花を摘む女
生津直
花を摘む女
沈みゆく太陽を見やる。だいぶ日が長くなった。気の早い十三夜月が、東の空で輝く。頭上ではメジロが甲高くさえずり、今日はもう終わりにと促した。
「そうか、じゃあ、ここが今日の宿だ」
――
反射的に働かせた嗅覚はしかし、思いがけぬ答えを告げた。
――人の汗?
「誰かいるのか?」
林の方へ問うと、相手の呼吸が静まる。言葉が通じた証拠だ。見当をつけて歩み寄れば、黒々と
「何だお前、こんなところで何をしている?」
「さては、女郎屋から逃げてきたか?」
娘は首を横に振り、存外に
「奉公に出される前に、海を見たかったのです。それで……」
「山を越えようと? 一人で、そんな寝間着みたいな浴衣でか? 随分と無茶をするな」
娘は口をへの字に結ぶ。
「何にせよ、今日はもう遅い。熊に襲われたくなきゃ、ここで夜を明かせ。今、火を
娘は片足を引きずっていた。沢を渡るときに
昼間釣ったヤマメのこんがり焼けたのを差し出してやると、娘は勢いよくかぶりついた。ところどころ皮の破けた銀色の腹は、たちまち骨を晒す。娘は結局、魚の半身と、握り飯一つ半と、たくあん数切れを、ひと息にたいらげた。空腹が満たされると素直に目を
*
コナラの程よく集まった平地に日が差し、
「この川に沿って下れば、あそこに見える寺に出るはずだ。あとは坊さんに何とかしてもらえ」
「あの、お願いがあります」
「何だ?」
「ここに置いてもらえませんか? 怪我が治るまで」
親は
いつもながらの簡素な小屋を、いつもより大きめにこしらえ、その日のうちには暮らしの手はずを
「ずっと山暮らしなのですか? こんな風に」
「ああ。五つだか六つの頃からな」
「どうしてです?」
「母親がな、置いていったのだ」
娘は申し訳なさそうに黙る。
「食うに困って、仕方なかったんだろう。だが、俺は山の中でまず困ったことがない。どういうわけか、食べられるものとそうでないものの見分けがつき、獣の
「お父様は?」
「俺が生まれてすぐ、雷に打たれて死んだそうだ」
「まあ、お気の毒に」
「俺には兄弟もいなかったから、母一人、今頃どこでどうしているやら」
娘は神妙に
「お前、名前は?」
娘は、答えかけたのを引っ込め、
「新しく付けてくださいません?」
「何? 俺が?」
「私の
「そうだな……じゃあ、ミチはどうだ?」
その顔が、ぱっと輝く。
「はい! えっと……」
「源だ」
「源さん。よろしく」
ミチは、はにかんで頭を下げた。
女の名など、簡単に思い付くはずもない。
*
ミチの足は、一向に治らなかった。
「だって、今さら帰れませんもの」
無論、ただでは帰れまい。
「ねえ源さん、私、ここにいてもいいでしょう?」
源は
ミチは、見る間に大人びた。ともすれば、努めて大人ぶり始めたのかもしれない。ある晩、膝をそろえてかしこまった風貌は
「お嫁にもらってください」
と、ミチが言い終わらぬうちに、源はその
「お前は、海を見たくて山を越えようとしていたのだったな。俺も実は、幼い頃に一度見たきりだ。いつかきっと、連れて行ってやろう」
ミチは澄まし顔を崩し、子どものようにきゃっきゃとはしゃいだ。
*
日中、源はキジを撃ったり、アナグマの
「花を
