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先に行け、と一度は言ってはみたかったセリフを放つチャンスだったのに、言うまでもなく猫背の男はひいいぃぃっと彼の方を見もしないで倒れかかっている檜垣の向こうへ姿を消した。
なんだおっさん、走るの速いじゃないか、とのんびり考えた彼の前方に矢が突き刺さった。
「バーカ、バーカ。どこ狙ってんだ、マヌケ!」
たぶん、きっと、おそらく、彼の声は検非違使の一団の耳に届かなかったはずだ。それでも、ぐわっと怒気が噴出したように、太刀を抜いた一人が猛然と彼に襲いかかって来た。
衣の色など定かでないが、崩れた風体からして放免だろう。
彼はにやりと口角を上げて放免を迎え撃……たずに、袴からはみ出た
条坊の路地など知るかとばかりに縦横無尽に塀や垣の陰に回り込み、側溝を飛び越え、しなって傾いている柳を跨ぎ、有象無象を踏みしめて走り回る。
西の市の河川にかかった橋の向こうに建つ小屋からひょいっと白い顔を除かせた女が、じろっと彼を睨む。
それで足をゆるめて振り返ってみれば、追捕を振り切ってずいぶん遠くまで来てしまっていた。
やれやれと小走りに集合場所に向かえば、途中で猫背の男と再会できた。
「おっさん、死んでなかったかぁ」
「……」
猫背の男はヒューヒューぜぇぜぇと荒い息を繰り返すばかりだ。
「もう少しだぜ」
よっと後ろから軽く唐櫃を持ち上げてやりながら背中を押す。
「遅かったな、小僧」
毎回見かける眉の白いじいさんに出迎えられた。
「小僧の逃げ足の早さなら心配もしないが」
「じーさんには負けるよ」
憎まれ口をききながら今にも倒れそうな猫背の男を誘導し、差し出された盗品を検めている盗賊頭たちのもとへと運ぶ。
篝火が立つその場所では、あの大きな木地の唐櫃が開封され、中には冊子がびっしり詰まっているのが見えた。
傍らに、白い狩衣姿の人物が立っていた。
屈強な盗賊頭たちに囲まれているといかにも線が細くなよやかで、そのいでたちから白妙と呼ばれる貴族然とした人物が、盗賊団の頭領だ。
腕っぷしの強さではなく、綿密で失敗のない計画性がウリで、確実に実入りの良い仕事ができるので、強面だけでなく単独の盗みに自信のない小者までもが大勢集まる。
檜扇で口元を隠し、今夜の本命だと彼が目星をつけた唐櫃に注ぐ白妙の視線は固かった。珍しく、目論見通りとはいかなかったのか。
背負っていた小ぶりの唐櫃を引き取ってもらうと、猫背の男は二三歩よろめいた先で倒れ込んだ。
彼も銀の灯台と
猫背の男が死にそうになりながら運んだ豪華な装飾の唐櫃の登場に、若干場が湧いたが、白妙の目は冷ややかなままだ。
太刀を叩きつけて頭たちが蓋を開封する。
取り出されたのは、篝火を照り返す光沢が見事な
かろうじて頭を上げて、そのようすを見ていた猫背の男が唾を呑みこむ。
あれが欲しい。そう思っていることだろう。
唐櫃を漁っていた腕が止まった。大きな手が、小さなきんちゃく袋を取り出す。
そこで白妙の目つきが変わった。
いくつか袋を取り出した男が、手のひらの上で中身を確認しているようだった。
目もとしか見えないが、白妙は顔をほころばせたようだった。満足そうに瞳を眇めている。
それからすぐに、収穫品の分配が始まった。
盗品は、頭たち幹部の取り分とそれ以外とに仕分けられる。下っ端たちは、それ以外の山の中から現物か、銭か米かを選んで受け取り、順々に闇の中へと消えて行く。
彼の前に並んでいた猫背の男の番になったが、猫背の男は立ち尽くしたままだ。
頭のひとりが威嚇するように急かしても、男はだらだら汗を流して、幹部用の財宝の山の方へちらちら視線をくれている。
埒が明かないので、しゃーねえなぁと彼が後ろから口を出した。
「あのさぁ」
ぎろっと厳つい盗賊頭に睨まれても彼は飄々と猫背の男が命がけて盗んだ唐櫃を指差した。
「アレ、このおっさんの獲物だぜ」
頭はすっと白妙に目を向ける。
白妙は目だけをすぅっと細める。
「悪かったな、おっさん」
腰を屈めてきんちゃく袋をひとつ取り出し、頭はそれを猫背の男に放った。
「ひゃあっ」
咄嗟に両手で受け止めた猫背の男は仰天した声をあげた。
袋の口からてのひらにこぼれたものがキラキラしている。粒の大きな砂金だった。
「お、おれは……」
上擦った声で、それでも男はしっかりした目で言った。
「その、衣が欲しい、のだが……」
頭は今度はきょとんとして白妙を振り返った。
白妙は目を細めたままふいっと横を向いた。
「そーか、そーか。ほら」
破顔して、頭は蝶の文様の袿を猫背の男に差し出した。びっくりするほど彫りの深い、角ばった顔立ちの厳つい男なのだが、笑うと意外にも愛嬌がある。
猫背の男はおそるおそる袿をつかむ。もう片方の手に乗せたままの砂金の袋を突き出す。
盗賊頭は笑みを引っ込めて厳つい顔に戻った。
「そいつもあんたの報酬だ」
しっしと追い払う仕草を見せられ、猫背の男は逃げ出すように夜闇に向かって走り出した。
「おまえで最後だな」
頭がナニカを指で跳ね上げる。鋭い弧を描いて落ちくる小さなものを、彼は片手で受け止める。
手のひらに転がして見ると、親指の先ほどの練り金だ。
「こんなんいらねぇよ、米の方がいい」
「そう言うな」
器用に片方の口角だけ上げ、頭は米をひとすくいした。
「取っておけ。なんでも使いどころってのがあるもんだ」
「ふーん?」
半信半疑の声をあげながら彼は金を握りしめて踵を返す。
「おまえ……」
駆けだそうとしたところを、艶やかなアルトの声に呼び止められた。
首を曲げて見返れば、まわりの強面たちがぎょっとしたようすで彼らの頭領を見ている。
白妙は檜扇を閉じてついっと彼へと向けた。
「
袴からずり落ちた袿の裾をほとんど引きずっていた。うっかりしていた。宮城で奪った物を差し出さずに持ち帰ろうとしたことを咎められると首を竦める。
「いいじゃないか、それ」
にやりと薄い唇がかたちよく笑む。
「いいだろ」
目こぼしされたのだと察して彼もきししと笑った。
袿をしっかりと腰に縛り、裾をひるがえしながら右京の闇へと走り去った。
袴垂、参る 奈月沙耶 @chibi915
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