4-2.静月・修媛妃2

 御付きの者が増えてからというもの、静月ジンユェは物凄く暇になった。


「お茶をどうぞ」

「暖かい点心です」

「お菓子はいかがですか」

「これより、お風呂を沸かします」

「寝室の準備が整いました」

「着替えを手伝います」

「戸をご自分で開けなさらなくても、私たちが開けますので」


 戸まで開けられては本当にやることがない。


 この雰囲気に乗せられた林紗リンシャ麻朱マオシューまで楽しそうに過保護に扱ってくる。座る、立つ、歩く、寝る、くらいしかやることがなくて、せめて料理だけでもさせてくれればいいのに、頼み込んでも台所にすら立たせてくれない。


ユェには別の仕事があるから』


 林紗リンシャが言うのは外交のこと。確かに修媛しゅうえん妃になってから見知らぬ訪問客がやたらと増えた。皆、仰々ぎょうぎょうしい挨拶あいさつを携えて、作ったような笑顔を向けて、最後にみやびな箱を置いて帰る。


静月ジンユェ修媛妃、拝謁はいえつします。皇后娘娘にゃんにゃんからの贈り物です」

「ご機嫌麗しゅう、静月ジンユェ修媛妃。こちらは貴妃娘娘にゃんにゃんからの品になります」


 これは賢妃からの、こっちは昭儀しゅうぎ妃からで、明日には昭容しゅうよう妃が挨拶に伺いますので是非とも宜しく、充儀じゅうぎ妃からの祝いの言葉と――


「……貰ってばかりで返す品がないのですけど、どうしましょう」

「この場合は使いの者にねぎらいの貨幣を渡すだけで良いのです。昇格の祝いですから、返礼は必要ありません」


 侍女頭の安梅アンメイが慣習を教えてくれるから助かる。いつの間にか香梅堂は高貴であでやかな装飾に包まれて、田舎育ちの静月ジンユェにはとても落ち着かないが、普通はこれを喜ぶべきなのである。


 待遇の変化は、これだけに留まらない。


 散歩の時には侍女の誰かを最低でも一人は連れて歩くのだが、今までは道中でそれほどまで頭を下げらることはなかった。修媛妃になってからは擦れ違う宦官が、宮女が、静月ジンユェの前でいったんは足を止めて、お辞儀をして、静月ジンユェが通り過ぎてから歩きだす。そればかりか、かつての同僚までも。


「ご機嫌麗しゅう、静月ジンユェ修媛妃」


 ついこの間まで同じ美人妃だったのに、お願いだから呼び捨てて、と言ったところでお辞儀をされてしまう。こういうのは皇后か四夫人だけの特権だと思っていたのに静月ジンユェが想像していたよりもずっと、後宮内においての九嬪きゅうひんの扱いは特別だった。それもそのはずで、九嬪きゅうひんの階級は正二品であり、これは中書省や門下省の長官よりも上で、鎮西ちんぜい将軍よりも上になる。もちろん、後宮の妃が政治や軍事を直接的に指揮するわけではないので実質的な権力と単純に比べられるものではないが、階級としては静月ジンユェは知らない間に、あの任暁レンシャオよりも上になっていた。


 後宮には千を超える宦官と宮女が使えている。


 その中で皇后と四夫人と、同列の九嬪きゅうひん以外の、十四人を除く全員が頭を下げる立場になる。あまりに慣れない境遇に戸惑いはするが、想像を超えた特別扱いを受け続けていると、


 感覚が麻痺まひしてくる。


 ひれ伏す頭の連続に脳がくすぐられる。


 征服感が全身に走ってほほが熱くなる。


 貴族だろうが、地方の長官の娘だろうが、ここまでの陶酔感に浸ることはない。この地位は格別なものであり、故に、後宮の妃が血眼になって求めている地位であり、それを今、静月ジンユェは全身で体験している。


 これは危険な毒だと思う。


 油断すれば快感の虜になってしまうから。


 この毒に侵された者は、以前の自分のままではいられなくなる。人間社会が作り出した異質な頂点は性格そのものまで歪めてしまう。この特別な地位を得た者は決して失うまいとして、他人をおとしめる行為が正常だと判断するようになるだろう。