と告げて外出した。が、花など持ち帰ったことはない。源は、気にはなったものの、やっと何者にも縛られぬ人生を手に入れたミチを、いちいち監視したくはなかった。花を摘むとは、おそらく便所代わりの小川で用を足すことを品良く言っているのだろう。そう推測した。
ある日、ミチは、
「花を摘んできます」
と出て行き、たっぷり三時間ほど戻らなかった。源は、辺りを歩き回り、名前を呼んでは小屋に戻り、立ったり座ったりしては外に出て、ミチを探した。
夕刻に帰宅したミチの姿に、源は
「な、何事だ?」
「すみません、遅くなりました」
「時間も時間だが、それより……」
「ちょっと手間取ってしまって」
その晩、源は夢を見た。源は、柱の陰で息を潜めている。視線の先では、妻の白い尻が、波に煽られるクラゲのようにちゃぷんちゃぷんと揺れている。その尻が
クラゲの波乗りはいやらしい緩やかさで速度と振れ幅を増し、いよいよたけなわであった。妻が大きくのけぞった瞬間、妻の下で仰向けになっているそいつの顔が目に入った。目玉は血走ってまんまるく飛び出し、両者てんでバラバラな方向を向いている。その下に、ひしゃげた上向きの鼻。口は耳までぱっかりと裂け、
濡れた粘膜の立てる音が、ひとしきり源の全身を浮き足立たせた後、妻の声にかき消された。何の飾りもまとわぬ、
以来数日、源は山で過ごすのを控え、小屋の中で
「花を摘んできます」
と出て行き、源は密かに後をつけた。妻がどこで何をしているのか、今日こそ確かめたい。
ミチは、迷いなくずんずん歩いた。獣道を外れ、低木の群れに分け入り、
源がしびれを切らしかけたとき、ミチは「あっ」と声を上げた。ツツジの葉をがさがさと掻き分け、右腕を目一杯伸ばす。立ち上がったその手には、見慣れぬ
二人で
「摘んだ花を、いつもどうしている?」
ミチは面食らって
「いろいろです。そのときの気分で」
「いや、花をどうしようとお前の自由だが、単純に興味があってな。せっかく摘んでも、飾るでもないから」
ミチは
「手に入れるために摘むわけではないのです」
「ほう」
「ほこらに
「願掛け? 何を願うのだ?」
「それは……秘密です」
ミチは照れたように、千枚漬けをつまんでひょいと口に入れた。
「そうか。何にせよ、叶うといいな」
ミチは、ぽりぽりと漬け物を噛みながら答える。
「一つはもう叶いました」
思わせぶりに上目遣いで源を見、くっくっと笑った。
*
ひと回り、季節が巡った。最近、ミチは具合が悪そうで、横になることが増えた。ある朝、
「どうやら、
と、微かに笑みを浮かべた。
「そうか、そりゃめでたい」
二人は手を取り、喜びを分かち合った。
ところが、
源の留守中には今まで通り花摘みに出ているようで、草鞋に新しい泥が付いていることもあるから、決して
ある夕方、源が帰宅すると、ミチの姿が見当たらない。花摘みは長引くこともある。それは源もすでに学んでいたが、
晩の飯が炊けても、ミチは帰らない。目当ての花が見つからないにしても、諦めて帰宅すべき時間だ。そもそもなぜ、
とにかく、今はミチの無事が気がかりだ。日が沈む前に探し出さねば。先ほど
[はなをつまねばなりません]
初めて見る妻の字に、なぜか見覚えがあるようで戸惑う。しかし源は、その内容にこそ眉をひそめた。
――摘まねばなりません?
ミチがそんな言い方をしたことは、これまでなかった。今日に限って一体何が、
――まさか、命を……摘む?
