非情の魔宮

安江俊明

第1話

「テレビだけに取材をさせるわけにはいかん!」

 ジパング国にあるM放送局ラジオ局長の岡本が吼えた。

「ラジオからも要員を参加させるからな」

 折角テレビだけで事を運ぼうとしていたテレビ報道局は、ラ・テ平等の原則を振りかざしたラジオのトップに困惑の表情をあからさまにした。

 この件は早速ラジオ担当の常務に報告され、常務会でラジオからも取材記者を派遣することが決まった。

 行先はリプレッシブ共和国、略してリプレ共和国。共和国は人民に対して非常に抑圧的な国として知られ、国家内部の状況が殆ど掴めない。そうは言っても、対外的に孤立しているわけではない。

 アフリカをはじめとするいわゆる第三世界と呼ばれる国々を中心に外交関係を結んでいる。

 その南に国境を接してオプレッシブ民国すなわちオプレ民国があり、こちらも国民に対して圧政的な国家である。

 そして共和国と民国は分断国家であり、軍事境界線を挟んで敵対している。

 北の共和国のバックには冷戦時代に東ブロックと呼ばれた大国・アシロ連邦が控え、南の民国の後ろには世界の警察と呼ばれたユッシー合衆国が目を光らせている。リプレとオプレは分断国家であると同時に、それぞれの背後にいる大国同士が半島で対峙する最前線でもある。


 さて一体誰をラジオから行かせるのか。岡本は早速ラジオ報道部長の谷川を呼びつけて、すぐに記者を選ぶように指示した。

 谷川の頭にはその時、どうも俺、帝(みかど)俊平の顔が浮かんだらしい。

 谷川は真面目にクソがつくような性格の男で、浅黒い肌の顔に日頃暗めの表情を湛えており、俺が喫茶室に呼び出された時には、さらに表情が曇って見えた。

「あのなあ帝君、君なあ、リプレ共和国に取材に行けるか?」

 遠慮がちに谷川が俺の表情を窺っている。

「あの収容所国家のリプレッシブ共和国のことですか?」

 まさかと思い、俺は敢えて報道部長に確認した。

「そうや。どや?」

 断られたら、あとは打つタマがない。そうなれば、業務命令を出して行かせるしかない。そうとでも思っているのだろうか、谷川の眼鏡の奥から俺を捉えて離さない鋭い目が睨みつけている。

 ここは部下として部長に応えてあげるべきところだろうな。

 俺は即座に投げ返した。

「ええ、是非行かせてください」

 途端に谷川のお天気状況は急速に回復した。今にも雨粒が落ちて来そうな暗い表情は消え去り、浅黒い顔中に安堵の太陽が顔を覗かせた。

「そうか、そうか。頼んだぞ。何しろ情報のない国なので、危険なこともあるかも知れん。故郷のご両親にも事情だけは話しておいたほうがいいかも知れんな」

「連絡すれば、却って心配すると思いますので、黙って行きます」

「そうか。お前の判断に任せる」

 谷川は喫茶代金の伝票にさらさらとサインして立ち上がり、俺の顔を振り返ることもなく、さっさとラジオ報道部に戻って行った。

 俺は正面玄関から社のグラウンドに出て、グラウンドを見下ろすベンチに座り、青空を見上げながら共和国、共和国と心の中で繰り返した。

 いい話が転がり込んで来たものだ。こんなことでもなければ、あんな抑圧的な国の中は決して覗けない。記者生活十周年記念ものだ。

 俺の脳裏には共和国の独裁者であり、主席のクム・イルソーの面構えが浮かんでいた。

 あの男の首の右うしろにはそれはデカイこぶがある。対立するオプレ国のテレビのモーニング・ショーでは毎朝そのこぶの大きさを強調する背面の映像を繰り返し流している。

 一方、共和国の広報誌では、こぶを隠すためイルソーの姿が背後から写る写真は決して使われない。もし万が一そんなことがあれば、広報誌編集長ら制作に関わったスタッフは全て監獄に送られ、二度とはシャバに出て来られない。そんな話がまことしやかに伝えられている。

 共和国に渡航するにあたり、俺はイルソーが抗ジパング戦線のリーダーで祖国を守る英雄だったと言われている時代のイルソーを知る共産主義者イン・リンという男が書いた『クム・イルソー王朝成立秘史』なる著作を読んでみた。

 イン・リンはイルソーが英雄だったというのは真っ赤なウソであり、戦線を離脱して、彼を傀儡政権のトップに据えようと画策していた大国・アシロ連邦に逃げ込んでいたことを明かしている。

 イルソーは戦争が終結してから、アシロ軍少尉の肩章をつけた制服に身を固め、アシロの軍人とともに、現在の「革命の首都」と呼ばれるヤンピョンに足を踏み入れ、アシロがお膳立てした人民決起集会で演説し、いつの間にか後の共和国代表に祭り上げられていた。

 イン・リンは共和国独立後イルソーが政敵を相次いで粛清し、息子クム・イルジョンを世継ぎにするという社会主義国家にはあり得ない「クム王朝」を築き上げたと書いている。

 俺はイルソーの正体を見極めるのを今回巡って来た共和国取材の一大目標に掲げ、社に企画案を提出した。


 共和国取材の出発日は四月五日に決まった。往路は新潟港から共和国の不定期客船ムサ・ジヨン号で日本海を航行し、共和国東岸にあるウォンサン港に渡るルートである。

 テレビ報道から参加するメンバーも決まっていた。

 団長は報道局の野本副部長。井坪記者。荻野カメラマン。沢田カメラマンで、ラジオの俺を入れて総勢五名の取材団である。

 野本団長の頭の中にはテレビ報道でまとめ上げた二十の企画案が詰まっていた。例えば誰でも考えるクム・イルソーへのインタビュー。しかしそれが成功すれば、間違いなくトップクラスのニュース価値がある。もし叶わなければ、せめて最高幹部クラスのインタビューが欲しい。

 ちょうど渡航時期は敵対する民国との南北スポーツ交流が実現するかどうかで世界の注目を浴びていた頃である。

 南北軍事境界線にあるマンパンジョムで開催されるかも知れない南北スポーツ会談は、もし実現すれば、南北雪解けの兆しとしてそれなりのニュース価値がある。その場合は井坪記者の出番である。

 ヤクザもたじろぎそうな面構えでのっしのっしとその巨体を揺さぶりながら歩く井坪がマンパンジョムの会議場から硬派丸出しの記者リポートを入れることになるのだろう。

 とにかく井坪の鋭い眼光で睨まれたら、若手記者なぞは逃げてしまう。俺も出来ることなら余り顔を合わせたくない人種である。

 ところが、三つの部屋割りでは勿論団長部屋は野本氏ひとり。カメラマン部屋は荻野・沢田両カメラマン。と、なれば残るは井坪と俺が同部屋になるのは必至だ。果たしてあの男との同部屋は耐えられるものなのだろうか。俺には南北スポーツ会談よりも、そちらの方が余程の関心事だ。

 ところで、そもそもの取材団の形式的な目的は、ジパングから同行するジパング・共和国芸術交流会の面々が参加するフェスティバルの取材となっている。

 共和国が交流する各国から音楽団を首都ヤンピョンに招き、クム・イルソー主席の生誕七十二周年を盛大に祝う音楽フェスティバルの随行取材である。世界からはアルジェリアア、インド、フランス、メキシコなどが参加している。

 だが、取材団の密かな目的は音楽会とは全く別のところにあった。この不可思議な国の裏側に一体何が潜んでいるのか、そのヴェールを少しでも剥がすことである。


 四月五日の夕刻、乗客の様々な想いを乗せて、客船ムサ・ジヨン号は共和国東岸の港湾都市・ウォンサンに向けて離岸した。

 岸壁にはジパング在住のリプレ人の団体が祖国に向かう船に向かって「クム・イルソー主席万歳(マンセイ)!」と叫び、甲板に出て見送りに応える人々とテープを握り合っていた。ちょっとしたアクシデントは出航してから間もなくのことだった。低気圧を避けるため船が錨を下ろしてしまったのだ。

 取材団は芸術交流会の面々と挨拶を兼ねて食堂に集まり、昼食をとった。

 野本団長が団長の桐畑加寿子に敬意を表してまず声を掛けた。

「このままですとヤンピョン到着が遅れそうですが、国際音楽会のスケジュールの方は大丈夫ですか?」

 桐畑は箸を止めて答えた。

「わたしも主席のご招待を受けて、これでもう何回も参加しておりますが、こんなことは初めてです。でも日程に余裕が見てありますので、大丈夫でしょう。近江富士子さんのように初めて音楽祭に参加されるお若い方なら少しでも早く檜舞台に立ちたいと思われるでしょうね」

 桐畑は咀嚼しながら口を軽く指で隠し、目は富士子の横顔を見つめていた。

 富士子は団長の言葉に箸を止めて口を押え、食べ物を飲み込んでから口を開いた。 

「今、桐畑先生が日程に余裕が持たせてあるとおっしゃっていただいたので安心しました。先生、有難うございます」

 桐畑は満足したように富士子に軽く会釈をした。

 船上の食事に出された焼肉は脂身が少なく淡白な仕上げで、出発の前に在ジパング・リプレ人総連合会との食事の席で共和国の味付けについて話を聞いていたのと合致した。

 共和国の味付けは南の民国よりも薄く、半島を下るほどに味が濃くなるという説明だった。例外はキムチである。実に辛い。彼の地の辛さにまだ身体が慣れていなかったせいか直ぐに腹を下し、俺はトイレに走った。

 

