4.窈窕(ようちょう)たる淑女

4-1.静月・修媛妃1

 関関かんかんたる雎鳩しょきゅうは、河のに在り

 窈窕ようちょうたる淑女しゅくじょは、君子の好逑こうきゅう

 

 参差しんしたる荇菜こうさいは、左右にこれもと

 窈窕ようちょうたる淑女は、寤寐ごびこれを求む


 ――詩経しきょう関雎かんしょより。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 香梅堂が色づく折に、静月ジンユェという名の華が咲く。


 春節を終えて、宴の準備に多忙を極めていた後宮内は落ち着きを取り戻していた。ここ、最北端にある香梅堂の庭には白や赤の梅の花が咲いている。例年は手入れが行き届いていなかったせいでつぼみのまま終わりを迎える枝が多かったのに、今年は満開を迎えている。香梅堂の庭を散歩している静月ジンユェは、厳しい冬を耐え抜いた花の群れに共感を覚えていた。そうして一つ一つの花弁を愛でていると、その中に珍しい紫の花を見つけた。


 白や赤ばかりの色に、一つだけの紫。


 寂しそうに見えて、そうではない。花弁が大きく、堂々としていて、どの花よりもつややかに咲いている。決して他の色に染まらない強さがうらやましい。


ユェ、やっと応援が来たよ!』


 林紗リンシャの声が弾んでいる。彼女の招きに玄関に戻れば、五人の男女が背筋を伸ばして立っていた。左に宮女が三人、右に宦官かんがんの二人が整列している。彼らは静月ジンユェを見るなり、


「ご機嫌、麗しゅう、静月ジンユェ修媛しゅうえん妃!」


 声を揃えて、一斉に片ひざをついた。


 宮女は両手を腰で組んで、宦官は地面に手を突いている。自分を担当する宦官かんがんや宮女が増えるのを事前に知らされてはいたが、静月ジンユェあがめられる立場の扱いに慣れていない。だから恐縮してしまう。戸惑って、狼狽ろうばいして、なぜか静月ジンユェひざをついて、


「みなさんも、ご機嫌、麗しゅう、でございます、どうもありがとうございます」

『ちょっと、ユェ


 立ったままの林紗リンシャ麻朱マオシューに両脇から抱きかかえられた。まるで子供のように、ずいっと引き上げられる。


ユェがへり下って、どうするの』

『え……だって』


 これまで、へり下る立場しか経験していないのだから仕方がない。もはや「ご機嫌麗しゅう」を言うのも誰かのせいで習慣になっている。重力に肩を沈められるかのように体が勝手に反応するのは悲しい性だ。


「みなさん、外ではなく、どうぞ中へお入りください」


 林紗リンシャ流暢りゅうちょうみやび語で案内した。ちなみに彼女はこの台詞だけを何度も練習していた。静月ジンユェ林紗リンシャに背中を押されながら香梅堂に入ると、ひざを突いていた男女が立ち上がって、ぞろぞろと後ろから付いてくる。


 玄関を抜けたすぐの部屋が、訪問を受ける場所になっている。


 玄関の両脇の台に青磁の壺が飾られて、床には西方との貿易品である絨毯じゅうたんが敷かれている。窓も修復された装飾窓に差し替えられて、静月ジンユェの髪には水晶のかんざしが差さっている。これらは紫萱ズーシェンから「鈍くさいながらに九嬪きゅうひんに昇格した祝いよ、ありがたく受け取りなさい」と言って贈られたのだが、そもそも紫萱ズーシェン静月ジンユェから没収した品だから元の場所に戻ってきただけ。


 静月ジンユェが振り返ると、また、左右の男女がひざをつく。


「……うわっと!」


 林紗リンシャ麻朱マオシューに肩を押されて、椅子に倒れるように座った。


「これより静月ジンユェ修媛しゅうえん妃に仕えさせていただきます、太監たいかん康子碧カンシヘキと申します」


 先頭の男が顔を上げる。


尚儀しょうぎの宮女、安梅アンメイと申します」


 先頭の女も、顔を上げる。


「はい……どうも、その……大変によろしくお願いします」


 その後、宮女の安梅アンメイから、「こちらは俊荷子ジュンカシ」「春春チュンチュン愛緑アイリュ」などなど、他の宦官や宮女の名前を紹介されたが、そんなに一度には覚えられない。


「……」

「……」


 紹介を終えて、礼も終えて、静月ジンユェが黙っているせいで沈黙が続く。彼らはひざを突いたままで、静月ジンユェは椅子の上から恐縮ですと肩をすぼめながら彼らを見ている。


