四葩の華獄

 顔の半分に縦に走る傷痕を持つ青年は、静かに硝子窓越しに空を見上げた。


 離れた場所には、紫園家の屋敷が見える。

 目を細めて青年は……嘉臣は、あの日からの時間を振り返る。

 紫園家の屋敷が突発的な『嵐』という大きな災いに襲われた事は一時、帝都を賑わす話題となった。

 しかし規模の割には屋敷には被害がなく、怪我人こそ多少あれども犠牲となったのが一人であったのは幸いか否かと人々は囁きあう。

 その一人が、当主の妻であったからだ。

 生前左程仲の良い夫婦では無かったという噂であるのに、当主はもう妻を持たぬと宣言したらしい。

 子がないままに妻が死に、後添えを迎えるつもりはないという。その上妾もないとあっては、と聞いた者達は肩を竦めた。

 そう、妾は『居ない』のだ。後にも先にも、紫園鷹臣に妾は居なかったという事になっていた。

 何故か、かさねの存在を覚えているものは鷹臣と嘉臣の他には誰も居なかったのだ。

 かさねの郷里を訪ねた人間も、あの夫婦には子供は居なかったと首を傾げていたという。

 それはかさねが死神を継いだが故か、かさねがそれを望んだのかは、鷹臣は終ぞ嘉臣に教えてくれなかった。

 鷹臣は『嵐』にて不運にも亡くなった妻を弔うと、紫園家を終わらせるために全力を尽くし始めた。

 紫園の血を引く者達の行く道を定めて見送り、他家に送り出し。

 紫園の名を持つ財を受け取るべきものに渡し、或いは国に収め、少しずつ紫園家の名を消していく。

 屋敷も不幸があった故と手放す事を決め、物好きな資産家がいた為無事に買い手がついた。

 新たな主となった人間は早速あれこれ手を入れているらしい。改修の様子が伺える。いつか、新しい姿となり、かつてが消える日が来るだろう。

 使用人達にも次の勤め先を世話して暇を出して暫くした後、鷹臣は行先を告げる事なく姿を消した。

 人々の驚きの中に次々為された采配の波乱がおさまると、紫園家の名を持つ人間は嘉臣一人となっていた。

 嘉臣は紫園家の屋敷を望める場所に小さな家を借りた。

 紫園の名を持つけれど、嘉臣には妻を持つつもりも、子を残すつもりもない。終わりを見届ける者としてあることを、嘉臣は選んだ。

 渋る兄にそれを訴えて粘ると、頑固な兄は誰に似たのやらと苦笑し、最後には許してくれた。嘉臣が兄に似たのでは、と返すと苦い顔をしていたが。

 紫園家が本当に消えるまで、もうしばらくかかるだろう。流石にそこまで付き合わせるのは、兄が気の毒ではないか。

 いつも、直ぐにでも飛んで行きたそうにしていたのに、と何処か落ち着きなかった様子を思い出すと思わず口元に笑みが浮かぶ。

 茶を運んできたらしいタキに何を考えていらしたのですか? と問われて嘉臣は曖昧に笑って言葉を濁す。

 その様子から察したであろうタキは、それ以上は触れずに嘉臣の前にある卓に静かに茶椀を置いた。

 タキは嘉臣の顔を見て、ひとつ息を吐く。


「しかし、痛々しいですね。その傷は……」


 嘉臣の顔には、痛々しい大きな傷跡が残っている。

 彼は、あの日の突発的な『嵐』による飛来物で負傷したと言う事になっていた。それが不運にも残ってしまったのだと。

 奇しくも、彼が手にかけた実の父と同じ傷だと思えば苦い笑いが浮かぶ。これもまた因果かと思いながら、嘉臣は呟いた。


「親に似てしまったみたいだよ」


 紫園の先代当主を知るタキは「そうですか」と言ったきり、それ以上は何も言わなかった。

 彼女は、鷹臣が先代の血を引かない事を知っていた。恐らく、嘉臣もそうなのだろうと思っていた、と。

 その上で、タキは最後まで嘉臣に仕えると申し出た。

 鷹臣が……彼女にとっては唯一人の孫が終わらせようとしたものの行く末を、最後まで見守りたいと。

