花を摘む女

生津直

花を摘む女

 とうげにさしかかると、爽やかな風が吹き出した。それとも、ようやくここまでという心境がそう錯覚させるのか。


 沈みゆく太陽を見やる。だいぶ日が長くなった。気の早い十三夜月が、東の空で輝く。頭上ではメジロが甲高くさえずり、今日はもう終わりにと促した。


「そうか、じゃあ、ここが今日の宿だ」


 げんは一人呟き、乾いた土の上に荷を下ろす。火起こし用に適当なスギの枝葉を集め、両腕いっぱいに抱えて身を起こしたそのとき、荒い息を聞いた。


――いのししか? 


 反射的に働かせた嗅覚はしかし、思いがけぬ答えを告げた。


――人の汗?


「誰かいるのか?」


 林の方へ問うと、相手の呼吸が静まる。言葉が通じた証拠だ。見当をつけて歩み寄れば、黒々とたたずむブナの裏に、年若い娘がいた。十四、十五ぐらいか。


「何だお前、こんなところで何をしている?」


 うるんだ両目が、おずおずとこちらを向く。


「さては、女郎屋から逃げてきたか?」


 娘は首を横に振り、存外にりんとした声を発した。


「奉公に出される前に、海を見たかったのです。それで……」


「山を越えようと? 一人で、そんな寝間着みたいな浴衣でか? 随分と無茶をするな」


 娘は口をへの字に結ぶ。


「何にせよ、今日はもう遅い。熊に襲われたくなきゃ、ここで夜を明かせ。今、火をくところだ」


 娘は片足を引きずっていた。沢を渡るときにくじいたという。源は、手拭いに竹筒の水を含ませ、腫れた足首に巻いてやった。


 昼間釣ったヤマメのこんがり焼けたのを差し出してやると、娘は勢いよくかぶりついた。ところどころ皮の破けた銀色の腹は、たちまち骨を晒す。娘は結局、魚の半身と、握り飯一つ半と、たくあん数切れを、ひと息にたいらげた。空腹が満たされると素直に目をとろかし、じきにすいーすいーと眠りに落ちた。


      * 


 コナラの程よく集まった平地に日が差し、そばに小川がちょろちょろ流れている。源は、ここだ、と直感した。もういくつ目か知れない、一時の住処すみかだ。ただし、今日は大工仕事の前に、娘を何とかせねばならない。娘は挫いた足を引きずり、ひょこひょこと後をついてきていた。


「この川に沿って下れば、あそこに見える寺に出るはずだ。あとは坊さんに何とかしてもらえ」


「あの、お願いがあります」


「何だ?」


「ここに置いてもらえませんか? 怪我が治るまで」


 親はあばらが浮くほど心配しているか、血管がちぎれるほど怒り狂っているに違いないが、娘にとっては帰りたい家ではないのだろう。人里離れたい気持ちは、源にもよくわかる。足が治るまで、という約束で、居候させることにした。


 いつもながらの簡素な小屋を、いつもより大きめにこしらえ、その日のうちには暮らしの手はずを調ととのえた。


「ずっと山暮らしなのですか? こんな風に」


「ああ。五つだか六つの頃からな」


「どうしてです?」


「母親がな、置いていったのだ」


 娘は申し訳なさそうに黙る。


「食うに困って、仕方なかったんだろう。だが、俺は山の中でまず困ったことがない。どういうわけか、食べられるものとそうでないものの見分けがつき、獣のり方も知っていた。俺はきっと、山で暮らすように生まれついていたんだな。街へ下りるときの方がよほど気後きおくれする。あきないに誘われたこともあるが、学もないし、人とはどうもうまくいかなくてな。山の方が合っている。俺の住む場所はここだと、そう思うのだ」


「お父様は?」


「俺が生まれてすぐ、雷に打たれて死んだそうだ」


「まあ、お気の毒に」


「俺には兄弟もいなかったから、母一人、今頃どこでどうしているやら」


 娘は神妙にうつむく。


「お前、名前は?」


 娘は、答えかけたのを引っ込め、


「新しく付けてくださいません?」


「何? 俺が?」


「私の門出かどでですもの。ねえ、お願い」


「そうだな……じゃあ、ミチはどうだ?」


 その顔が、ぱっと輝く。


「はい! えっと……」


「源だ」


「源さん。よろしく」


 ミチは、はにかんで頭を下げた。


 女の名など、簡単に思い付くはずもない。咄嗟とっさに浮かんだ母の名だった。しかし、このミチは、源の母親とは似ても似つかぬ美貌の持ち主だ。見事な花魁おいらんに育つかもしれぬ。そんな刹那の空想に、物憂ものうい苦みが走った。