 低気圧が通り過ぎ、ムサ・ジヨン号はようやく仕切り直して動き始めたが、ウォンサンに到着したのは二日後の早朝だった。

 岸壁には共和国人民が出迎えていた。クム・イルソーの巨大な立像が出迎えに集まった群衆を睥睨(へいげい)している。

 車でヤンピョンに入ると、首都中心部を貫流する大河・ドンガンが流れ、薄緑の柳と桃の花が美しい。

 われわれは宿泊先になるポトンガン・ホテルに入った。ドンガンの支流に当たるというポトンガン沿いにあり、外国人しか泊めないらしい。警備のために外国人は一か所にまとめてしまおうという一種の隔離政策だろうと俺は思った。

 三つの部屋割りは予想通りで、井坪と同じ部屋に荷物を運び込んだ。

 ホテルでの注意事項として言われたのは、部屋のドアは開けっ放しにしておけということだった。

 何故と思うが、共和国には犯罪者はいないというのが返答だった。そんな馬鹿な事! そう思っていると井坪が言った。

「今宵はわれわれを含むゲストを歓待する宴会があるから、それまで充分に身体を休めておけよ」

 いつものように先輩風を吹かせている。こんな男とこれから二週間あまり同じ部屋で過ごすと考えると憂鬱極まりない。

 辛いキムチのせいで下した腹がまだすっきりしない。急にトイレに行きたくなって駆け込み、パンツを下ろした瞬間に軟便それも超特急便が出た。

 とにかく用は済んだが、換気設備がないのか、仕方なく便を流しただけでトイレから出たら、交代に井坪が用を足しにトイレに入った。

「くせえ!」

 鼻をつまみながら、顔を歪めた井坪がトイレから転げ出て来た。

「おい、お前、何ちゅうウンコするんだ!」

「スミマセン。まだ腹を下したままなんです」

 井坪は鼻を押さえながら無言でベッドに横たわり、しばらくすると大きな鼾をかいていた。この鼾としばらくお付き合いか。ついてない!

 俺も自分のベッドに横たわり、上布団で顔を覆った。


 ヤンピョンで四月十五日、予定通りクム・イルソー主席の生誕七十二周年を祝う『ヤンピョン国際音楽祭』なる催しが開かれた。世界十四か国から音楽関係の十八団体が招待されていた。

 日が流れ、野本団長のイライラは増すばかりだった。クム・イルソー主席のインタビューはおろか、党の幹部である政治局常務委員あるいは政治局員へのインタビューも叶わないまま、空しく日々が過ぎていたからだ。

 団長は常に付きまとっている対外文化協会のクム・イルに、あんたでは話が進まないから協会長に会わせろと、特徴あるあばた顔を引き攣らせて何度も迫ったが、押し返されるばかりだった。

「軍事境界線のマンパンジョブに連れて行ってくれ」と要求しても、暖簾の腕押し状態が続いている。

 俺の任務は、この不可思議な国で人々はどう暮らしているのかをとことん追求した記者リポートを帰国してから制作することである。ところ変われば品変わるで、全てが関心の対象となり、その内容を取材テープに収録していくのだ。

 ある日野本団長が二人きりで話したいというから、ホテルの一室に行ったら驚くべき言葉が待っていた。

「おい、お前の持っているテープレコーダーをクム・イルが欲しがっている。やるわけには参らぬか」

 あばた顔が俺の顔を覗き込んでいる。

「無理ですよ! そんなことは出来ません! まだ取材も残っているし……」

 あばたも頷いた。

「そうだろうなあ。よしわかった。この話はここまで」

 あばたと別れ、俺は愕然としていた。

 卑しくもクム・イルは対外文化協会の指導員であり、この国のエリートである。その人物が間接的に団長を通じ、モノをねだるという行為自体が恥ずべきことだ。いくら貧しい国だとは言え、エリートとしての自負は一体何処に消え失せたんだ!

 俺は部屋に戻り、バッグにしまってあるテープレコーダーを思わず確認した。あぶない、あぶない。ああ、何という国だ!


 帰国の日はどんどん迫って来る。政治局員インタビューは何とか撮れたが、是非ものであるマンパンジョムの取材はまだだ。

 とにかく軍事境界線の最前線まで行かなくては話にならない。

 諦めが支配し始めた頃、団長部屋で深夜の酒盛りが行われた。芸術交流会の面々も酒席に顔を揃えていた。ただ、近江富士子の姿が見えない。あの酒好きが一体どうしたのだろう。俺は気になっていた。

 その時部屋のドアが激しくノックされた。

「何事や!」と異口同音に叫んだわれわれに告げられたのは、深夜のマンパンジョム行きだった。

「さあ、皆さん。お待ちかねのマンパンジョムへ行きましょう!」

 クム・イルが満面の笑みを浮かべている。

 酒盛りを中断して行かざるを得ない。野本団長以下取材陣は、あたふたと出発の準備に取り掛かった。

 取材団の移動は闇夜に限られている。取材カメラが使えないようにするためだ。カメラマンは手も足も出ない。それでも、沢田カメラマンは流れゆく闇夜に抗してカメラを向け続けていた。

 座席にあるスポットライトの灯りだけが煌々とともる中で、俺は井坪と酒を酌み交わし、酔いが回っていつの間にか眠り込んでしまった。


 目が覚めると、窓のカーテンの隙間からまばゆい光が差し込んでいた。

 列車はいつの間にかマンパンジョムの入り口となるソケン駅に到着していた。

 そのあと案内された軍事境界線の山合いには、青い水を湛えて流れるリムジンガンが見え隠れしていた。

 俺は南北同じ民族同士が睨み合う軍事境界線で風に吹かれ、身を置いているうちに、幻想空間に入り込んだような錯覚に襲われた。一瞬全ての音が止まったような感覚である。

 その「真空空間」を破ったのは、カササギの甲高い囀りだった。何羽かが軍事境界線を北へ南へと自由に飛び回っている。

 幻想的な空間から現実に舞い戻り、俺は改めて民族分断の悲劇と矛盾を強く感じた。

 その時から三十四年後、この地でユッシー合衆国大統領とクム・イルソー主席の孫にあたる人物が史上初の両国首脳会談を行うことになるとは、その時誰も夢想だにしなかった。


 帰国直前になってとんでもない事件が起こった。ジパングから音楽祭に参加していた若手歌手・近江富士子がホテルから失踪したのである。

 情報飢餓の共和国でジパング人が失踪するという事件であり、しかもジパングから同行派遣されている取材陣がいる間に起こったことから、ジパングでは是非とも事件発生をカバーし放送につなげようと躍起になった。

 共和国としては痛い腹を探られたくない事件であり、警察発表などあるはずもないお国柄で、真相を闇から闇に葬りたいのが本音だ。

 野本団長はクム・イルに掛け合い、無駄な努力とは思いながら警察当局が調べたことを取材陣に公表するように迫ったが、予期した通りのらりくらりの対応である。

 近江富士子は果たして何処でどうなったのか。まずは芸術交流会の面々の証言をとるため、全員団長部屋に集まってもらった。

 団長の桐畑加寿子はこう話した。

「彼女はフェスティバルで非常に受けがよかったです。団員ではありますが、こちらに来ていつも彼女と接していたのはママさんコーラスの嘉田さんと国廣さんです。一度彼女らから話をよく聞かれるのがいいと思います」

 それを受けて嘉田が口を開いた。

「最後に彼女を見かけたのはホテルの食堂でした。『もう共和国の食事も飽きたわね』なんて言いながら、わたしと国廣さんと彼女で夕食を囲みました。昨日の夕方のことです。ちょうど食事が終わって、三人一緒に部屋に戻ろうとしていたら、急に富士子さんがトイレに行きたいって言い出して、同じ階の一般用トイレに独りで行かれました。部屋の方がゆっくりするのにと思いましたが、何故か急いでおられましたね。それっきりで、今日お部屋に朝食のお誘いの電話をしても誰も出ませんでした。余程お疲れでまだ寝ておられるのかと思いましたが、朝食の時間が過ぎても会えないので、だんだん不安になり、桐畑団長にお知らせしたんです。それで係員が富士子さんの部屋をマスター・キーで開けてもらったんですが、彼女は部屋にいませんでした。これは何かあったんだと思いましたね」

 もうひとり、国廣の証言だ。

「いや、今嘉田さんがおっしゃった通りで、特に付け加えることはありません」

「このホテルは鍵をかけなくても大丈夫などとホテル側が安全性を強調していましたが、女性の皆さん、キーはどうされていました?」

 俺は念のため尋ねた。

「そんなこと言われても、女の身ですからね。鍵は三人ともきちんとかけていましたよ。勿論富士子さんも」

「そうですね、今さっきもマスター・キーで開けてもらったくらいですからね」

「副団長の太田さんは何か気付かれたことは?」

「いや、特にありません。彼女とお会いしたのは夜にこの団長室で酒盛りをされる時ぐらいで、まあ勿論彼女が歌うのは全て聞きましたけどね」

 野本団長が口を開いた。

「今お話を伺っていても、彼女は昨日の夕方に忽然とホテルから姿を消したということぐらいで、それ以上はわからない状況ですよね。彼女がこちらに来て団以外で付き合っていた人物はいたのでしょうか」

「いいえ、大体いつもわたしら三人一緒でしたからね。誰かいればわかると思います」

 嘉田が答えた。

「となると、トイレで何かがあったのかということになりますが、先ほど対外文化協会を通じてホテルの従業員に尋ねてもらったところ、別に特に変わったこともない。血痕がトイレにあったとか、遺留品のようなものがあったとか、それはとにかくないということでした」

