弓の島 下

 

 ミヲは氷を叩いた。

「ヨモツヒコ」

「ヨモツではない。その氷人は昔からそこにいる」

 死人にミヲは手を伸ばしたが、触れる前に氷に遮られた。ヨモツヒコなら納棺して土中に埋めたはずだ。岩の中で眼を閉じている男は、ヨモツヒコに似ていたがもっと年長にみえた。

 クロトリ王子は洞穴から太陽のあたる地上へとミヲを連れて戻った。

「生きているように見えただろう」

 王子の言葉にミヲは頷いた。火竜が走り抜けた跡だと云われている地下空洞。縦穴の底で凍り付いている男を発見したクロトリ王子は、他の兄王子たちが興味を失くした後も、奇巌原に通い続けた。

「あの岩だけ色や手触りが違う。天頂の高みから流れ星が大地を突き破って落ちてきたかのようにみえる」

 湖の邑からもよく見えた流星群。

 風が吹いていた。奇巌原の黒岩を伝って誰かがこちらへと近付いてくる。目配せでミヲに警戒を呼びかけ、クロトリ王子は竪穴の縁で剣を抜いた。

 岩の上に姿を現したのはマリ姫だった。マリ姫は弓矢を構えていた。ミヲを狙っていた。


 

 素足で岩場を超えてきたマリ姫の足は傷だらけになっていた。ヨモツヒコが亡くなって以来臥せっていたマリ姫は、夜衣のままで、弓矢をミヲに向けていた。

「よくも、ヨモツヒコを殺したな」

 クロトリ王子が進み出た。

「マリ姫」

「ヨモツと似ていて愕いたであろう。凍玻璃いてはりにおわすあの御方こそは、吾のまことの夫。ヨモツはあの方の子なのだ」

「何を云う」

「あの方は逃亡中に負った深手がもとで亡くなった」

 矢先をミヲに定め、マリ姫は弓を引き絞った。

「独り残された吾はこの地の女として生きると決めて、ヨモツを宿したまま豪族の姫になりすまし、大国の王族に嫁したのだ。ヨモツヒコだけが生きるよすがだった。それを、葦原にまつろわぬ湖の國の女め」

 マリ姫が矢を放った。その矢をクロトリ王子が剣で払い落とした。矢は王子の剣を一瞬で腐食させて溶かした。

 マリ姫は怖ろしい眼をしてさらに近づいてきた。クロトリ王子は錆びた剣を投げ捨て、「やめろ、マリ姫」ミヲを背中に庇った。

「ヨモツは病で死んだのだ。永くは生きぬと云われていたではないか」

「この矢は射抜けば骨まで溶かすぞ」

 ぐらり、と揺れた。大地が獣の背のように縦揺れしている。マリ姫が口を開いた。

「その女は、ヨモツがそうすると知っていて漆の代わりに毒を木剣に塗ったのだ。ヨモツヒコは毒を舐めて死んだ」

「ヨモツさまを殺めてなどおりません」

 煙の山を振り返りながらミヲは叫んだ。

「今はそのような時ではありません。マリ姫、いそぎ、この地を離れなければ」

「黙れ」

 マリ姫の眼はつり上がった。

「吾は動かぬ。ヨモツの墓からも夫の傍からも、もう離れることはない。お前を仕留めてこの地で吾も死ぬ」

 マリ姫の矢がクロトリ王子の袖を掠めた。ミヲはクロトリ王子の前に飛び出した。

「お止め下さい、マリ姫」

「死ね」

 狙い違わず放たれた矢がミヲに刺さった。矢の勢いを何かが阻んだ。ミヲは射られた兎のように弾かれて縦穴に転落した。矢を使い果たしたマリ姫が弓を投げ捨て、短刀を取り出す。ミヲを追うマリ姫をクロトリ王子が突き飛ばした。マリ姫は躓いたように静止した。その胸から剣の先端が出ていた。クロトリ王子の仕業ではなかった。何者かが揺れる大地を蹴って走り寄り、背後からマリ姫に飛びかかると、女の身体に腕を回して胸を貫いたのだ。引き抜かれた剣は陽光の下にぎらりと光を散らした。

「ヨモツを日嗣に……」

 マリ姫の言葉は途切れた。駈けつけた者は死んだ女を岩の上に横たえると、ミヲの落ちた洞穴に飛び降りた。クロトリ王子がそれに続いた。刺さった矢はミヲの首飾りを壊していた。

「ミヲ」

 ミヲを抱き起したのはスラギだった。



 逃げろ。山が火を噴くぞ。

「クロトリ王子」

 集落に馬で乗り入れてきたクロトリ王子は早く立ち退けと方々に大声で呼ばわって一巡りすると、疾風のようにまた駈け去った。

「王子は何処へ向かったのだ。方角が違うぞ」

「近くの邑にも伝えるのだろう。急げ」

 大勢の者たちが持てるだけのものを持ち出し、先を競って旅立った。その奴婢たちの足跡は土の上に刻まれ、後の世に遺構となって遺された。


 

 奇巌原に戻ってきたクロトリ王子は感嘆を込めてスラギの剣を間近に眺めた。

「葦原にはない素晴らしい業物だ」

「欲しければやる」

 スラギは見たこともない医術でミヲの手当を終えていたが、その顔は晴れなかった。

 スラギとクロトリ王子は、外にあったマリ姫の遺体も地下に運び込んだ。棺の中の氷人はスラギが外に出し、マリ姫の亡骸の隣りに並べた。

「この棺は開くのか」

「これは舟だ。星の銀河へ飛ぶようになっている」

「星へ飛ぶと云ったのか」

「ミヲが起きた」

 洞穴の中で目覚めたミヲの手は最初に腹を抑えた。スラギにも分かっていた。クロトリ王子の子がミヲの胎にいるのだ。

 クロトリ王子が呟いた。

「託宣師がミヲの腹の子は若子をとこだと。それで、ヨモツヒコが死んだ時にマリ姫は、懐妊したミヲがヨモツヒコを殺したのだと想ったのだろう。ヨモツを日嗣王子とするために、今までマリ姫が若子たちにそうしてきたように」