      * 


 ミチの足は、一向に治らなかった。いな、とっくに治っているのを、まだ痛む、まだ痛むと、偽っていたのだ。


「だって、今さら帰れませんもの」


 無論、ただでは帰れまい。折檻せっかんでもされた挙句、塀の中へ売られるのがオチだ。


「ねえ源さん、私、ここにいてもいいでしょう?」


 源はほぞを噛む。うかうかしている間に、半年が過ぎていた。元来がんらい人付き合いの苦手な自分に、情が湧くなんてことがあろうとは計算外だった。ミチのいない生活を思い描くことは、もはやままならない。もう少しだけだぞ、と言ううちに、また半年が経った。


 ミチは、見る間に大人びた。ともすれば、努めて大人ぶり始めたのかもしれない。ある晩、膝をそろえてかしこまった風貌はまぎれもなく女であったから、


「お嫁にもらってください」


と、ミチが言い終わらぬうちに、源はそのつつましい手を取り、うんうん、と頷いていた。


「お前は、海を見たくて山を越えようとしていたのだったな。俺も実は、幼い頃に一度見たきりだ。いつかきっと、連れて行ってやろう」


 ミチは澄まし顔を崩し、子どものようにきゃっきゃとはしゃいだ。


      * 


 日中、源はキジを撃ったり、アナグマのわなを見に行ったり、キノコを採ったりで、山に出ていることが多い。その間、ミチは大抵、小屋の周りで炊事洗濯や針仕事をする。源が家にいるとき、ミチは時折、


「花をんできます」


と告げて外出した。が、花など持ち帰ったことはない。源は、気にはなったものの、やっと何者にも縛られぬ人生を手に入れたミチを、いちいち監視したくはなかった。花を摘むとは、おそらく便所代わりの小川で用を足すことを品良く言っているのだろう。そう推測した。


 ある日、ミチは、


「花を摘んできます」


と出て行き、たっぷり三時間ほど戻らなかった。源は、辺りを歩き回り、名前を呼んでは小屋に戻り、立ったり座ったりしては外に出て、ミチを探した。


 夕刻に帰宅したミチの姿に、源は狼狽ろうばいした。野良着のらぎの胸元がはだけ、乳房がこぼれそうである。髪は汗でひたいとうなじに張り付き、手足は泥だらけ。それでいて、表情はいとも満足げだ。いや、単に満足というより、淫靡いんびよろこびを思わせた。まるで源ととこを共にした後のような、あるいはそれよりもずっとあでやかな。


「な、何事だ?」


「すみません、遅くなりました」


「時間も時間だが、それより……」


「ちょっと手間取ってしまって」


 牡丹ぼたん色に染まった頬が、恥じらいで緩む。源はミチに対し、初めて不穏な胸騒ぎを覚えた。この嫁は一体、おもてで何をしているのか。キツネにでも化かされたか? それとも、「花を摘む」とは、男を摘むとでもいう意味なのか? まさか、街に出て浮気を?


 その晩、源は夢を見た。源は、柱の陰で息を潜めている。視線の先では、妻の白い尻が、波に煽られるクラゲのようにちゃぷんちゃぷんと揺れている。その尻がまたがりこすっているのは、病的な濃淡を帯びた灰緑色の皮膚を持つ何者かであった。怒りや妬みなど消し飛ぶほど、ぞっとして全身の毛が逆立った。と同時に、沸き立つような後ろめたさを覚えた。見てはいけない。そう感じながらも、目が離せない。


 クラゲの波乗りはいやらしい緩やかさで速度と振れ幅を増し、いよいよたけなわであった。妻が大きくのけぞった瞬間、妻の下で仰向けになっているそいつの顔が目に入った。目玉は血走ってまんまるく飛び出し、両者てんでバラバラな方向を向いている。その下に、ひしゃげた上向きの鼻。口は耳までぱっかりと裂け、附子ぶし色の舌が妻の乳房をべろーりべろりと舐め回して粘つかせる。