 庭師であった息子が先代の妻と道ならぬ恋に落ちた事をタキが知った時には、既に先代の妻は身籠っていた。

 子は生まれたものの、生きていた筈の妻は出産で命を落したと言う事にされ、タキの息子は変わり果てた姿で見つかった。

 誰の仕業であるのかは分かり切っていた。

 紫園家を、先代を、恨んだ事もあった。

 けれども、それ以上に鷹臣の成長を見守っていきたい気持ちが勝ったと、タキは静かに語っていた。

 鷹臣は育つ事を許されたものの、その身辺には危険が付きまとい、彼は年齢不相応に大人びる事を余儀なくされていて。

 タキは、少しでも彼が心を許せる相手がいればいい、少しでも笑って欲しいと願っていた。

 覚えていない筈なのに、鷹臣様はその方の元へ行かれたのですね、とタキは笑う。

 嘉臣は、抜けるように蒼空を見上げて思う。

 漸く彼女に会いに行けた鷹臣は、今頃あの気難しい顔に笑みを浮かべているだろう。

 どうか二人が幸せであれ、と心に呟いて、静かに手にとった茶碗に口をつけた。

 紫園家の終わりを見届ける覚悟を決めた二人の昼下がりは、静かに穏やかに過ぎていった……。


 ◇◇◇


 ――不思議な光を帯びた蝶を身の回りに舞わせる女が、静かに頭上に広がる蒼穹を見つめている。


 鄙の地にある小さな村。

 かさねは、母の墓の前に佇んでいた。

 今のかさねを見る事が出来る者は村には居ない。

 見せようと思えば出来るだろうが、そうしたいと思わないのでこのままにしている。

 たまにかつて嫌がらせしてきた者達を見かけて他愛ない悪さをした事もあったが、もう気が済んでしまった。元々そこまで恨みつらみがあったわけでもない。

 母の墓の前に佇んで、墓の手入れをしながら、話しかけながら。かさねはひたすら待ち人に焦がれる日々を送っていた。

 あの日、待ち人は――鷹臣はかさねに言ったのである。


『お前は、故郷で待っていろ』


 自分も紫園家を終わらせる義務があると訴えたものの、鷹臣はこれが『紫園鷹臣』としての最後の務めであるからと譲らなかった。

 終わらせて、必ず迎えに行く。だから今はお前を手放すと。

 かさねは、鷹臣の中では義務感と共に行き場の無くなった罪悪感が出口を求め、彼の裡を苛んでいるのを感じた。

 天へと還った斎を思えば、素直にかさねの手を取る事も抱き締める事も出来ないのだと気付いたからこそ、かさねは胸の裡を堪えて頷いたのだ。

 かさねは元いた村に戻って来た。村に、ではなく眠る母の元に、だ。

 人ならざる身とは随分便利なもので、戻りたいと念じたら何時の間にかそこに居たのである。

 整えられた母の墓は、静かにかさねを出迎えてくれた。

 村人はかさねを覚えていなかった。それどころか、かさねという存在自体が『居なかった』事になっているのを人々の会話から察する。

 それが、自分が望んだが故なのか、死神を継いだが故なのかも分からない。

 もしかしたら、紫園の屋敷などでもかさねは『居なかった』事になっているのかもしれない。

 確かめに戻る事は出来るかもしれないが、それをしようとは思わなかった。

 ここで鷹臣を待つと決めたのだから、と自分に言い聞かせて。日々、鷹臣のいる場所と繋がっている筈の空を見上げて過ごした。


 瓦斯灯の明りに夜も眩い帝都にある内に、暫く空を見上げる事も忘れていた。

 夕暮れ時の茜色は美しいけれど、何処か心細さを覚える事も。

 空には星があり、黒天鵞絨に銀砂を蒔いたように美しいのだという事も、忘れていた気がする。


 目を閉じれば、屋敷での日々が昨日の事のように思い出される。

 溺れるような幸せに埋もれた、目も眩むような歪で愛しい日々。

 誇り高い燁子の立ち姿も、穏やかなタキの笑みも。負の感情に滾った忍の眼差しも、人懐っこい嘉臣の声も。

 怜悧な美貌の鷹臣の姿も声も、触れる温かさも、抱き締める腕の力強さも鮮やかに思い出せるのに。