 野本が報告した。

「そうですか、一体何があったのでしょうね?」

 桐畑団長が首を傾げた。立場上、もしも富士子に何かあれば責任を問われかねず、困惑している様子が窺えた。

 野本は団長として、放送の段取りの画を描いた。

「もう少し調べてみて、状況が変わらないようなら、『リプレ共和国で開かれたクム・イルソー生誕七十二周年記念祝賀音楽フェスティバルでジパングの歌姫が失踪!』といった括りでヤンピョン発の特ダネをわが系列のテレビネットワークに発信する。リポートは井坪記者だ。ラジオについては帝君に任せるから、本社に連絡を取るなりして対応してくれ。それと、このホテルにT通信社の駐在員がいるから、われわれの第一報が終わるまで、こちらからはアプローチしないように気を付けてくれ」

 俺は現在の状況を部屋の電話で本社に伝えようとしたが、ジパングにはなかなかつながらない。以前ヤンピョンに無事到着したことを谷川ラジオ報道部長に伝える電話がつながるのに、試してみたら約一時間半かかった。この国が如何に世界で孤立しているのかがわかるような気がする。残るは携帯電話しかない。携帯電話は前年にアメリカのモトローラ社が世界初の手持ちの携帯電話を発売していた。俺はそのプロトタイプをヤンピョンに持参していた。


 近江富士子の消息はわからないまま一週間が過ぎ去った。

 野本はいよいよ決断を迫られ、直ぐに歌姫失踪のニュースを発信することが決まった。

 これでジパング中が大騒ぎになるに違いない。

 谷川部長から連絡があり、とりあえずは通信社のニュースでカバーするが、出来るだけ早く帝リポートを頼むと言って来た。ラジオとテレビの報道セクションが同居する本社の六階は蜂の巣をつついたような状態になっていた。

 俺はリポートをまとめ上げて本社に連絡を入れ、一本目は昼ワイドの頭でOAすることになった。

 歌姫失踪はジパング全国で大きな反響を呼び、系列のキーテレビ局が応援取材団を送ることを決めた。他系列も取材団をヤンピョンに送ろうと動き始めたが、共和国は取材団の入国を一切拒絶した。

 ヤンピョンに居るわれわれ取材団にも、対外文化協会を通じて、音楽祭取材のための滞在許可の期間はとうに過ぎており、即刻荷物をまとめて国外に出るようにクム・ホダム会長名で勧告があった。

 野本団長は取材団を集め、共和国の脅しに屈することなく、徹底して歌姫に関する報道と情報の収集に当たるように激励した。

 さらに指導員のクム・イルを呼んで、クム・イルソー主席に宛てた以下のような抗議文書を手渡した。

『今回の共和国の態度は全く理解出来ない。われわれの仲間が行方不明になるという異常事態に際し、何の協力もせず、まるで何事もなかったかのようにわれわれの帰国を促すという人権を軽んずる貴国の態度は全く容認できるものではない。一方で、貴国の対応はわれわれの任務である報道の自由と確保に対する重大な侵犯である。本来貴国の主席の音楽祭にわが国の芸術交流会を招待しておきながら、その安全を図ることを怠り、自らの失策をあたかもわれわれが悪いかのごとく、行方不明になっている近江富士子氏の捜査協力も行わず、いたずらに事態を混乱させている責任は真に甚大である。捜査協力及び、近江富士子氏の所在を明らかにするための協力が得られないならば、われわれは貴国に留まり、富士子氏の発見に全力を挙げ、また報道機関としての使命を果たさざるを得ない。ここに理不尽な帰国勧告に対し、厳重に抗議するものである』。

 俺は歌姫失踪のその後の推移を携帯リポートでラジオ電波に載せていた。電波の加減で、音声の途切れなどがあるが、却って現地報告はナマの迫力があるなどと谷川ラジオ報道部長は打ち合わせの時に俺の耳に囁いた。だが、内容的には事態の進展がない限り、新鮮味がない。

 しかも、言葉のギャップに加えて、ホテル以外に取材で出ることは許可されず、まさにかごの鳥状態であった。

 俺は何とか情報を得ようと、ホテル内にある喫茶店のウェイトレスをつかまえて英語で話しかけたら、偶々彼女も英語で返して来た。ところが、喫茶店のマネージャーらしき男が彼女に向かってリプレ語で叫んだ瞬間、彼女は俺の前から姿を消した。われわれの接触を拒むかん口令が敷かれている様だった。

 野本団長はひるまずクム・イル指導員を呼び、抗議文と同じ内容を繰り返し伝えていた。

 T通信社の駐在員、谷岡一夫はわれわれが情報を秘匿し、出し抜かれたことに悔しさを滲ませたが、同業として特ダネの意味も理解し、もしも通訳が要るような場合には協力すると約束してくれた。野本団長はひとり強力な助っ人が出来たと喜んだ。

 T通信社は谷岡のヤンピョン発原稿をジパング全国に配信し、契約ラジオ局としてその原稿が谷川ラジオ報道部長の許にも届けられている。

 谷川部長はその原稿の内容に是非必要な部分があれば、逆に俺に知らせて来てくれた。それをクレジット付きでヤンピョン発の記者リポートの中に織り込もうという訳だ。

 

 事態は動かず、徒労の日が続いていた。芸術交流会は近江富士子を除く桐畑団長以下全員が帰国していた。

 そんな頃、谷岡がT通信社独自のネットワークを通じて、近江富士子らしい人物を最近クム・イルソーの宮殿内で見かけたという情報をもたらした。

 野本は直ちにクム・イル指導員を呼び、事実確認をするように迫った。クム・イルはそれに対して言下に否定し、事実確認さえ拒絶した。

「それではお話にならない。君の上司のクム・ホダム対外文化協会会長に会わせなさい。人の命がかかっているんだ!」

 その後いつまで経っても、クム・ホダムからは連絡がなかった。

 野本は対外文化協会のあるビルに出向いて、クム・イルをつかまえ、抗議した。

「お宅らが近江富士子さんを宮殿で見かけたという事実確認、すなわち消息が不明となっているジパング女性の居所について何故事実確認をしようとしないのか説明しなさい。宮殿で見かけたというのはわがジパングの有力な通信社による確度の高い情報である。人権が関わっているこの失踪に対してこちら側が要求している事実確認さえ拒絶するのは何故なのか。ひょっとしたら、これにはクム・イルソーが関わっているということなのか!」

 クム・イルは気色ばんだ。

「主席を呼び捨てにするなぞとんでもない行為だ! 少なくともクム・イルソー主席と言いなさい!」

 野本は納得のいく説明があるまでここを動かないと、誰も使っていない部屋のソファーに座り込んだ。

「ここは公的なビルであります。そんなことをするのなら、不法侵入者とみなし、社会安全部に連絡し、逮捕してもらいますよ」

「君らこそ不当なことをしているのがわからないのか! 俺はここを動かぬ」

 クム・イルは呆れ返った表情をして、その場から立ち去って行った。

 

 歌姫失踪事件はそもそも何処に根があったのか。

 時は少々遡る。今回の近江富士子のヤンピョンでの音楽フェスティバル参加については、共和国側から事前に、団長に指名された桐畑加寿子に対し要望が寄せられていた。

 クム・イルソー主席筋によれば、ジパングからの歌姫については歌手としての実力はさておき、若く美人で愛らしく、もしも主席に気に入られるようなことがあれば、宮殿に入る心構えを持ってヤンピョンに来るようにというお達しだった。

 桐畑はその条件に合う歌姫をヤンピョンに連れていくことが、主席のご招待に応える今回最も重要な任務になると悟った。

 桐畑の弟子の中で近江富士子はとりあえず若く美人で愛らしいという条件は満たしていたが、宮殿に入るという条件はそう簡単にクリア出来ないだろうと踏んだ。

 何しろ主席の宮殿に入るというのは、勿論ただ事ではなく、選ばれる人物にとってはまさに運命が変えられるほどの一大事になる。

 そこで桐畑は富士子を呼んで、とにかくその点を確認してみたのだった。どうせ富士子はそんな大それたことを受けることはなかろうと踏んでいたのである。

 ところが、会って話を聞く富士子の顔はみるみる紅潮して行った。

 そして思いもかけない返事が返って来た。

「わたし、是非とも主席の宮殿に入りたいです」

 桐畑は富士子の真意がつかめず、動揺した。

「富士子ちゃん、よーく考えてみて。もしも主席があなたを気に入ったとしたら、一体どんなことが起こるのかを。生涯宮殿という一見華々しそうに見えるけど、大変窮屈な暮らしが一生涯続くことになるのよ。昔の表現を使えば、平民から貴族になるようなものなんだから」

「わたし、小さい頃からそんな暮らしに憧れを抱いていました。先生、その可能性を夢見ながらヤンピョンに行かせてください」

 共和国からは桐畑に選び出された歌姫の氏素性を徹底的に調べるように促されていた。

「富士子ちゃん、あなたにそんな気持ちがあるのなら、わたしがあなたを選んであげる。その代りね、あなた自身が生まれてからこの方歩んで来た人生の記録を全て共和国側に文書で提出する必要があるの。それも相当詳しくよ。出来る?」

 富士子は頷いて、桐畑の両手をとり、頭を垂れた。

「よろしくお願いいたします。」

 富士子の履歴書と職務経歴書、それに色々な角度から撮られた顔写真は先に共和国の手にわたり、共和国サイドで徹底したチェックが入った。

 特に富士子が歌手として共和国と敵対する民国に渡った時期については、共和国が南の民国にスパイまで送り込み、その時期に富士子はどういう行動をしていたのかを徹底的に洗い出そうとした。

 この一連の富士子の「身体検査」が一応終わった段階で、今度は指導員のクム・イルがそれまでの調査等を踏まえ、富士子のプロフィールが本当に真っ裸にされたのかどうか「総合身体検査」が徹底して行われた。

 特に富士子はジパング人であり、共和国でジパング人あるいはジパング出身の人間は「僑胞」と呼ばれ、蔑みの対象ともなる。そこを敢えて主席のご判断でジパング人を宮殿に入れようというのだから、上層部としてもそのあたりをうまく演出する必要があった。