 濡れた粘膜の立てる音が、ひとしきり源の全身を浮き足立たせた後、妻の声にかき消された。何の飾りもまとわぬ、獰猛どうもうな嬌声。生き物が発するこれほどき出しの声は、山の中でさえ聞いたことがない。極点へと昇りつめた妻の声は、化け物が妻の胎内へと怒濤どとうのごとく精を放つ心象を連れてきた。まるで本当に眼前で起きたかのように、むんむんと湿っぽい臭気の立つ夢であった。


 以来数日、源は山で過ごすのを控え、小屋の中で草鞋わらじなど編んで暇を潰した。ミチがついに、


「花を摘んできます」


と出て行き、源は密かに後をつけた。妻がどこで何をしているのか、今日こそ確かめたい。


 ミチは、迷いなくずんずん歩いた。獣道を外れ、低木の群れに分け入り、華奢きゃしゃな手で枝を押しのけては、奥へと目を凝らした。こっちのやぶ、あっちの茂みと渡り歩き、同じことを繰り返す。


 源がしびれを切らしかけたとき、ミチは「あっ」と声を上げた。ツツジの葉をがさがさと掻き分け、右腕を目一杯伸ばす。立ち上がったその手には、見慣れぬ滅紫けしむらさき色の花が数輪握られていた。襟元はいつかのように乱れ、肩で息をしている。言葉通り花を摘む、妻の姿であった。花といっても、何でもよいわけではなく、この花が目当てだったらしい。無邪気な笑顔をかわいらしく思うと同時に、源は妻の非行を疑ったことを恥じた。


 二人で夕餉ゆうげを囲みながら、源は何気ない風を装って尋ねた。


「摘んだ花を、いつもどうしている?」


 ミチは面食らって汁椀しるわんを持ち直し、


「いろいろです。そのときの気分で」


「いや、花をどうしようとお前の自由だが、単純に興味があってな。せっかく摘んでも、飾るでもないから」


 ミチはくうを見つめ、


「手に入れるために摘むわけではないのです」


「ほう」


「ほこらにそなえたり、風に乗せて飛ばしたり、木の下に埋めたり、川に流したり……願掛けみたいなものでしょうか」


「願掛け? 何を願うのだ?」


「それは……秘密です」


 ミチは照れたように、千枚漬けをつまんでひょいと口に入れた。


「そうか。何にせよ、叶うといいな」


 ミチは、ぽりぽりと漬け物を噛みながら答える。


「一つはもう叶いました」


 思わせぶりに上目遣いで源を見、くっくっと笑った。


      * 


 ひと回り、季節が巡った。最近、ミチは具合が悪そうで、横になることが増えた。ある朝、気怠けだるそうに体を起こし、


「どうやら、身籠みごもったようです」


と、微かに笑みを浮かべた。


「そうか、そりゃめでたい」


 二人は手を取り、喜びを分かち合った。


 ところが、三月みつき四月よつきと経つうち、ミチは古くなった浴衣を小屋の中に吊り、その向こうでばかり過ごすようになった。源が覗くと、あたふたと上掛けを胸まで引っ張り上げる。まるで源の目からおのれを隠すかのように。聞けば、変わってしまった体を見られるのが恥ずかしいという。妊婦の体つきなど皆一様いちようだろうから、源にはせなかった。


 源の留守中には今まで通り花摘みに出ているようで、草鞋に新しい泥が付いていることもあるから、決してせっているわけではないらしい。自由を求めて家を飛び出してきたミチを、源はできるだけ好きにさせてやりたかった。


 ある夕方、源が帰宅すると、ミチの姿が見当たらない。花摘みは長引くこともある。それは源もすでに学んでいたが、身重みおもの体で山中を歩き回れば危険も伴う。源はキジをさばきながら、気もそぞろであった。


 晩の飯が炊けても、ミチは帰らない。目当ての花が見つからないにしても、諦めて帰宅すべき時間だ。そもそもなぜ、でもしない花など摘むのか。腹の子より大事なことか。喉の奥から不満げな音が漏れ、源は自分がいつしか溜め込んでいた鬱憤うっぷんに気づかされた。妻の謎めいた行動を、無意識にうとんじていたのかもしれない。


 とにかく、今はミチの無事が気がかりだ。日が沈む前に探し出さねば。先ほどほうった手拭いを膳から取り上げると、はらりと小さな紙片が落ちた。拾い上げて、目を見張る。そこには、たどたどしい文字が並んでいた。


[はなをつまねばなりません]


 初めて見る妻の字に、なぜか見覚えがあるようで戸惑う。しかし源は、その内容にこそ眉をひそめた。


――摘まねばなりません?