「ミヲ」

 ミヲを支えてスラギは語り掛けた。

「その傷は今は完全には治せない。必ず戻ってくるから、それまでミヲは眠るんだ」

 ミヲは頷いた。疲れていたし、眠かった。どうしてスラギがいるのだろう。わたしは死んだのかも知れない。逢いたかった。

 逢いたかった、スラギ。心配して来てくれたのね。クロトリ王子はとても良い人なの。

 スラギはミヲを、氷漬けの死人を取り出した後の大きな甕の中に下ろした。クロトリ王子が難しい顔をしてミヲを見ていた。ミヲが見つめ返すと、洞窟に差し込む光を背にした王子は顔つきを変えてミヲに深く頷いてみせた。強い王子。その血を引く勇敢でやさしい子をきっと産むわ。

「おい、スラギ。これは何が起きても本当に大丈夫なのだろうな」

「定めた刻がくれば自動的に飛び立つ」

「哀れなマリ姫をそこの男と共に埋めてやりたいが」

「捨ておいても、溶岩と降灰がすぐに埋める」

 おかしな夢だった。スラギがいて、クロトリ王子がいて、二人が喋っている。甕の中にはいろんな光。夜の湖畔に出るたびに、白く耀く夜空の珠を両手いっぱいに掬えたらとずっと希ってきた。幼い頃の青いさざ波。


 ——何をしているんだい

 ——この貝の中には月の赤ちゃんが入っているの


「蓋を閉じるよ、ミヲ」

「スラギ」

「眼を閉じて。すぐに眠くなる。おやすみ」

 スラギ。わたしは待っている。ずっとずっと。

 ミヲの手には壊れた首飾りが光の粒の破片ごと握られていた。

 この甕棺の中でわたしは待っている。

 約束どおり迎えに来て。天界に雨が降り、星が湖に落ちて貝殻の中の光になったお話をまたきかせて。灰の中からわたしは星空に飛ぶ。

 夢の中で何度も見た気がする。見知らぬ湖岸と打ち寄せる穏やかな波。

 本当だ、弓の形をしている。葦原と同じ。白い雲を分けてよく見せて。

 旭日が昇る、島……。



「同じものを造ってみるがいい」

 日の出を控えた湖は暗く静かだった。森の中の巨石の上に登り、スラギは石の表面を触っていた。夜を徹して馬を飛ばし、湖までスラギを送ってきたクロトリ王子は下からスラギを仰いだ。

「ミヲもこれに乗せれば良かったのではないのか」

「単座式だ」

 スラギはクロトリ王子を見もせずに「搭乗員以外の者を乗せる空間がない」と応えた。

「外観だけは、これに似せたものを造ってみよう」

 クロトリ王子は巨石の全体を眺めた。

「飛ぶことは叶わなくとも吾らはそれを崇めるだろう。そして後の世に、苔むしたこれらの巨石が一体何の為のものだったのか分かる時が来るのだ」

 鼓動のような音が響き始めた。

「スラギ、お前は何処から来た。なんの目的でやって来た」

 石舟の上に立ち、沈みゆく月の光を浴びるスラギはまさに若い神のようだった。

「神なのか。マリ姫と洞穴の氷人もそうだったのか」

「彼らは狂信的な革命家で、流刑地にいた。探査衛星を破壊して逃亡した」

 一度言葉を切ってから、その続きをスラギは継いだ。

「奇巌原で舟と遺体は見つけたが、男を脱獄させた女の行方だけが分からなかった」

 殺すために捜しに来た、とはスラギは云わなかった。

「落雷を誘導し、基地の痕跡は消してある。何も残らない。後は、吾らの武器で怪我をさせたミヲのことだけだ」

「どうするのだ」

「戒律の裏をかくかたちにはなるが、保護してもよいことになっている。似た緑土を選んでそこに移す」

「その時にはミヲと共に降りてくれるのだろうな、スラギ」

 返答する代わりに、スラギは片腕を夜空に伸ばした。

「見ろ、星の海原を」

 その声音には峻厳なものがあった。

「この石舟は今から銀湾を飛び、そしてまた戻って来る。怖ろしいほどの時が流れる。その頃にはお前たちはもう滅び去っている」

 巨石の天盤がひらいた。乗り込むスラギに、最期にクロトリ王子は呼び掛けた。

「ミヲの命を繋いでくれた礼を云う、スラギ」

 航海士はもう何も応えなかった。紡錘形の石舟が滑らかに木立の合間から湖に下る。

 遠火のような月が湖面に映っていた。沈まぬ巨石は波を起こし、湖から浮いた。石舟の壁面や背面が白光し、翼が生え、蔦を払い落とす。浮かび上がった黒影は星座をぎっしりと積んだ耀きの函となった。

 音に目覚めて外に出てきた湖の邑人が青光りする怪異に愕いて顔を覆い、懼れながらひれ伏していた。旅立つ箱舟をクロトリ王子は凝視した。

「吾らの子を頼むぞ」

 薄明が夜をひらく。珠のような雫を滴らせ、影が湖から離れた。樹々が突風に傾く。そして石舟は銀糸で引かれるようにして、波の寄せる水辺から遥か遠い天の河へと吸い上げられ、大宇宙に消えていった。




 [弓の島・了]

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弓の島 朝吹 @asabuki

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