 では、かつて自分の地位にあった妃はどうなのか。


 情報にうとい自分は以前の修媛妃が誰だったのかを知らない。でも、四夫人に上がったのなら名前を聞くはず。つまりは降格になったのではないか。誰かを蹴り落として手に入れた地位は素直に喜べない。そもそも、自分はこういうのを求めている性格でもない。だから毒に侵されずに済んでいるし、毒を回らせないように強制的に両肩を沈めてくれる人がいる。決して図に乗ってはならないと。


「ちょっと、さっさと出てきなさいよ、いるんでしょ!」


 この罵声に安心する自分は変なのだろうか。おそらく誰かに命令するよりも、命令されている方が気が楽なのだと思う。


「ご機嫌麗しゅう、紫萱ズーシェン修容妃」


 やっと『ご機嫌麗しゅう』が言えた。ずっと言われてばかりでモジモジしていたから、ちょっと嬉しい。


「……何でそんなに笑顔なの、逆に不気味ね」

「え……あ、ごめんなさい」


 謝ったのも久しぶりな気がする。こういうのは静月ジンユェにとっては懐かしいやり取りなのだが、他はそうでもないらしく、げっ、とか、うげっ、という声が聞こえて、皆が紫萱ズーシェンから顔を逸らした。


「はい、集合!」


 ぱんぱんぱん、と手を叩く。


 しぶしぶ、仕事の手を止めて宦官と宮女が集まる。


「はい、整列! 男は右、女は左、静月ジンユェは真ん中。ほら、膝をついて、腰に手を当てて、私の名前を一斉に号令しなさい。行くわよ、はい、せーのっ!」

「……ご機嫌、麗しゅう、紫萱ズーシェン修容妃」

「……すっごく嫌々な感じがするけど、まあ、いいわ。では、一人ずつ順番に名乗りなさい。まずは静月ジンユェからね」

「……え、私?」

「当たり前でしょ、知らない顔がいるんだから改めて配下全員で自己紹介しなさいってこと」

「……静月ジンユェです、どうぞ、よろしくお願いします」

「申し訳ありませんが、紫萱ズーシェン修容妃」


 眉間みけんに怒りのしわを寄せている林紗リンシャよりも早く、安梅アンメイが前に出た。


「同じ階級の妃に指示をされるのは、もう少し控えていただけないかと」

「ふうん……で、誰? 先に名乗りなさい」

「失礼しました、侍女頭の安梅アンメイと申します」

「そう、侍女頭はあなたになったの。名前からして……香梅堂の勤めに推薦すいせんされたことがありそうね。以前の妃と面識があるのかしらね」

「はい、玥瑶ユーエイ妃には良くしてもらっていました」

「つまりは経験豊富ね、いいでしょう、粗相がないようにせいぜい勤めなさい、私の配下としてもね。はい、では、次」

「ですから、修容妃。そういうのは――」

「そういうのは何? 自己紹介くらいしなさいよ、当たり前のことでしょう。そっちの宮女、なんて言うの?」

「……林紗リンシャに決まってます、美人妃」

「修容だっつってんでしょ、いい加減に記憶を更新なさい。麻朱マオシューは……いいわ、なんかもう泣きそうだから。後ろは?」

「はい、尚服から参りました春春チュンチュンと申します」

「小鳥みたいな名前のわりに声量は問題なしね、振る舞いもそこそこ。いいわ、合格にしてあげる。はい、次は男どもの順番」


 こうして全員の紹介が終わった後に、


「ひい、ふう……これで全員? もう一人、いるんじゃないの?」

「彼女は調理していますので、また後日に紹介をさせていただきます」

「全員、来なさいって言ったのよ。三度目はないわ。いいから呼んできなさい。私が優しくしている間に」


 安梅アンメイが止めても、紫萱ズーシェンは納得する気配がない。むしろ表情が険しくなっている。急に静かな口調になったから静月ジンユェはビクビクして、安梅アンメイすがるような声で「呼んできてください、お願いします」とつぶやいた。安梅アンメイは困った表情を浮かべたものの、静月ジンユェの指示では従うしかない。離れの台所に走って、すぐに宮女を連れて戻ってきた。