 ミチがそんな言い方をしたことは、これまでなかった。今日に限って一体何が、させているのか。しかも、わざわざ書き置きを残すとは。源の直感がざわついた。


――まさか、命を……摘む?


 源ははじかれたように表へ飛び出した。はっと思い直して草鞋を履きに戻り、猟銃を手に取って駆け出す。


「ミチ! ミチやーい!」


 大声で名を呼び、探し回る。考えたくないが、今日は花を探しているのではないかもしれない。林が途切れ、視界が開ける岩場が何となく気になり、足を向けた。普段なら用のない場所だ。草木もないし、獣もまずいない。恐る恐る崖下を覗き込む。岩と岩の間に、人工的な藍色。ミチの半纏はんてんだ。


「ミチ!」


 微かに動きがあり、白い手が見えた。


「待ってろ! 今行く!」


 緩やかな斜面を選ぶのももどかしく、足と尻とで滑り下りる。横たわったミチの元へ走りかけた源は、数歩手前で凍り付いた。


――何だ⁉


 気味の悪い違和。ミチはどう見てもうつ伏せに倒れているのに、赤子のいる腹は天に向かって隆起している。いや、膨れているのは、ミチの背中なのだ。背の膨れる妊婦など、聞いたことがない。その大きく張り出した背中が、あやしくうごめいた。源は思わず後ずさり、銃を構える。取り乱した呼吸に劣らず、胸の内も激しく波立っていた。妻だったはずのものが、得体の知れないものに成り果てている。これは夢か? なぜこんな悪夢を見ねばならない?


 そのとき、低いうめきが聞こえた。


「源……さん……」


 紛れもないミチの声に、源は我に返った。


「ミチ!」


 慌てて銃を下ろし、駆け寄る。抱き起こすのにためらいはなかった。どんな形貌けいぼうをしていようと、ミチはミチではないか。


「大丈夫か?」


 愛する妻が血まみれの顔をもたげる。


――えっ⁉


 源は絶句した。半分潰れたその顔が、朧気おぼろげな記憶と重なる。みにくくひしゃげた左半分を、彼女はいつも長い髪で隠していた。


――あ、あなたが、なぜここに……⁉


 あの日の彼女の声が、風に乗って届く。


『源や、今日からはお互い一人だよ。元気でしっかり生きようね。そして、いつかまた逢おうね』


――そんな馬鹿な……!


 声にならぬ慟哭どうこくが、腹の底でわななく。涙は人知れぬ瀑布ばくふのごとく、ただ一筋に落ちた。湧いては落ち、落ちては湧き続けた。


――俺は一体……


「源さん、泣かないで。私は平気です。少し怪我をしただけ」


 ミチは痛みに悶えつつ、源を抱き締める。その腕の中、源は幼子おさなごのように震えていた。ミチは源の耳元で、ぽつりぽつりと語った。


「花は祈りでした。街で両親と暮らしていた頃、夢でお告げを受けたのです。次の日から、夢と同じ花を探しては摘みました。初めは身の自由を、続いて愛する人との間に子を授かることを願い、次々と叶いました。ですが、そのうちお腹の代わりになぜか背中が膨らんできて……あるとき悪夢を見ました。世にも恐ろしい魔物が生まれてくる夢です。何をはらんでしまったのかとおぞましくてたまらなかった。途方に暮れて、どうか流産させてくださいと、花を摘んで祈りました。でも、一向に流れては行かず、子は私の背でどんどん育つばかり。こんなことは初めてでした。祈っても祈っても叶わないなんて……今朝、とうとう水が下りました。生まれてくる前にあの世へ連れて行かねばと、崖から飛び降りました。ですが死にきれず、赤子もまだ動いています。ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 崩れ落ちそうになるもろい体を、源は力を込めて抱き返した。


「お前が謝ることなどあるものか」


 言ってやれたのはそれだけだった。あまりに常軌じょうきいっした出来事に、呆然としていた。ミチが見たという、魔物が生まれる夢。現実に背中が膨らむという怪奇な事態。そして……。


 ミチの背に回した手を、胎児がごつんごつんと忌々いまいましげに蹴った。そのを、源はまだ認められずにいた。


――どうしてこんなことに……呪いか? 俺たちは呪われているのか?