 そのためには富士子が宮殿に入ることになっても、彼女はそんなハンディをはるかに超える存在というイメージを人民の間に植えつけなくてはならない。

 クム・イルもそのあたりを踏まえて、総合評価を下すという責任重大な任務を帯びていたのである。

 そして最終的に総合的な「身体検査」も終わり、対外文化協会のクム・ホダム会長は部下のクム・イルを伴い、宮殿に主席を訪ねた。

 クム・イルソーの執務室に入ったホダム会長らはデスクで調べものをしていた主席に対して最敬礼をしたままの姿勢を続けた。

 主席がようやく読みかけの資料から目を彼らに転じ、上目遣いに眼鏡の奥から鋭い眼光を彼らに向けても、最敬礼はまだ続いていた。

 主席が立ち上がり、デスクの前にあるソファーに腰をどっかりと下ろしてから、前に座るように指示されたので、ようやく彼らは最敬礼の姿勢を解いて、遠慮がちに主席の前に腰を下ろした。

「敬愛するクム・イルソー主席さま、ジパングの歌姫・近江富士子に関する調査が全て終了いたしましたので、ここに報告書をお持ち致しました」

 ホダム会長が恭しく主席に報告書を手渡した。

「どうなのだ? 宮任えさせられるのか?」

 主席が口を開いた。

「ははあ!」

 ホダムとクム・イルは同時に深く頭を垂れた。

 クム・イルソーは渡された報告書を開き、金色のストラップのついた眼鏡の端を指でつまんで、添付されている複数の富士子の写真を食い入るように見つめた。

 しばらくすると、イルソーの表情が次第に綻んだ。

「容姿端麗ここに極まれりだな。よし、早速手配せい。宮仕えする者は、全て一旦この世から生きたまま消えてもらう。今までの人生はなかったことになる。したがい、それまでにつきあった者には一切その行き先を告げてはならぬ。わかっておるな?」

「ははあ!」

 ホダムらは主席に再び深く頭を垂れたあと、立ち上がり、最敬礼して脱兎のごとく手配に走った。


 イルソーの決済を経て、富士子はヤンピョンにやって来た。

 彼女の失踪が判明した時に桐畑は何と言っていたのか。

『こちらに来ていつも富士子と接していたのはママさんコーラスの嘉田さんと国廣さんです。一度彼女らから話をよく聞かれるのがいいと思います』。

 富士子について共和国から条件付きの依頼を受けていたことは一切話さず、彼女の行先は勿論知っているが、イルソーの厳命により口が裂けても言えなかったのである。失踪の知らせは、彼女が主席の宮殿入りを果たしたことを物語っていた。

 富士子は主席に気に入られて、今頃宮殿に居る。願ってもないチャンスを掴んで宮殿入りしたのだ。

 クム・イルソーの宮殿で近江富士子を見かけたという情報が独り歩きを始め、ジパングのマスコミは歌姫失踪事件には共和国主席が絡んでいるという論調が巻き起こって行った。これに対して共和国側はジパングマスコミのでっち上げであり、ねつ造だと強硬に反発した。


 それから一年の星霜が過ぎ去ったが、近江富士子の消息は掴めないままであった。

 俺はまだ団長らとヤンピョンに居る。M社ではわれわれを海外出張扱いから、社とネットワーク局のヤンピョン新支局勤務という人事を発令し、腰を据えてジパング歌姫失踪事件を追う姿勢を表明していた。

 T通信社の谷岡は自社のネットワークを使い、情報収集に奔走しているが、共和国側のガードの固い情報規制により、突破口が開けないままであった。

 どう考えても富士子は遺体が発見されないまま何処かで亡くなっているか、あるいはあのイルソーの宮殿にいる。

 今ではM社およびネットワーク局ヤンピョン支局長という肩書になっている野本が、谷岡から情報を得ながら、事態が弾けるのを静かに待っていた。

「野本さん、今までの感じでは、間違いなく近江富士子は生きてあの宮殿に居るよ」

 谷岡氏はホテルの屋上から宮殿を指差した。

「一体何をしているんですかね」

「かなり確度の高い筋の情報では、恐らくイルソーの側近で彼の世話をする接待要員などをしているのではなかろうかということです。そういうイルソーの側近で働く者は、それまでの一切の人生を削除するという意味で、生きたまま一旦この世から消える、すなわちこちらから見れば、失踪、神隠し、消息を絶つということになる訳です。この一年がそれを如実に物語っていると思います」

「なるほど、富士子はイルソーに気に入られた訳か……」

「彼女は芸術交流会の団員として選抜されたのでしょうが、彼女を選んだのは誰でしょうね?」谷岡が尋ねた。

「桐畑団長でしょう。何しろ富士子は彼女のお気に入りの弟子だと聞いていましたから」

 谷岡は黙って考え込んでいる様子だったが、間もなく口を開いた。

「ひょっとしたらこの件について桐畑さんが歌姫決定に関してイルソーから何らかの依頼を受けたのじゃないでしょうか。イルソーはとてつもない面食いですし、これまで何人か宮殿入りした女性を見て来ましたが、富士子さんのあの容貌はどうやらイルソーのお気に入りのような気がします。桐畑さんにこの件で尋ねることが色々ありそうだと思いますね」

 谷岡の発言を受けて、野本支局長は本社報道局に連絡し、桐畑に真相を聞き出すように依頼した。本来なら自ら質したいが、一度共和国を離れれば、再入国が難しい可能性もあると考え、本社に任せることにしたのだった。

 ところが、預かり知らない間に驚くべきことが発生していた。

 団長の桐畑加寿子は近江富士子が失踪したあと帰国したが、間もなく自宅で不審な死を遂げていたのである。

 電話口に出たテレビ報道局長の澤村はこう話した。

「あの頃君も超多忙だと思い、桐畑さんのことは事態が落ち着いてから話そうと思っていたら、とうとう伝えずじまいになってしまっていた。申訳ない。ところで、桐畑さんに何か尋ねることでもあったのか?」

「その前に桐畑さんはどんな形で亡くなったのでしょうか」

「ちょっと待ってくれ。パソコンで見てみるから」

 パソコンのキーをたたく音が電話口に漏れ聞こえて来た。

「所轄警察の捜査では自宅の風呂場の湯船につかったまま全裸で発見された。右腕にリストカットよりもかなり大きな切り傷の跡があり、湯船は血の海だった。愛弟子の失踪で相当なショックを受けて、自ら命を絶ったのではないかと思われていたが、切り傷が深いことなど現場の状況から他殺の線も含めて捜査が行われた。だが今のところ決め手になるような有力な情報は出ていない」

「口封じのため殺された可能性は否定出来ませんね。桐畑さんがもしイルソーと、富士子のことで何らかの密約でも交わしていたら、口外されたら絶対にまずいということはあり得ますからね」

 野本はそう言って、これまで知り得た事情を詳しく澤村に話した。

「利用する人間を生きたまま失踪させ、その人を伏魔殿に閉じ込めてしまい、世間との一切の関係を絶たせる。とても許せない行為だなあ。彼女もエライ罠にはまってしまったものだ」

「それにしても、桐畑さんが亡くなったのは痛いですね。あと近江富士子の実家など、彼女を取り巻く人から何らかの証言は得られないでしょうか」

「勿論その辺は当初探らせてはみたが、これといった証言は取れなかった。しかし、この際再取材をさせてみよう」

「お願いします」

 野本はヤンピョンに残留し、富士子の失踪事件にかまけて、桐畑変死の記事に触れなかったのを悔やんだ。


 その再取材から、富士子の男関係が浮かび上がって来た。相手の男性はクム・ソンイル。在ジパング・リプレ人で、富士子と数回にわたり、民国に渡っていた。目的は民国で歌手活動をする富士子のボディ・ガードのような役割を果たすためだったという。

 澤村報道局長は野本に本社から支局への物資輸送定期便にソンイルのプロフィールと当時まだIBMで研究中だったUSBメモリーの極小プロトタイプに写真を入れ込み、すでにヤンピョンに送り込んでいたPCで再生可能なデヴァイスを忍ばせ、ヤンピョンに送った。

 定期便の中身は共和国の保安要員の厳しいチェックを受けるので、極小プロトタイプは運搬用バッグにいつもぶら下がっているゴリラの目の中に入れ込み、その旨連絡を入れた。

 T通信社の谷岡からは、ソンイルの伯父が二年前に軍事境界線の河を真夜中に泳ぎ渡り、脱北しているという情報が入った。その際銃撃を受けてケガを負ったという。ケガの程度は不明だ。

 野本は支局員全員を集めて、極小メモリーから再生したソンイルの顔やプロフィールを配り、頭に叩き込ませた。

 富士子のボディ・ガードとして民国に渡ったソンイルは現地で一体何をしていたのだろうか。


 ある日俺はホテルの部屋でベッドに寝転んでテレビを見ていた。もう一年以上になるポトンガン・ホテルでの暮らしは、外出禁止令が出ているため決して快適なものではなかったが、支局兼住まいになっている三部屋の家賃はM社本社から毎月きちんと送金されており、共和国側からしても、定期的な外貨収入になり、外出禁止さえ守られていれば、どうせ籠の鳥で何も出来ないだろうと高をくくっているようだった。

 テレビ画面には最近ヤンピョンでオープンした大遊園地が映し出されていた。大観覧車に、ジェット・コースター。ティーカップ乗りにウォータースライダーなどが映り、家族連れの人民が休日を楽しんでいる風景が展開していた。

