋めていく。


「貴妃娘娘にゃんにゃん。改めまして、修媛妃になりましたのでご挨拶に伺いました」


 座る前に膝をついて、礼をする。


「それはもう聞いたのに、律儀なのだな。育ちが良いのだ」

「……いいえ、私はその、地方の出身で」

「都以外は地方であろう。此方こなたも都の出自ではない。だから一緒だ、静月ジンユェ


 小さなさかずきを渡される。そこへ、ほんのりと赤い液体が注がれる。


「これは果物を原料とする酒だ、遥か西方より運ばれたものだ。此方こなたの好きな酒だから、そなたと一緒に飲みたい。修媛への祝いとして」


 貴妃が先に飲む。


 つまり、毒は入っていないと言っている。


「いただきます」


 お酒には慣れていないが、こういう場の雰囲気も相まって、とても甘い味がした。そうしてほんのり、暖かくなってきた。


「この前の話、考えくれたか」

「……えっと」


 静月ジンユェは何のことか思い出せない。


「すみません、前は……あまりに舞い上がってしまって、それで覚えていなくって」

「そうか、可憐かれんなのだな。此方こなたの願いを聞いて欲しいと言ったのだ」


 そう言って、盃に酒を注ぐ。


静月ジンユェ、そなたは愛らしいな」

「……いえ、そんな……でも、ありがとうございます」

「願いというのはな、此方こなたがそのように思うことを許して欲しいのだ」


 じっと、目を見る。


 翡翠ひすいのような瞳に、吸い込まれそうになる。


「……あの……それはもちろん、構いませんが」

「そうか、良かった」


 今度は嬉しそうに笑った。


「願いはそれだけだ。そうして、たまには来ておくれ。そうしてくれたら、とても嬉しい」


 その後は、他愛のない話ばかりをしていたように思う。あまり長居していたら他の妃に挨拶ができないからと断りを入れると、「それでは、此方こなたを最後にしてくれれば良かった」などと言われたから、少々、照れた。


「貴妃は、素敵な人ですね」


 これが静月ジンユェの素直な感想だった。朱雀宮を出ても、まだ、ほんのり暖かい心地がする。会う前はあんなに不安だったのに肩の荷が降りた気になる。あの人となら仲良くなれそうな気がする。


 だが、隣にいる安梅アンミンは複雑な顔色を浮かべている。


「少し、距離は置いたほうがいいでしょう」


 小声で告げた。


「そうでないと、虜にされます」

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