ユェ、ちょっと』


 たまらず、林紗リンシャの耳打ち。


ユェが何か言わないと動けないんだって』

『……なんで?』

ユェだって皇后に挨拶する時に勝手に動かないでしょ。いいから解放してあげて』

「み、みなさん、どうぞお立ちになってください」


 静月ジンユェの指示に、一斉に立った。


「本日は香梅堂まで遠路はるばる、わざわざ、お越しくださりありがとうございました。どうぞ、みなさんの居場所にお戻りくださって大丈夫です」

「では、私は台所へ」

「私は庭掃除を」

「倉庫を整理します」


 三々五々に、あくまで香梅堂の敷地内へと散っていった。彼らのこれからの仕事場は香梅堂になるのだから、当たり前だった。


「失礼ながら、内装の手入れをしてもよろしいでしょうか」


 独りだけ玄関に残っている。彼女は列の先頭に立っていた年配の宮女だ。梅が付いているから彼女の名前は憶えている。


安梅アンメイさんですね、はい、よろしくお願いします」

「恐縮ながら修媛しゅうえん妃。どうか呼び捨てでお願いします」

「え……だって」


 静月ジンユェの困惑に安梅アンメイは優しく微笑んだ。すっと、静月ジンユェの傍に近寄ってから、


「今後は、慣れていただかなくてはなりません」


 耳元でささやくように言う。


「ご覧の通り、修媛しゅうえん妃にお仕えさせていただく者が今後は増えてまいります。あまりにかしこまられては、かえって彼らも恐縮するでしょう。それに、対外的にも修媛しゅうえん妃には自信を持っていただかなければなりません。そうでなければ、仕えている彼らの肩身まで狭くなりましょう。後宮とは、そのような場所です」


 このように助言してから彼女は一歩、引いた。両手を腰で組んだまま体を少し沈める。


「出過ぎた発言を、お許しください」

「いえ、いいんです」


 慌てて静月ジンユェは両手を前に差し出す。


「私、未だに分からないことばかりで、林紗リンシャ麻朱マオシューも言葉があまり上手くなくって……いろいろと教えてくれると助かります。あの、安梅アンメイさんは宮に仕えて長いのですか?」

「どうぞ、安梅アンメイでお願いします」

「あ……安梅アンメイ……は仕えて長いのですか?」

「はい、以前はここに住まわれていた玥瑶ユーヤオ妃の侍女頭を勤めておりました」

「本当ですか、わあ、頼りになりますね」


 静月ジンユェの表情が明るくなる。林紗リンシャ麻朱マオシューがいるとはいえ、三人揃って知識量が同じくらいだから困ることも多々あった。


玥瑶ユーヤオ妃は、どのような方でしたか?」

「……お花を愛される人でした。聡明で、謙虚で、人柄の良いお人でした。私の名前に香梅堂の梅の字があるからと言って、とても親切に接してくださいました。今でも恩義を感じています。ですから、この香梅堂に静月ジンユェ妃が入られると聞きまして、とても嬉しく思います」


 安梅アンメイの瞳が少し緩む。昔のことを想い出したのだろう。


「私も……玥瑶ユーヤオ妃と同じ『月』の字に運命を感じています。玥瑶ユーヤオ妃の侍女の方に来ていただけたのは、きっと月の導きでしょう……あの、もし良かったら侍女のまとめ役を引き受けていただけませんか?」

「私ですか……いえ、それは」


 安梅アンメイ林紗リンシャを見る。林紗リンシャは頭を下げて応える。


林紗リンシャとも相談していました。私たち、経験が浅いので今度来る誰かにお願いしようって。一番、経験の長い安梅アンメイさんなら安心できるから」

「そういうことでしたら……謹んでお受けいたします。微力ながらに尽くさせていただきます」


 こうして安梅アンメイが侍女頭となった。


 御付きの宮女も公々も配属されて、ついに後宮内での静月ジンユェの立場が確立されつつある。


 寵愛ちょうあいを受ける前ならまだしも、何度か夜伽よとぎをしているのに人材が揃わなかったのは、いわくつきの香梅堂に移されたことを宦官や宮女たちが持て余していたせいだった。それも、例の呪いや流行り病の噂は静月ジンユェが健康を維持しているから作り話だと沈下して、正式に九嬪きゅうひんに昇格したことで皇帝のお墨付きであるとも証明された。もとより九人会で評判になっていた静月ジンユェだ、彼女に取り入ろうとする動きは水面下では存在していた。それを静月ジンユェが優柔不断なせいで、あまりにも消極的なせいで周囲は判断に困って二の足を踏んでいた。


 もう、条件は整った。


 彼女は期待されている妃であると。


 ひとたび、動き出せば流れは加速する。


 おそらく静月ジンユェの周りにはこれからも自然と人が集まるだろう。今までのような露骨な冷遇を受けることもなくなり、最北端に位置している香梅堂も、既に後宮の華を取り戻しつつある。ここを拠点にして、静月ジンユェの人生は第二の転機を迎えることになる。


 もちろん、良いことばかりではない。


 四夫人しふじんからの、派閥に取り込もうとする動きも活発になるに違いない。


 そして九嬪きゅうひんの席は、たったの九つしかない。


 静月ジンユェ九嬪きゅうひんに昇格したのは、直接的であれ、間接的であれ、他の誰かを蹴落としたことになる。静月ジンユェが修媛妃になる前にも、当然、修媛妃だった妃は存在する。


 彼女の名前は可昕クーシン妃。


 しかし、静月ジンユェは彼女のことを何も知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る