「すみません……愛緑アイリュと申します」


 肩で息を切らしている。紫萱ズーシェンは観察するように、じろじろと彼女を見つめた。


「それで、どうして遅れたの?」

「あの……調理をしていたもので」

「へえ、この私に言い訳するっての。立場をわきまえていないようね。分かった、あなたは失格。私の配下として及第点は上げられない。孫妍スイイェン、彼女を追い出して」

「承知しました」


 いつもの無表情で孫妍スイイェン愛緑アイリュの腕を引っ張る。何のことか分からずに愛緑アイリュは動揺して、抵抗もしているが、孫妍スイイェンの力が強いのか、ずるずると引っ張られていく。


「修容妃、さすがにそれは」


 安梅アンメイが引き留めようとする。


「ねえ、あなた。侍女頭って、官位は何なの?」

「……同列の妃の配下を勝手に虐げることは規律に違反するかと」

「誰に向かって規律を説いているの? この場では私が法よ。分かっていないのは、あなた達。本来なら意見することすら許されないのは経験が長いのなら分かっているでしょう」


 これはその通りである。同列の妃が問題を提起することはできても、宮女が高位の妃に反論など許されるはずがない。だから二人の宦官は何も言わない。言ってはいけない。安梅アンメイも分かってはいるが侍女頭を任された以上、自分の身の犠牲を覚悟しての判断だった。


「いいこと? 彼女は失格、これは譲れない。静月ジンユェもそれでいいわね。あなたの配下は私の配下なのだから」

「……紫萱ズーシェン……お願い、彼女に酷いこと……しないで」


 自分のことであれば我慢できる静月ジンユェも、仕えている宮女の身の危険とあっては黙っているわけにはいかない。だから彼女なりに精一杯の勇気を振り絞って、かすれた声で抗議した。


「酷いことって何? 勘違いしてない? 言い訳から入ったから礼儀からやり直せって言ってんの。そもそも料理も下手なんじゃないの、時間を掛けすぎ。だから尚食しょうしょくに送り返してやるだけよ。もっと質のいいのを寄こしなさいってね」

「……礼儀とか、料理なら、ここで覚えればいいから……せっかく、来てくれたから」

「あなたが良くても、私は許さないって言ってるの。九嬪きゅうひんに仕える格ってのがあるのよ。他は多少のヘボがあっても及第点をあげているのだから、むしろ感謝してほしいくらい。ほら、さっさと連れて行きなさい。それで静月ジンユェは私の気遣いに感謝を言いなさい」

「……」

静月ジンユェ、どうしたの。早くして」

「……どうも……ありがとうございます」


 主人である静月ジンユェが受け入れてしまったので、愛緑アイリュは肩を落としながら、大人しく孫妍スイイェンに連れられていく。紫萱ズーシェンが去っても、ずっと静月ジンユェは膝をついたままで、やがて両手で顔を覆った。


 言いなりになっているのは、いつものことだ。


 けれど、これまでの対応とは質が違う。


 高位の妃として配下を守るべき立場にありながら、気圧されてしまった。


 立場が変わっても弱気な性格は何も変わっていない。後宮の毒に侵されずに私らしくあるべきだと考えて、それで紫萱ズーシェンの訪問を歓迎したことも恥ずかしい。このままでは慕ってくれる人たちを守ることができない。安梅アンメイにも忠告されたばかりだったのに、分かってはいるのに、最後には謝ることしかできない。


「掛け合ってみましょう、尚食に」


 仕えたばかりの安梅アンメイに助けてもらうのが情けない。


ユェ、もう我慢しなくていいよ。私、本当に怒った』


 林紗リンシャには我慢ばかりさせていることが辛い。こうして二人が後押しをしてくれているのに、それでも自分の口から出る言葉は、


「料理が上手くなって……戻ってきてくれると……いいな」


 きっと、最後には見捨てられて誰もいなくなる。そうすれば、もしかして、後宮から出られるのかもしれないと考えている。こんな自分が、本当に嫌いだ。

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