 瞳を開けば、かさねは一人に戻る。

 もう何十年も待ったような気がするし、まだ数日しか経っていないような気もする。時間の感覚が次第に曖昧になっていく中、かさねはただ待ち続けた。

 あの人は約束を違える事はないと信じているから。迎えに来ると言ったのだから、必ず来ると。

 時折、ふわりと一匹の蝶が浮かび出てきてはかさねを慰めるように周囲を飛んでくれる事があった。言葉こそ交わせないけれど、かさねはそれが燁子の化身だと思った。


 季節がひとつ、またひとつ巡り。やがて、次の春がきて、夏が来て。

 村を彩るように各所に植えられた紫陽花が蒼い花弁を開いた頃、その時遂にはやってきた。

 その日、かさねは吹き行く風が随分と穏やかだと感じた。

 胸が踊るような不思議な感覚がある。それは、確かな『予感』だった。

 そして土を踏みしめる靴音を聞いて、かさねは静かに振り返る。

 ああ、とかさねは小さく裡に呟いた。

 そこには、待ちに待った人が、鷹臣が立っていた。

 少しばかり痩せて頬がこけたように感じるけれど、容貌も威厳も少しも損なわれていない。かさねの知る、かさねが唯一人と思う愛しい人がそこに居る……。


「……随分と、待たせてしまったな」


 待ちくたびれました、と拗ねてみせようかとも思っていた。

 もう忘れてしまいました、とそっぽ向いてみせようかとも、思っていた。

 色々な返事を考えていたのに、いざ本当に鷹臣を前にしたら、全てが一瞬にして消え去ってしまった。

 気付いたら足は地を蹴っていて、かさねは何も言わずに鷹臣の腕の中に飛び込んでいた。

 溢れる程の愛しさが涙となって零れるのを止められない。

 優しい腕の温かさも、抱き締めてくれる力強さも、ただただ愛しい。漸くこの場所に戻ってこられたのだという想いが抑えきれなくて、鷹臣の背に必死で腕を回した。

 鷹臣は暫くの間、無言でかさねを抱き締めていた。

 触れる事の出来なかった日々を取り戻すように、二人は暫くの間言葉もなくそうしていた。言葉など要らなかった。互いの温もりだけが全てだった。

 どれぐらいそうして居ただろうか。

 そっと顔をあげたかさねの瞳に溜まっていた涙を、鷹臣の指がそっと拭う。

 怜悧な印象は変わらないけれど、その瞳に宿る光は随分と優しく、穏やかだった。


「……斎が、夢に出て来た」


 ぽつり、と鷹臣が呟いた。

 きょとんとした顔をしたかさねは、続きを問うように鷹臣を見上げる。

 鷹臣は若干げんなりと苦い顔となりながら、再び口を開く。


「……出てきては、お前を一人にするとは何事だと、子供の悪戯のような嫌がらせを……」

「……斎、らしいですね……」


 やはり斎は斎であるらしい、と思えば思わずかさねも苦笑いを浮かべてしまう。

 懐かしさと少しの安堵とを覚えながら、かさねは鷹臣を見つめ続ける。


「嘉臣にも、もういいから迎えにいけと背を押された。……それでも、ここまで待たせてしまったのは……済まなかった」


 謝る鷹臣に、かさねは無言のまま首を横に振る。

 待ち続けて寂しかった。何時の日かを待ち続ける事は辛かった。

 かつて、斎が味わった孤独の欠片にも満たない時間であっただろうに、ただ悲しくて。それなのに、斎は最後の最後まで優しいのだ。

 嘉臣の心遣いにも胸が熱くなり、再び涙が溢れそうになる。

 雫を拭う鷹臣の指の感触に目を細めながら、かさねは鷹臣に問う。


「旦那様は、これからどうなさるおつもりですか……?」

「お前と共に、お前の望むところに行きたい。……お前と共に暮らせれば、と思っている」


 あくまで、かさねの望むように在りたいと言ってくれているのだと思えば嬉しさと恥じらいが共に滲む。

 頬を微かに染めながら聞くかさねの目を真っ直ぐに見据えて、鷹臣は告げる。