 いつか見た夢が脳裏によみがえった。あの醜悪な化け物が、まさか源自身だったとでもいうのか。そんなはずがない。しかし、どんなに目をそむけようと、ミチの奥へと精を送り込んだ者は源一人しかいない。その結果がこれだ。自らの尾を噛むへびのようにどうしようもなくねじれた運命を、目の前に突きつけられていた。


 何も知らぬどこまでも無垢なミチは、ごめんなさい、ごめんなさい、と、何度も繰り返した。その一つひとつが、源の胸に深々と突き刺さる。謝るのは自分の方ではないのか。しかし、どこで何を間違ったのか、源自身にもわからなかった。


 ミチが苦しげな呻きを漏らした。一段と険しく、長い。


「いけない、もう生まれます」


「何だと⁉」


 産ませてはいけない。いっそ、先ほど構えた銃で撃ってしまうべきだったのではないか。げられもしないそんな絵空事えそらごとを宙に溶かすぐらいしか、源にはもはやすべがなかった。


 愛する者の咆哮ほうこうが夕刻の谷に響くのを、幾度聞いただろうか。やがて、何倍もけたたましい新たな泣き声がとどろき、山全体を揺るがした。ミチの股の間からぬるりと滑り出たものを、源は夢中で抱き止めた。


 何とも珍奇な生き物であった。ぶよぶよと柔らかい小さな体は、血にまみれた上に味噌でも塗りたくったような汚れよう。両目はぎゅっと閉じて一文字いちもんじを描き、血色の悪い腕や脚はしわくちゃで、「玉のよう」などとはお世辞にも言えない不細工さだ。だが、禍々まがまがしさには程遠かった。むしろ神々こうごうしくさえあった。真っ赤な口を大きく開けてこれでもかとわめき、五本の指を目一杯広げた手で宙を掻くさまは、ただただ懸命であり、十二分であった。胸が震えた。


 ミチは、ごめん、ごめん、と譫言うわごとのように呟きながら、赤子の首に手をかけようとした。が、源が止めるより早く、愛おしげにこの男児を抱き上げ、泣きじゃくっていた。お互い、思いは一つであった。


「なあ、ミチ。魔物の夢や背の膨らみなど、気に病むことはないんじゃないか。この子のどこに不吉なことがあろう。摘んでしまおうなどと、どうか考えないでくれ。一緒に育てよう。きっと、うまくいく」


 ミチは、泣き笑いの顔でうなずいた。赤子はちゃっかり乳房を見つけ、しばらく吸い付いて気が済むと、すやすやと眠りについた。


「さあ、怪我の手当を」


 赤子を抱いたミチを背におぶり、源は我が家をした。


 道中、源は思った。ミチは早晩気づくだろう。この子の耳の裏にあざがあることに。判で押したように夫と同じ、ちょうの形をしていることに。それが偶然でないことを、ミチは悟るはずだ。そのとき、俺自身にはまだ息があるだろうか。


 ミチはいずれ、息子に亡き夫の名を与えるだろう。自分の知る限りの読み書きや算術を教え、街へ連れて行って商人や大工と引き合わせ、行くすえに備えるだろう。それから頃合いを見て、息子を山にだろう。定めに従うためか、あるいは……。


 別れの前の日を、源はよく覚えている。あれは、うららかな昼下がりだった。手を引かれて長いこと歩き、たどり着いた浜辺のまぶしさに歓声を上げた。きらめく水面を踏んで駆け回り、すっ転んで潮辛い砂を噛んだ。泣き叫ぶ源を、母はいつくしむように抱いた。転んでいない母の頬まで、なぜだか潮辛い味がした。見慣れた半分だけの笑顔が、あの日は微かに曇って見えた。


――俺が連れて行ってやるはずだったのにな……。


 無精ぶしょうをしている間に、日は暮れるのが世の習いだ。夫と見ることのできなかった海に、彼女は息子を連れ、どんな思いで触れたのだろう。


「大丈夫か?」


 湿っぽい落ち葉を踏みながら肩越しに声をかけると、ミチはそっとささやき返した。


「はい、よく眠ってます。なんてかわいらしいの……」


 すっかり母の声をしていた。


 ふと目をやった草むらに、例の滅紫色の花を見つけ、源は足を止めた。摘んですがりたいような、敢えて拒みたいような、ないぜの気持ちはすぐに雲散した。両手は塞がっている。背後には二人分の穏やかな息遣いきづかい。これ以上の望みなどあろうか。


 東の空から迫る雨雲が豊かな土の匂いを巻き上げ、源の歩みを再びかした。





        【了】


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