 俺は何とはなしに、人民の服装や表情に目を這わせていた。

「あいつだ!」

 俺は思わずベッドから立ち上がり、録画機を止めた。

 支局では終日、共和国テレビ唯一の1チャンネルを参考資料として録画していた。

 俺は早速野本支局長らを呼んでテレビの前で録画のその部分を再生して目を凝らした。

「確かにソンイルに似ている」

 顔が映っている静止画像を見た全員がそう認めた。

「ソンイルが共和国にいるぞ。この遊園地がオープンしたのはここ三日ぐらいの話だ。どういうことなんだ。何か富士子の失踪と関係があるのか?」

 T通信の谷岡が口を開いた。

「恐らく関係していると思います。いつからソンイルが共和国にいるのかが分かれば、もっと確実なことが言えると思いますが、民国で彼女のボディ・ガード的存在だった過去からすれば、恐らくは恋人同士だったでしょうから、富士子さんがもしイルソーの宮殿にいるとなれば、ここ近辺にソンイルが出没するのはある意味当然でしょう。ただ富士子さんの失踪前に、もしソンイルが既に入国していたのなら、その後の富士子さん失踪、あるいは宮殿入りに関して何らかの関わりがあるのではと思われます。特にわたしが注目するのは御社からいただいた富士子さん失踪直前の嘉田美津子さんの証言です。前日に富士子さん、国廣さん三人で食事が終わって、三人一緒に部屋に戻ろうとしていたら、急に富士子さんがトイレに行きたいって言い出して、同じ階の一般用のトイレに独りで行ったという証言です。これなんかはひょっとすれば、ソンイルとの何らかの連絡に走ったんではないのか。すなわちその時、ソンイルから電話連絡が入ったので彼女は直ぐトイレに走った。とすれば、この共和国で何か目的を共有して動いていた可能性が高いということです」

「あの時、ソンイルは富士子さんの属するジパングの芸術団には一緒に参加出来なかったので、とにかく民国に行った時と同じように、秘かに共和国に入って、遠巻きながら富士子さんのボディ・ガード的な動きをしていたのかも知れませんね。まあ、あくまでも推測の域を出ませんが……」


 クム・イルソー宮殿では夜な夜な小宴会が催されていた。

 晩餐会が開かれる時には着飾った共和国幹部とその夫人が列席し、とても一般人民の口には入らない豪華な食事が振舞われている。

 小宴会を含めて毎回クム・イルソーが参加するので、目立たないように厳重な警備が敷かれ、参加者のボディ・チェックが行われている。参加者から不審物でも発見されたら、その参加者は公職の地位を剥奪され、二度と宮殿に出入りは出来なくなるのは勿論、即刻収容所送りとなる。

 そんな環境の中で、近江富士子はクム・イルソー主席のためにその美声を聞かせている。歌も共和国を礼賛するものばかりである。

 その夜の宴会にも近江富士子は礼装に身を包み、真珠のイアリングとお揃いのネックレスを付けて、会場に姿を現し、満場の喝采を受けていた。

 歌う前には必ず、傍で彼女を見つめるクム・イルソー主席を崇め奉る言葉を唱える。

 演奏が始まり、富士子はまるで雰囲気に酔うように、ソプラノの美声で革命の父なる主席を礼賛する曲を歌うのだ。

 富士子が歌っている間はグラスを置いて主席が聞き惚れているため、全員同じ格好で黙りこくっている。曲が終わり、次の曲が始まるまではグラスを傾けて私語の可能なわずかな時間となる。

 その夜もクム・イルソーの目は歌姫に注がれ、歌い終わった富士子はイルソーの手招きで御前に足を運び、耳元で主席直々のお言葉を囁かれる。富士子はそのお言葉に愛想笑いを見せて切り抜ける。宮入りして一年、主席に仕えるためのリプレ語の特訓が功を奏し、今では本国人並みの美しいリプレ語を駆使できるようになっていた。

 

 年に数回しか催されない規模の大晩餐会の夜のことだった。出席者が相当な数に上るた

 め、警備によるチェックは常連を除いて行われる。

 共和国の大幹部らは正装で、華麗な民族衣装を纏った夫人を同伴し、舞踏会場に集まっていた。

 暫くして、ファンファーレと共にクム・イルソー主席が夫人を伴って姿を見せた。

 会場から大歓声が上がり、主席はそれに大きく手を振って答えた。

 全員舞踏会場から食事会の行われる大部屋に移り、着席した。今回はアフリカや中東諸国からのゲストも招待され、国際色豊かな雰囲気が場内に感じられた。

 主席は立ち上がり挨拶をし、乾杯の発声を行い、会場は共和国万歳の大合唱が木霊した。

 食事会の途中で、富士子は美声を披露することになっている。今や共和国に近江富士子ありとの名声が国交のある諸国にも広がっており、ゲスト国の代表は、主席の隣の席で愛想を振りまく富士子に目を注いでいた。

 歌の時間が来て富士子は立ち上がり、主席に黙礼してから真横に設けられたステージに立った。スポットライトが当たり、女性の声で曲名が告げられ、歌姫が紹介されると、割れんばかりの拍手が起こり、そのあと会場は水を打ったような静けさに包まれた。ピアノの伴奏が始まり、富士子は共和国の歌曲をリプレ語で歌う。

 曲は次第に盛り上がり、富士子のソプラノが場内一杯に響き渡った。

 歌い終え、黙礼すると主席をはじめ、大きな拍手で応えた。

 席に戻ると、主席がいつものように耳元で囁いた。

「今夜の歌は特に素晴らしかった。さすがだ。フジコ、ちょっと水を一杯持って来てくれないか」

 富士子の目が一瞬微妙な輝きを見せた。

「はい、承知いたしました」

 富士子は席を離れ、少し離れたところに居たウェイターに水を一杯欲しいと伝えた。

 コップ一杯の水が直ぐに運ばれて来た。その時だった。

 富士子は満場の騒々しさに紛れて、素早くコップの水に白い錠剤を放り込んだ。錠剤はあっという間に溶けてしまった。

 富士子はその水の入ったコップを静かに主席のテーブルに置いた。主席は辺りを見渡しながら、コップからおいしそうに水を飲み干した。


 その翌日には宮殿で小宴会が開かれた。富士子はいつも通り、主席の前で歌を披露し、主席をはじめ、出席者の拍手をもらった。

 主席はいつものように富士子の耳元で何かを囁き、富士子が頬を赤らめ、主席に微笑んだ。

 ところが翌日になって富士子は突然宮殿から姿を消した。クム・イルソーは彼女の捜索

 を命じた。

 一体どうしたというのだ。イルソーに思い当たることはなかった。

 共和国が必死に行方を捜している富士子はランド・クルーザーに乗り、真直ぐマンパンジョムに向かっていた。

「……イルソーが死んでからでは、マンパンジョムの警備は厳戒態勢になる。あいつが死ぬまでに境界線を越えるんだ。俺に任せとけよ」

 共和国軍の制服を着込んだ青年兵士がドライバー席で叫んだ。

 ランド・クルーザーは加速して間もなく軍事境界線の警備区域に進入した。境界線にある共和国側の軍事施設の前を無断で通過しようとしたため、怪しんだ数人の警備兵が制止しようと銃を構えて道路に飛び出した。

 ランド・クルーザーはさらにスピードを上げて、警備兵の制止を振り切り、巧みに弾丸を避けて走り去ったが、前のカーブ沿いに曲がろうとして曲がり切れず、道路の角に突っ込んで停まった。

 角に乗り上げて傾いたランド・クルーザーを放置して、富士子らは軍事境界線を越えて必死に走った。後方からジープで追いかけて来た数人の共和国軍兵士がジープから飛び降り、三人めがけて発砲した。

 一人は自分が誤って軍事境界線を越えて発砲したのに気付き、慌てて共和国側に戻った。

 三人はその隙に民国側の建物の陰に隠れて、さらに速足で進んだ。

 共和国軍兵士は軍事境界線を越えられず、それ以上追うことは出来なかった。

 ランド・クルーザーを運転していた共和国軍の兵士は、クム・ヤンスというソンイルの幼馴染みで、エリートにも拘わらず、独裁政権を嫌い、日頃から脱北を志向していた。交通事故で両親を失くし、一人っ子という天涯孤独の身で、意志が強固なうちに脱北しようと思っていると明かしたので、ソンイルが仲間に引き入れていたのだ。

 ヤンスはその場で着ていた共和国軍の制服を脱ぎ捨てて踏みつけた。民国側の監視所から様子を窺っていた民国軍兵士が現れ、三人は両手を挙げて兵士の方に歩を進めた。

 軍事境界線を突破した三人について、クム・イルソーは直ちに報告を受けた。

「フジコが南に逃げたって……? クム・ヤンスというわが軍の兵士が運転する車で? もう一人男がいた? 一体どうなっているんだ!」

 イルソーは頭を抱え、早急に事情を調べ、報告せいと命令し、執務室に籠ってしまった。


 それは大晩餐会から五日が経った午後のことだった。

「主席の様子がおかしい! 直ぐに主治医を執務室に呼べ!」

 宮殿内に普段には似つかわしくない声が響き渡った。

 執務室にいたクム・イルソーが突然椅子から床に転げ落ちて、動かなくなったのだ。

 主治医は倒れたイルソーを診断し、その場でイルソーの死去を宣言した。

 宮殿内の異変は行き来する警備車両などの激しい動きで外にも漏れ伝わった。

 ポトンガン・ホテルの部屋の窓から、俺を含むM社の報道陣とT通信の谷岡が双眼鏡で様子を窺っていた。

「一体何があったんでしょうねえ?」

 俺は野本支局長に声を掛けた。

「まさか歌姫絡みの動きか……?」

「可能性高いですねえ」と谷岡が漏らした。

「じゃあ、どんなことが考えられる?」

「要するにあれだけ騒いでいるということはクム・イルソーに何か異変が起こったんじゃないですか。暗殺されたとかね」

「まさか!」

「おい、直ぐに対外文化協会の人間をつかまえて情報を集めよう」

「しかしホテルの外には出られませんよ」

「この状態で手をこまねいておられるか! さあ、タクシーで宮殿に向かおう!」


 共和国当局は今までに考えられないほど速やかにクム・イルソーの死去を発表した。しかし、死亡日は明らかにされたが、肝心の死因に言及はないまま、ヤンピョン中央病院で死去したとの発表だった。