「お前をもう日陰の身にしておきたくない。……お前と正式に夫婦になりたい」


 脳裏が白くなってしまう程に、かさねは嬉しかった。

 誰かの妻になるなど、父に売られた日から、そんな日が来る事はないと諦めていたのだから。

 喜びのままに頷きかけて、ふとかさねの動きが止まる。

 途端に表情を曇らせた鷹臣に、違いますと呟きながら必死にかさねは首を左右に振って否定する。


「ですが……。私はどうやら、居なかった事になっているようです……」


 鷹臣はまだ人の世に存在を留めている。しかし、かさねは最早戸籍どころか存在すら無かった事になっている。

 役所に届け出る事は叶わないし、それでも良いのだろうかと懸念してしまう。

 鷹臣は不安そうなかさねの様子を見て、ひとつ息を吐くと呟いた。


「それは、何とでもなる」

「え……?」


 思わず目を瞬いて見上げるかさねを見る鷹臣の眼差しは、あくまで穏やかで優しい。

 鷹臣はかさねを再び抱き締めながら続ける。


「お前が人の世で暮らす事を望むなら、お前に人の世での戸籍を与える術ならある。それに……」


 そのような方法があるのだろうか、と不思議に思うけれど。

 続いた言葉に、かさねは更に目を見開く。


「お前が人の世で生きられぬというなら、私が人の世を捨てる。お前のある場所に、私が行くだけだ」


 何を捨ててでもかさねの手を取るという意思の表れに、けして離れまいというように強く自分を抱く腕の温かさに。

 気が付けばかさねは必死に頷き、鷹臣の胸に頬を埋めていた。

 暫くそうしていた二人だが、不意に鷹臣が口を開く。


「……答えを聞いていない気がするが?」


 言われてかさねは気付く。

 先の言葉が求婚である事に、そしてそれに未だ応えていない事に。

 そして、応えていない? とかさねの心に疑問が過る。

 だって、かさねの応えはもう出ている。否、もう問われる前から、決まっていたのだから。

 かさねを見る鷹臣の表情には、少しだけ不安が滲んでいる。

 何処か心揺れる少年のような面持ちで、かさねが応えるのを待っている。

 だから、かさねは花の微笑みを浮かべて告げた。


「私は、もうとうに貴方のものです。……私は、貴方の『胡蝶』です」


 もう、離れたくない。もう、離さないで欲しい。

 私の世界は貴方だけ。私が想うのは貴方だけ。私に、貴方という人を刻み続けて下さい。

 言葉に出来ぬありったけの想いをこめて、諾の答えを表すように背に回した腕に必死に力を籠めるかさねを、鷹臣は強く強く、言葉なく抱き締めた……。



 時が移ろうにつれて、何時しか人々の間で小さなおとぎ話が語られるようになる。

 話を伝え聞いたというある作家は、蝶を従えた美しい女の死神と、彼女を守り刃握るその伴侶である男の物語を綴った。

 二人で一人の死神は夫婦であり、死者の魂を現世から断ち切り常世へと導き続ける。

 そして、四葩が美しく咲く時期に、決まって鄙の地にある村を訪れるのだという。

 その時には、人々も不思議な美しい蝶の姿を見かける事ができるのだと……。

 

 数多の人の生を捕らえ続けた、美しく歪な四葩の華獄。

 形代の蝶は、哀に惑い、愛に惑い。

 唯一を知り、自ら囚われで居たいと願った。

 そして唯一を想うが故に。

 ただ誰もが愛し愛される事を望んだが故に、華の獄は解き放たれた。


 美しく残酷な四葩の華獄。

 けれど、囚われ人はもう居ない――。



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四葩の華獄 形代の蝶はあいに惑う 響 蒼華 @echo_blueflower

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