4-3.可昕(クーシン)妃

「それが……香梅堂から追い出されたようです」

「どういうことだ!」


 可昕クーシン妃の大声に別の部屋の宮女たちが集まって様子を見にくる。がやがやと入口の戸に三つばかりの顔がのぞいて、すぐさま可昕クーシン妃がにらみ付ける。あまりの迫力に、宮女たちは猛獣を前にした鹿のようにそそくさと退散した。


 可昕クーシン妃は、静月ジンユェの前の修媛しゅうえん妃である。


 今年で二十六になる彼女は、まだ華の盛りで老けるのには早いのに、もう結った髪には白が混ざっていた。目尻の化粧が日ごとに濃くなって、唇の色が黒っぽい紅になっている。これは多大な心労と怒りと憎悪が混ざり合った結果であり、本来の彼女はもっと美しい娘だと評判だった。それが、この一年ですっかり風貌ふうぼうが変わってしまった。事情はいろいろとあるのだが、とどめを刺したのは静月ジンユェの昇格だろう。静月ジンユェが直接、彼女に危害を加えたわけではないが、可昕クーシン妃からすれば静月ジンユェは憎むべき敵なのである。


「あまりに大きな声を出されますと……」

「大きな声など出しておらん!」


 御付きの公々が汗をぬぐっている頭上を、彼女の声が突き抜ける。すかさず侍女の艺沐イームゥぬるめの茶を持ってきて、可昕クーシン妃はお茶を飲み、やっと息をついた。


「説明いたせ」


 椅子に座ったまま、あごで指図した。


「どうして愛緑アイリュは香梅堂から追い出された。何か粗相そそうでもしたのか」

「本人の話では何も失敗はしていないそうです。まだ勤めたばかりなのに、やれ料理が遅いだの、やれ礼儀がなっていないだの、ほとんど難癖のような理由で強引に尚食に突き返されたとか」

「……妙だな、下女は下女だが、そこまで酷くはなかったはず。まさか、既に顔を知っていて怪しまれたか?」

「かもしれません」


 可昕クーシン妃は考える。


 可昕クーシン妃と静月ジンユェでさえ話をしたことがないのに、末端の侍女である愛緑アイリュを知ったのはいつのことか。顔を見たことがあるとすれば、九人会が開催された日だけになる。あの時は――可昕クーシン妃を含む九嬪きゅうひんが横に一列になっていた。その後ろには侍女が並んでいた。侍女の列では艺沐イームゥが先頭だった。その後ろの、さらに後ろに座っていた愛緑アイリュは目立たない位置だった。一番前に座っていた可昕クーシン妃の顔ならまだしも、一見しただけで末端の侍女まで覚えているとは考えにくい。


「あの女は……此方こなたの堂へは一度も来ていない。会ったことがあるのは九人会の日だけ。下女の顔まで覚えているほど利口には思えん」

「いえ、追い出したのは静月ジンユェ妃ではなく、紫萱ズーシェン妃だったそうです」


 紫萱ズーシェン


 今度は高飛車な女の顔を思い出した。宿敵となった静月ジンユェよりはましだが、あの女はあの女で前々から気に入らない。


「同じ九嬪きゅうひんとして何度か会っている……しかし他人の宮女を、どうして追い出す必要がある」

「分かりません。しかし紫萱ズーシェン妃に会うまでは何のおとがめもなかったのは事実のようです」

紫萱ズーシェンは高慢で礼儀に馬鹿だからな、気に障ることでもして目を付けられたか。いずれにせよヘマをしたのは事実だ。さっさと毒を盛るなり刺すなりして実行に移せばよいものを!」


 怒りで机の上の茶器をぎ払った。


 そうして机まで倒した。


「そもそも、どうして此方こなたがこんな下品な部屋に!」


 可昕クーシン妃の怒りが収まらない。


 だが、それも無理はない。


 十八で後宮に入り、甘美と辛酸を織り交ぜながらも必死に喰らいついてきた九つの椅子だった。それを齢十七の年下の娘に奪われたばかりか、正二品から正四品へと二階級下の美人妃にまで落とされた。しかも堂から部屋付きとして移転させられた先が――


 なんと、静月ジンユェが住んでいた部屋。


 ただでさえ手狭になった空間に御付きの配下まで減らされて、元凶となった女が暮らしていた場所で寝泊まりする。


 もはや我慢がならない。


 可昕クーシン妃は象牙の指甲套しこうとう(※付け爪)を外し、自分の髪をむしり、あまりの狼狽ろうばい振りに侍女頭の艺沐イームゥが慌てて手を抑えた。


「どうか、ご自愛を。落ち着いてくださいまし」

「これが落ち着いていられるか!」


 艺沐イームゥの手を払い退ける。可昕クーシン妃は胸に手を当てて、過呼吸のようにぜいぜいと息をして、寝室の寝具を右から左まで指差した。


ロン、全部、持ってきたのと入れ替えろ」


 御付きの公々に指示を飛ばす。しかし彼は戸惑っている。引っ越しの際に旧堂の家具の全てを運んだが、堂の広さにあった家具は、この部屋には配置できない。


「あの……どれを捨てましょうか」

「捨てる? なぜ、捨てる必要がある」

「いえ、持ってきた品の全ては入りきらないので」

「それをどうにかするのが、お前の仕事ではないか! 入らないのであれば置ける場所を他所に確保すればいいではないか。此方こなた寵愛ちょうあいを受けた身であるぞ、そこいらの美人妃と同じ扱いなど許されるはずがない!」