 国葬の日程などは検討中とのことだったが、これまでの経緯から『社会主義王朝』という異様な体制を維持するのは確実と思われ、後継者は息子のクム・イルジョンと噂された。

 谷岡はあの宮殿周りの大騒ぎからすれば、病院ではなくクム・イルソーは宮殿内で亡くなったと断じた。

 クム・イルソー主席死去のビッグ・ニュースは世界を駆け巡った。ジパング国で唯一取材の拠点を持つM社とT通信社には当初他のジパング・ネットワークだけではなく、海外のマスコミからの取材とテレビ・ラジオ中継の依頼が殺到して来た。

 ただしクム・イルソー死去は前回の歌姫失踪事件の時とは違い、共和国も報道規制の大幅な緩和を認めざるを得ず、世界中からヤンピョンに続々と取材団が送り込まれて来た。


 民国内某所。

「クム・イルソーはとうとうくたばったな。しかし長かったな、この一年……」

 右腕が付け根からない片腕の男が、左目が義眼の男に話しかけた。

「さすがあの白い錠剤は大した威力だ」義眼が返した。

「これでしばらくは枕を高くして寝られる。イルソーの画策していた核とミサイルの実験も当分はなかろう。国内が治まって、息子のイルジョンが共和国の世継ぎ政権を完全に掌握するまではな……」

 片腕が言った。

「その間に一度攻勢を仕掛けてみるか」義眼が微笑んだ。

「おい、おい大丈夫なのか」片腕が慌てた。

「ま、じっくり考えてみてからの話だよ」義眼が光った。

 

 革命の首都ヤンピョンではしめやかに故クム・イルソー主席の国葬が行われていた。全世界のマスコミが、この不可思議な世襲の社会主義国のリーダーを送り、その後釜に座ることが内定した息子のクム・イルジョンへの権力移行に至るセレモニーを見届けようと息を呑んでいた。

 イルジョンが父親の亡骸を乗せた葬儀車を歩いて先導している。周りはイルジョン新体制を支えることになる幹部が取り巻いている。この写真を見れば、次期政権の骨格が明らかになるのだ。

 俺は葬儀車の行進を一目見ようと集まった多数の人民とともに、次期政権の顔ぶれを頭に入れておこうと必死だった。

 ヤンピョンの政権中枢部では、新体制を堅固なものにしようと、人事刷新が進んでいた。

 イルジョンは一年間父の側近で歌姫を務めていた近江富士子が、パンマンジョムから南の民国に軍事境界線を越えて脱出したことに引っかかりを覚えていた。

 ひょっとしたらあの富士子が父を手に掛けたのか。だが、どうやって……? あいつは親父が亡くなる前から行方不明だったのに。

 その疑問は政権交代時のリーダーの不安とつながり、父は暗殺されたのではないかと思い始めた。だが一体どのようにして……?

 父の命を受けて、富士子を宮仕えさせるための身体検査をした責任者は誰か。

 父の側近であった対外文化協会会長のクム・ホダムと部下のクム・イルが宮廷に召し出され、イルジョンの前に引き出された。

「お前らの身体検査は本当に万全だったのか?」

 次期主席から疑問をぶつけられた二人は二の句が継げなくなり、沈黙してしまった。

「その態度は自信がないということだな」

 二人はガタガタ震えている。

「お前らは収容所行きだ。もし調査の上で有罪なら公開処刑を執行するから、そのつもりで居れ!」

 二人は警備員に両腕を掴まれて連行されて行った。

 イルジョンは執務室の電話で公安部の幹部を緊急招集した。

 脱兎のごとく執務室に現れた幹部を前に、イルジョンはこう切り出した。

「父は暗殺された疑いが濃い。あの歌姫、近江富士子と一緒にパンマンジョムから脱出した男、それに裏切り者クム・ヤンスの関係を至急調べろ。父の首の後ろの大きなコブは良性で、持病はなかった。病死したとは考えにくい。遺体を何度も調べさせた御殿医も死因が特定できずに首を傾げている。わが国の医療技術は世界でも指折りだ。宮殿内で最近何らかの不審な事柄に気付いたことはないかどうか、徹底的に調べて報告せい!」

 公安部幹部は最敬礼し、走って執務室を出て行った。


「わたしはクム・イルソー暗殺説に賛成です」

 T通信の谷岡は野本支局長に話しかけて続けた。

「パンマンジョムから脱出した近江富士子さんはイルソーに大そう気に入られた歌姫のはずだった。心からイルソーを慕っていたなら普通国葬に参列して線香の一本でも供えるだろう。それも何もなく、しかも、よりにもよって南側に脱北した。何か臭いませんか」

「そうだよな。イルソーの身体は至って元気だったというし、病院で死亡したという発表は臭い。宮殿で亡くなったという事実を絶対に隠したいということは、逆にイルソーは宮殿で亡くなったということだ。しかもその宮殿には富士子が一年間もいた。しかし、もし暗殺を企てたとしても、一年も待ったのは何故なのだろう?」

「こいつは絶対に俺を裏切らないというイルソーの気持ちを植え付けるためとしか思えないよね」

「ところで軍事境界線を越えて行った近江富士子は一体民国ではどういう扱いになるんでしょう?」野本が尋ねた。

「まあ言っても共和国脱出者のひとりとして、当局のチェックを受けて、特に問題なければ解放されるでしょうな」

「だったら、うちの民国支局に本社から連絡を入れて、解放後の富士子や亡命兵士、それにソンイルを取材させてみよう」

「しゃべりますかね?」

 谷岡が野本にプレッシャーをかけた。

「やってみます。ジパングの歌姫が主席を暗殺したのが真相なら、これは超ビッグ・ニュースですからね。もしそんなことになれば、ジパングと共和国はただでさえ敵対しているのに、とうとう戦争をおっぱじめるかもね」 

 野本がプレッシャーをやんわりとかわした。

「それならうちの支局にも声をかけておきますから、また民国でも共同戦線を張りましょうよ」

「いや、実に心強い!」

 野本が微笑んだ。


 民国でのボディ・チェックで三人のポケットから自殺用の猛毒カプセルが見つかった。

 同時に白い錠剤が富士子の隠しポケットから出て来た。

「この錠剤は何ですか」担当官が富士子に尋ねた。

「血圧降下剤です」

「あなたが服用するもの?」

「ええ」

 担当官は錠剤の成分を調べるように研究員に命じた。

 三人は共和国に渡航した理由や脱北した理由などを詳しく聞かれたが、全ては三人が前もって打ち合わせ、口裏合わせをした虚偽の証言だった。

 特に亡命兵士については、共和国から送り込まれたスパイの可能性もあり、別の担当官が別室で徹底的に調べを行っていた。

 担当官は錠剤の成分結果が出るまで二人は民国内に留まるように説得し、とりあえずの宿を紹介した。

「ソイル首都圏に住む伯父に会いに行きたいのですが……」

 ソンイルが担当官に尋ねた。伯父は脱北者でクム・ドンスという。

「あなたの伯父さんについてまずは調査をする必要があります。その調査の参考にしますので、ここに必要事項を全て書き込んでください」

 担当官は少々分厚い書き込み用紙を手渡した。

「面倒なことが必要なんですね。ここは自由の国じゃないんですか?」

 ソンイルがふくれっ面を見せた。

 担当官はソンイルを睨んで、こう言った。

「自由には責任が伴います。あなたは亡命兵士の友達と言った。彼は共和国から脱出して来たが、同時に共和国から送り込まれたスパイかも知れません。その友人であるあなたもスパイかも知れない。解放するにはそれを徹底的に調べなくちゃならないのです。何事もそんなに簡単に行きません。何しろ、昔の南北の戦争は休戦協定が結ばれているだけの状態が何十年も続いているんです。あなた方は命辛々ではあれ、ある意味簡単にこちらに脱出して来ましたが、本来なら民国に入国さえ出来ません。入国出来なければ、あなたたちは敵兵に射殺されたかも知れない。そのことを肝に銘じてください。いいですね?」

 ソンイルは黙って頷いた。


 共和国では公安部の調査が進んでいた。

 大晩餐会で歌姫からコップ一杯の水を依頼されたという若いウェイターから次のような証言があった。

「突然、歌姫がわたしに近づいて、『水を一杯ください』とおっしゃいました。わたしは歌姫の余りの美しさにぼおっとしてしまいましたが、とにかく仰せの通りにコップ一杯の水を差し上げました。わたしはしばらくずっと歌姫を注視していましたが、お帰りになる際に、後ろを向かれた時コップの中に何かをお入れになったような気がしました。でも、特に不自然さは感じませんでした。主席がお亡くなりになったのは、確かあの大晩餐会から五日ほど経ってからのことでしょう? だったら、歌姫が五日前の宴会でコップにたとえ何かを入れたとして、それは毒薬のはずはありません。そうでしょ?」

 ウェイターはそう言って毒殺説を否定した。しかし、その証言は直ちにイルジョンの許に届けられた。

 やはりあの女が父に毒を盛ったのか。しかし、おかしい。猛毒ならば、直ちに死ぬだろうし、微毒なら何回も飲み続けないと死なないだろう。まるで時限爆弾のように、時を超えて爆発的に効く毒薬なんてあるのか。しかも数日、正確に言えばまる五日も経ってから。