源は
「ミチ! ミチやーい!」
大声で名を呼び、探し回る。考えたくないが、今日は花を探しているのではないかもしれない。林が途切れ、視界が開ける岩場が何となく気になり、足を向けた。普段なら用のない場所だ。草木もないし、獣もまずいない。恐る恐る崖下を覗き込む。岩と岩の間に、人工的な藍色。ミチの
「ミチ!」
微かに動きがあり、白い手が見えた。
「待ってろ! 今行く!」
緩やかな斜面を選ぶのももどかしく、足と尻とで滑り下りる。横たわったミチの元へ走りかけた源は、数歩手前で凍り付いた。
――何だ⁉
気味の悪い違和。ミチはどう見てもうつ伏せに倒れているのに、赤子のいる腹は天に向かって隆起している。いや、膨れているのは、ミチの背中なのだ。背の膨れる妊婦など、聞いたことがない。その大きく張り出した背中が、
そのとき、低い
「源……さん……」
紛れもないミチの声に、源は我に返った。
「ミチ!」
慌てて銃を下ろし、駆け寄る。抱き起こすのにためらいはなかった。どんな
「大丈夫か?」
愛する妻が血まみれの顔をもたげる。
――えっ⁉
源は絶句した。半分潰れたその顔が、
――あ、あなたが、なぜここに……⁉
あの日の彼女の声が、風に乗って届く。
『源や、今日からはお互い一人だよ。元気でしっかり生きようね。そして、いつかまた逢おうね』
――そんな馬鹿な……!
声にならぬ
――俺は一体……
「源さん、泣かないで。私は平気です。少し怪我をしただけ」
ミチは痛みに悶えつつ、源を抱き締める。その腕の中、源は
「花は祈りでした。街で両親と暮らしていた頃、夢でお告げを受けたのです。次の日から、夢と同じ花を探しては摘みました。初めは身の自由を、続いて愛する人との間に子を授かることを願い、次々と叶いました。ですが、そのうちお腹の代わりになぜか背中が膨らんできて……あるとき悪夢を見ました。世にも恐ろしい魔物が生まれてくる夢です。何を
崩れ落ちそうになる
「お前が謝ることなどあるものか」
言ってやれたのはそれだけだった。あまりに
ミチの背に回した手を、胎児がごつんごつんと
――どうしてこんなことに……呪いか? 俺たちは呪われているのか?
いつか見た夢が脳裏に
何も知らぬどこまでも無垢なミチは、ごめんなさい、ごめんなさい、と、何度も繰り返した。その一つひとつが、源の胸に深々と突き刺さる。謝るのは自分の方ではないのか。しかし、どこで何を間違ったのか、源自身にもわからなかった。
ミチが苦しげな呻きを漏らした。一段と険しく、長い。
「いけない、もう生まれます」
「何だと⁉」
産ませてはいけない。いっそ、先ほど構えた銃で撃ってしまうべきだったのではないか。
愛する者の
何とも珍奇な生き物であった。ぶよぶよと柔らかい小さな体は、血にまみれた上に味噌でも塗りたくったような汚れよう。両目はぎゅっと閉じて
ミチは、ごめん、ごめん、と
「なあ、ミチ。魔物の夢や背の膨らみなど、気に病むことはないんじゃないか。この子のどこに不吉なことがあろう。摘んでしまおうなどと、どうか考えないでくれ。一緒に育てよう。きっと、うまくいく」
ミチは、泣き笑いの顔で
「さあ、怪我の手当を」
赤子を抱いたミチを背におぶり、源は我が家を
道中、源は思った。ミチは早晩気づくだろう。この子の耳の裏に
ミチはいずれ、息子に亡き夫の名を与えるだろう。自分の知る限りの読み書きや算術を教え、街へ連れて行って商人や大工と引き合わせ、行く
別れの前の日を、源はよく覚えている。あれは、うららかな昼下がりだった。手を引かれて長いこと歩き、たどり着いた浜辺の
――俺が連れて行ってやるはずだったのにな……。
「大丈夫か?」
湿っぽい落ち葉を踏みながら肩越しに声をかけると、ミチはそっと
「はい、よく眠ってます。なんてかわいらしいの……」
すっかり母の声をしていた。
ふと目をやった草むらに、例の滅紫色の花を見つけ、源は足を止めた。摘んで
東の空から迫る雨雲が豊かな土の匂いを巻き上げ、源の歩みを再び
【了】
花を摘む女 生津直 @nao-namaz
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