「いや……しかし」


 公々がまた、汗をぬぐう。 


「実際に持ち場は、ここにしかないのです」

「今まで使っていた九嬪きゅうひんの倉庫くらい、お前が交渉してこい! 一から十まで此方こなたが言わねばならんのか! どいつもこいつも使えない奴ばかりだ。もういい、それならば焼け、焼いてしまえ!」


 大声が過ぎるので、侍女の艺沐イームゥが興奮して立っている可昕クーシン妃を再び椅子に座らせる。可昕クーシン妃は酸欠になって額を抑えた。


「……それもこれも、あの女のせいだ。この部屋の空気のせいだ。ここにいるだけで吐きそうになる」


 この言葉に、艺沐イームゥが肩を貸す。


「では、外の空気を吸いに行きましょう。北花園ほっかえんまで散歩されるが宜しいかと」


 可昕クーシン妃は部屋を出る。二人の背中を見送って、公々は安堵あんどの胸を撫でおろした。


 可昕クーシン妃が北花園ほっかえんを訪れるのは久しぶりのことだ。


 わざわざ北まで出かけなくても、これまでは自分の堂にある花を愛でれば良かった。もしくは、宮殿に挨拶あいさつに出向いた際に庭を回っても良かった。皇后の麒麟きりん宮か、もしくは、貴妃の朱雀宮。どちらも後宮内で一、二を競う広さだから、それだけで十分だった。とはいえ皇后の宮殿には呼ばれもしない限りは出向くことはない。たいていは貴妃のとこばかり。なぜなら、可昕クーシン妃は貴妃の派閥に属しているから。


「先に挨拶なさいますか」


 北花園ほっかえんに行く前に、朱雀宮へと足を向けた。西に折れて、そこから南へ。広い幅の道を歩いていると、過去の所業が思い起こされる。


 後宮には、あらゆる毒が渦巻いている。


 殺し、殺され、先に動かねばいずれはしかばねになる。


 だから貴妃派として様々な画策に手を貸してきた。やりたくないことにも手を染めてきた。姜帆チャンファン妃に通じる宦官を追放して、侍女も追放した。敵対する賢妃派の下級妃を陥れたことは数知れない。その恩恵として、助けられたこともある。それだけ四夫人の力は大きい。今回のことにしても貴妃の力を借りれば静月ジンユェのような小物は、どうにでもなるだろう。あの女が帝をたぶらかしても、貴妃の助言で上書きしてもらえば済む話だ。そう考えると、気が楽になってきた。


「もうお出になるようですね」


 赤の輿みこしが見えた。赤は貴妃の色だ。これから出るらしい。それよりも先に話をしようと思った。


「あれは……」


 貴妃はまだ輿みこしに乗らずに立ち話をしている。その正面に女が二人立っている。一人は宮女で、もう一人は妃らしい。灰色の服に、灰色の髪。やけに線が細くて弱々しい。だからこそ男の性を呼び寄せる、嫌悪の塊。


 静月ジンユェ妃。


 相対する貴妃は、どうして、笑っている。


 可昕クーシン妃と艺沐イームゥは言葉が出なかった。飲んだつばの音だけがした。そうして立ちくらみがして、視界が歪んできた。


 やがて静月ジンユェが去る。


 貴妃は、宦官と話をしている。

 

 我に返った可昕クーシン妃は、普段は走ることがないのに、足早に赤い輿みこしへと向かう。


「貴妃娘娘にゃんにゃん、ご機嫌麗しゅう」


 息を切らしながら両手を添えて、頭を下げた。貴妃は今日も赤い衣に身を包んで、長いすそを道にまで垂らしている。じっと可昕クーシン妃を見てから、何も答えない。唇すらも動かさない。


 貴妃は無言で輿みこしに乗った。


 まっすぐに前を見て、下にいる可昕クーシン妃には、二度と目を向けなかった。


娘娘にゃんにゃん、お待ちくだ――」


 貴妃付きの宦官にさえぎられる。「娘娘にゃんにゃんが通りますので」と言われて道の横へ除くように言われる。そうして貴妃は去っていく。


 残されたのは、二人だけ。


 小さくなっていく赤い輿みこしを、ただ、見つめる。


 そうして、歯を食いしばる。


 付け爪が掌に食い込んだ。


「ただいま……戻りました」


 部屋に戻ると、使えない下女が情けない顔をして立っていた。体を縮めて小動物のようになっている。ただでさえ嫌なことがあったのに臆病な態度を見せられては余計に腹が立つ。こういうところに静月ジンユェを重ねて、思い出して、どうにも我慢できなくなる。


「……お前、どうしてここにいる」


 可昕クーシン妃は、愛緑アイリュに冷たく言い放つ。


「お前が戻ったら勘繰られるだろう」


 可昕クーシン妃を前に、愛緑アイリュは地べたに這いつくばった。


「お許しください、お許しください」

「黙れ! 何もせずに、おめおめと……お前が事を成していたら、此方こなたはこんな想いをしなかった。艺沐イームゥ、こいつを叩け。ロン、こいつを蹴れ」

「お許しください、お許しください」

「もう顔も見とうない、引きずり出せ、二度と面を見せるな」


 愛緑アイリュは両腕をつかまれて、部屋から引きずり出される。哀願する声が不快で、可昕クーシン妃は寝室へと引っ込んだ。そうして逃げた先の寝室は静月ジンユェが使っていた部屋だ。


(おのれ、おのれぇぇえ!!)


 憎悪が渦巻いて、頭に響く。


 この仕打ち、必ず、報いてやる。

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