「おい、父の主治医をここに!」

 イルジョンは続いて声を荒げて公安部を呼びつけ、任務を言い渡した。

「富士子は今民国にいるだろう。特殊工作員部隊を送り込んであいつを生きたまま連れ帰るのだ。舌を噛ませるな。毒薬を呑ませるな。自殺させずに連行しろ。拷問で白状させる。もしどうしても白状しなければ、見せしめのため公開処刑する!」


 伯父に会う事務手続きは一週間以上経ってもまだ許可が出ない。ソンイルの苛立ちは募るばかりである。

「何故、こんなに待たされるのか。伯父さんに会うだけなのに!」

 富士子が宥める。

「もうすぐ許可されるわよ。そんなに取り乱さないで。わたしは目的を遂げるのに一年も待ったのよ」

「それにしても、われわれはこの国と敵対する国のトップを殺った功労者だぞ。一体どうなってるんだ!」

「し、静かに! 誰かに聞かれでもしたらどうするのよ!」

 富士子は慌てて辺りを見渡した。

 都心の繁華街の街頭は休日で賑わいを見せていた。

 富士子はソンイルを人気のない通りの奥にある古びた事務所に連れ帰った。

 事務所は富士子らにあてがわれた宿泊所だった。一応警備員はいるが、出入りは自由だ。

 昔そこは民国スパイのセイフハウスに使われていただけあって、気密性の高い堅固な構造になっている。使われないようになってからは室内には蜘蛛の巣が張り、ホコリがうず高く積っていたのを、彼らが入るというので、簡単に掃除だけしたところだ。 

 ソンイルは気に入らなかった。

「何で英雄のわれわれがこんな薄汚い宿泊所に毎晩泊まらなきゃならないんだ!」

「こんなところの方が目立たず、却って安全なのよ。暫く我慢しなさい」

「あいつらは英雄の扱い方を知らないんだ!」

「もう直ぐ全てが明らかになるわ。忍耐強く待つのよ。それが一番なの」

 富士子はそう言いながら、芸術交流会のメンバーとしてヤンピョンに来る前に、民国の首都・ソイルで表向き歌手としての活動をしながら、秘かにイルソー暗殺のための特殊訓練を受けていたことを思い出していた。

 共和国最高責任者であるクム・イルソーは幸せだった富士子の四人家族の暮らしを崩壊させた張本人だ。そのイルソーを一年計画で暗殺する。

 富士子は小学生高学年の頃、両親を共和国に拉致され、両親は行方不明になった。富士子には三歳違いの兄・進一がいたので、二人はそろって養護施設に移り、そこで育った。  

 進一はその後共和国のスパイ組織に言い寄られ、両親に会わせるという甘言に乗り、共和国に渡航した。

 その後進一は共和国で不審死を遂げるが、生前富士子に宛てた手紙が一通だけ自宅に届いた。それには両親が当局に反抗したため、反政府勢力の一味と疑われ、同じ罪を宣告された人民と共に公開処刑されたとあった。富士子はその手紙を読みながら、身体の震えが止まらなかった。両親は何の罪もないのに、辱しめを受けて殺された。悲しみはいつの間にか抑えきれない怒りに火を点けた。怒りは富士子の中で燎原の火のように広がった。

 ソイルでの訓練では工作員活動のための武闘の技も学んだが、中心はあくまでも美容と精神の徹底的な鍛練だった。

 元々美貌には自信があったが、それを徹底して磨くこと。八頭身を維持すること。何処から見ても、完璧な美人になること。

 それに比べると、精神鍛錬は富士子にははるかにハードルが高く感じられた。何しろ直ぐにでも殺してしまいたいほど憎いイルソーの傍で、暗殺まで一年もの間偽装のために忍耐強く待たねばならない。耐えて常に笑顔でイルソーに接するための精神の特訓。果たしてそんな芸当がわたしに出来るのか。訓練に耐えられるのか。両親の命を虫けらのように奪った憎っくきイルソーの傍らで笑顔を絶やさず、接遇することなんて……。でも、それをやり切らねばならない。

 美容と特殊訓練の特別プログラムを仕切っていたのがソンイルが会いたがっている伯父のクム・ドンスだった。

 ドンスは共和国で反革命分子として摘発され、死刑宣告を受けて処刑を待つ間収容所で暮らしていたが脱獄し、軍事境界線の河を泳いで逃亡を図った時、警備兵の銃撃を受けて、大けがを負ったまま辛うじて脱北に成功した。その家族は住んでいた部落から追放され、食糧も尽きて餓死した。

 民国に着いたドンスは病院に運ばれ、長期入院していたが、不自由な両足を抱えながらも回復し、富士子と同じようにイルソーに対する恨みを膨らませていた。

 ドンスは富士子から事情を聴き、民国の首都ソイルで脱北者により組織された反共和国秘密結社・黒龍会にイルソーの暗殺計画にもってこいの富士子を紹介した。そして黒龍会の息がかかった特殊訓練施設で肉体と精神の特訓を秘密裏に彼女に施した。

 富士子はドンスの指導でソイルで訓練を受けている時に、ソンイルと出会い、恋仲になった。ソンイルは在ジパングの青年だったが、伯父クム・ドンスに会いにソイルに来ていたのだった。

 ソンイルは伯父から富士子の受けている特殊訓練とはどんなものなのか知りたく思い、訓練が始まってから暫く経った休憩時間に彼女に思い切って尋ねてみた。富士子は最初訓練内容について話せば、伯父さんに叱られると言って拒んだが、それから暫くしてソンイルと二人きりになった下宿で、その一端を話し始めた。お酒に酔ったせいなのかも知れない。

「真っ暗な狭い部屋に全裸で一人椅子に縛り付けられているの。そうしたら前にあるスクリーンに突然クム・イルソーにそっくりな顔が映り、その表情が次々に変わるの。喜怒哀楽ね。色んな顔がその瞬間瞬間にどんどん近づいて来るのよ。わたし悲鳴を上げそうになったわ。ある時は画面全体を細分化したそれぞれの枠の中に小さなキム・イルソーがうじゃうじゃ出て来るの。それがわたしに向かって気味悪い声で叫んだり、奇妙きてれつな笑い声を出したりして、部屋から飛び出したい衝動に駆られるの。でも動けない。目を閉じたり、背けたりするのは伯父さんに厳禁されていた。部屋全体に響き渡る変な声と目まぐるしく変わるクムの映像で本当に怖かった。我慢出来ずに気絶したこともあるわ。でも、それも訓練だと何とか思い込み、何度も繰り返して狭い部屋で音声と映像に包まれているうちに、本当に少しづつだけど、キム・イルソーの顔に慣れて来ているような自分を感じ始めたの」

「君を全裸にするというのは何か意味があるの?」

「伯父さんに直接聞いたことはないけど、想像するに、裸になると自分の羞恥心が試されることになるでしょ? 特に自分が毛嫌いしている男に肌を見せるなんてこと普通絶対出来ないじゃない? 訓練ではそんな場面を人工的に作り出して、羞恥心を初めとする人間の様々な感情を自分で自由に抑え込むことが出来るようになる。そうすれば、直ぐに殺したいような相手に対面しても、こちらの感情を抑え込むことが出来るようになるって訳よ」

「エライ訓練だなあ。俺なんか自分の感情を抑え込んだら死んじまうよ」

 ソンイルはそう言って笑い、カクテルを口にした。

 そんな特訓も全て終わり、富士子は芸術団の一員として共和国に渡ったのだった。


 イルジョンの命を受けた共和国の特殊工作員らは南北を隔てる軍事境界線を通り抜ける無数の地下トンネルのうち新たに掘られた未発見の一か所に潜り、すでに民国に侵入していた。

 軍事境界線を越えられないヤンピョン支局を抱えるM社とT通信社は、柳青める北のヤンピョン支局から桃の花香る南のソイル支局に舞台を移して共同戦線を張り、富士子とソンイルを取材すべく動いていた。


 伯父ドンスに会うための申請がようやく認められ、ソンイルは富士子を伴い、ドンスの秘密アジトに姿を現した。

「伯父さん!」

 ソンイルは車椅子で出迎えたドンスに抱きついた。

 ドンスはひとり傍らに佇む富士子の姿を認め、微笑んだ。

「よくやった! おめでとう! これでお互いの家族の無念を晴らせたな」

 家族という言葉を聞くなり、富士子はドンスの両手を強く握りしめた。頬には涙があふれるように流れていた。

 三人きりで積もる話をする中、ドンスは共和国の工作員がソイルに侵入したという情報を掴んでいると話し、富士子らに緊張が走った。

「イルジョンの手下は必死で富士子さんとお前を追っている。油断だけはするなよ」

 ドンスの目にいつもの鋭さが戻っていた。


「近江富士子さんですよね?」

 ソイルの町中で買い物をしての帰りだった富士子とソンイルに橋上で声を掛けたのは、M社ソイル支局のカメラマンだった。

 ヤンピョンの野本からM社ソイル支局に対し、富士子の証言を是非とるようにとの連絡が富士子の写真とともに届いた午後のことだった。カメラマンは夜勤明けの休日だったが、そんなことは言ってはいられない。

 カメラマンは富士子に支局に来て欲しいと頼んだ。

 ソンイルはカメラマンを押し返し、とにかくその場を去ろうとしたが、その時黒いマスクをした数人の男のグループに取り囲まれた。共和国の工作員だった。

「間違いない。こいつが歌姫、富士子だ!」

 男らはカメラマンとソンイルを特殊警棒のようなもので殴りつけ、ひるんだ隙に強引に富士子を連れ去ろうとした。

「早く猿ぐつわを噛ませるんだ!」

 黒マスクの男らは富士子の両腕をねじり上げて、素早くロープで縛り上げ、車に押し込もうとした。

 その時また別の男のグループが現れ、富士子を拉致しようとする工作員に向かってサイレンサー付きの銃を発砲し、あっという間に全員を射殺して、遺体を橋上から次々川に放り投げた。

 ソンイルとカメラマンがようやく立ち上がり、富士子に近づくと、グループのリーダーらしい男が富士子に声を掛けた。

「われわれは黒龍会のクム・ドンスさんに頼まれてあなたを陰で護衛していました。ドンスさんのところまでお連れします」

 カメラマンが富士子に近づきM社支局に来てもらうように説得を重ねたが、富士子が拒否し、彼女は黒龍会のガードマンに見守られながら、ソンイルと車で現場を離れた。

 カメラマンは直ぐに支局に電話を入れ、取材クルーを寄こすように連絡し富士子の後を追おうとしたが叶わず、地団太を踏んだ。

 

 富士子らが軍事境界線を越えて来た時、衣服の隠しポケットから押収された白い錠剤の分析結果が出た。

 その錠剤は万事休すの時、通常スパイが即自殺するために用いる猛毒成分ではないと判明していた。そのような珍しい錠剤を何故隠し持っていたのか、共和国でそれを使用したのかなどを徹底的に調べるため、民国当局は富士子とソンイルを拘束し、調べ直すことになった。

 ドンスはその事実を知るや、直ぐに義眼と左腕に連絡を取った。

 富士子とソンイルは即時釈放され、自由の身となった。

 民国の担当者は白い錠剤の分析結果をもう一度反芻してみた。

 錠剤名パラセグミチン。超水溶性の特殊毒薬で、まる四日間服用された体内に潜伏し、五日目に爆発的に猛毒の効力が現れ即死するという劇薬である。

 パラセグミチン? 確かわが国が莫大な開発費を投じて生み出した特殊猛毒の名前だ。それを所持していた近江富士子は、ひょっとして共和国に対する特殊工作員なのだろうか。クム・イルソー暗殺を実行した人間なのだろうか。あのジパングの美人歌姫が? まさか! いや、きっとそうに違いない! 担当者の胸は早鐘のように打っていた。

 ソンイルの心中は複雑だった。何故民国は俺たち英雄を拘束までしたのか? ソンイルは伯父に質した。

「共和国首領の首を取ったのに、民国の官僚は失礼な態度ばかりとっている。伯父さんに会うのにどれだけの日にちが要ったことだろう。それに拘束されたと思ったら今度は即釈放だ。一体どういうことなんだよ、伯父さん」

 ドンスは納得したように頷いた。

「お前が疑問を抱くのはよくわかる。実はこの民国には権力の二重構造があるんだ。すなわち表舞台を担当している行政府組織とその背後にいて事実上民国を支配している中核組織だ。俺たちの今回の行動を把握し、バックアップしているのは中核組織の七人委員会だ。だが、政府には俺たちの行動は一切知らされていない。権力が集中していると思われている民国大統領にさえも……」

「権力の二重構造? 七人委員会? ややこしいな。でも、そのせいでこんなチグハグなことが起こるのか」

 ソンイルはようやく合点したようだった。

「明日にでも、その中核組織代表に会おう。いいな?」

「わかりました」

「さあ、久しぶりだから、皆でゆっくり食事をしよう」

 そう言うと、ドンスは手をたたき、テーブルの用意をするように執事たちに命じた。


 翌日ドンスは富士子とソンイルを伴って民国を実質支配する七人委員会のうち、今回のクム・イルソーの暗殺計画を担当した義眼のクム・パソルと片腕のクム・ドンガンを訪ねた。

 七人委員会は民国の実質的な最高権力組織で、政権内閣の閣僚を指名する。政権内閣は七人委員会の傀儡である。そのメンバー七人は全員共和国と民国の南北戦争で生き残った傷痍軍人の出身で、軍部を完全に掌握し、強大な力を持っている。

 三人は部屋に案内され、ドンスは富士子とソンイルをパソルとドンガンに紹介した。

「ご苦労であった」パソルが光る義眼で二人の労をねぎらった。

「特に一年にも渡り、忍耐の末に大義を果たしたジパングの歌姫には特別の感謝の念を贈りたい。オフレコにはなるが、わが民国の最高名誉勲章を授与する手はずになっている。誠にご苦労であった」

 パソルが続けた。

「クム・イルソーは軍事境界線で対峙するわれわれ民国の安全を、相次ぐミサイルと核実験で脅し続けていた最大の危険人物だった。とりあえず、初代を抹殺するのがわれわれの目的であったが、イルソーに家族を犠牲にされた黒龍会のドンスが、同じような悲運をたどったジパングの歌姫を主役に、最高のシナリオで暗殺計画を貫いた。これは個人的怨念と国家安全保障の利害が完璧に一致した成果だ。お陰で目的を完遂出来たことは何事にも増して嬉しいことだ」

 パソルに続き、今度はドンガンが富士子とソンイルに向き合った。

「あんたら二人は、亡命した北の兵士とともにマンパンジョムからわが国に逃れた。あそこはわが国が二十四時間、三百六十五日監視の目を光らせている。あの時敵兵があんたらめがけて発砲し、追いすがる敵兵のひとりは軍事境界線を跨いでしまい、休戦協定を犯した。もしあの状況でこちらが敵兵に発砲し、応戦したとしたら、銃撃戦となり再び戦争の引き金を引く結果になったと思われる。こちらは今回の暗殺事件の内情を知る上官が七人委員会の意向を受けて警備部隊を指揮していたので、戦争は回避されたということだ」

 そこまで言うと、パソルとドンガンは目を合わせ、三人に向き直った。

「君らにお願いがある。クム・イルソーは共和国でも、世界でも病死ということになっている。われわれはそれをいかなる場合においても変更したくない。すなわち、イルソーが暗殺されたということが万が一にも世間に知られたら、間違いなくわが国と共和国は戦争になる。それは是が非でも避けたい。だが、人間という者は弱いものであり、いつどうなるかわからない。だから口を封じなければならない……」

 パソルとドンガンの鋭い目が富士子らを捉え、ドンスは目を閉じたままだったが、富士子とソンイルは緊張して身構えた。

「だからと言って、命を賭けてわが国の危機を救ってくれた君らの命を、はいそうですかと頂くことは出来ない。では、どうするのか。お願いとは、暗殺に関する記憶を完全に抜く手術を受けてもらいたいのだ」

 富士子とソンイルは意味がよくわからず、顔を見合わせた。ドンスは目を閉じたままだった。

「……一体そんなことが可能なのですか?」富士子は恐る恐る尋ねた。

 パソルの義眼が一瞬輝いたように見えた。

「わが国の最高技術を持ってすれば可能なのです。パラセグミチンによる殺害と暗殺にまつわる記憶を抜くというのは、同じ根っこだと考えてください。どちらも使いよう次第で最高のマジックになる。善は急げだ。皆さん、よろしいでしょうか。オペ室にご案内しますので……」

 三人はそれぞれの手術室に案内された。富士子はだだっ広く明るい手術室の丁度真ん中にある患者用ベッドに横たわっている。頭全体から額の周りにかけて、コイル状の電極が皮膚に張り巡らされている。一体何が始まるのだろう。本当に記憶を一部だけ抜き去るなんてこと、出来るのかしら? 富士子は緊張で身体を強張らせている。そこへ青い手術着を着た医師と看護師らが手術室に入って来た。看護師がベッドのサイドテーブルに並んでいる手術用器具の中から、長い管で何処かに繋がり、先が漏斗仕様になっている器具を取り出して富士子に近づき、話しかけた。

「怖くありませんよ。楽な気持ちでいて下さい。それじゃまず全身麻酔をかけますので……」

 富士子の口に漏斗の先が被せられ、白いガス状の粒子が漏斗から吹き出し、富士子の口内を湿らせた。直ぐに富士子の意識が消えた。

 それからどのくらい時間が経ったのだろうか。富士子は意識が戻り、うっすらと目を開けた。

「麻酔が切れましたね。全て終わりましたよ」

 医師が声をかけた。壁の掛け時計を見ると、四時間ほどが経過していた。電極は全て取り去られ、頭が自由に動かせ、富士子はホッと溜息をついた。担架に載せられて富士子は手術室を出た。間もなくソンイルも担架に載り、手術室を出て来た。

「富士子、何で俺とお前がこんなところにいるんだ?」

「わたしもわからないわ。伯父さん、どうしてですか?」

 富士子は傍で二人を見守っているような感じのドンスに尋ねた。

「ここは民国の最高意思決定機関が入っているビル内にある病院だ。ひょっとしたらこれから何か重大な任務を仰せつかるのかも知れないからな」

「一体どういうことですか? あら、それに伯父さん。一緒に手術を受けたのにどうしてそんなところに立っているんですか?」

「さあ、任務については俺にも詳しいことはわからん。とりあえず俺は黒龍会オフィスに戻るから、またな」

「黒龍会って暴力団ですか?」富士子が首を捻った。

「ちょっと薬が効きすぎたようだな」ドンスが笑った。

 

 イルソー暗殺の記憶を完全に抜かれたのは、実は富士子とソンイルだけだった。ドンスは今後も七人委員会の秘密工作ブレインとして働くため、イルソー暗殺のノウハウは必須だからだ。

 今後二代目イルジョンの暗殺指令が七人委員会から下れば、ドンスは再びそのプロデューサー兼演出家として動くことになるであろう。

 だが、面が割れた富士子と甥のソンイルに、もう二度と出演依頼は来ない。

 クム・イルソー暗殺説は虚々実々のマスコミ報道が続く中、真相は闇に姿を隠し、急速に萎んで行った。


                             了

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非情の魔宮 安江俊明 @tyty

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