弓の島 中


 ヨモツや、ヨモツヒコ。

 大きくなったらこの剣でおじ上たちを殺すのです。そうすれば、あなたが弓の島の王になる。


 

 馬に乗った女がミヲのいえを訪ねてきた。あでやかな女は名乗った。

「吾はマリ姫です」

 大王の長子の妻マリ姫は有力な豪族の娘で、葦原あしはらに嫁いできた女の中ではいちばん位が高かった。

「葦原に来る道中、山賊に襲われて、一行の中でマリ姫だけが生き残っておられたのです。不吉だと謗る者もいましたが、強い運の持ち主だと云って、大王が國に迎え入れたのです」

 奴婢がそんな話をミヲにきかせた。

 マリ姫は居には上がらず、騎乗したままミヲを外に手招いた。

「寂しいだろう、こちらにおいで。クロトリ王子ときたら今朝になって想い出したようにお前のことを話すのだから。昼のあいだ女たちは皆で集まり、布を織ったり籠を編んでいるのだ。無理に口を開かずともよい。遠方から来る女たちはみな、最初はお前のように違う言葉を喋る」

 マリ姫は女たちを束ねて、軽いしごとを与えていた。

 姫の居は他に比べて何倍も大きかった。そこには大勢の女たちが集まっていて、板に渡した錘つきの糸を順繰りに入れ替えて布を織ったり、獣の骨から削り出した縫い針で衣を縫っていた。周囲では乳飲み子たちが眠ったり乳を求めて泣いている。女たちはすべて葦原の王子たちの妻なのだ。

「ミヲは湖の國から来た。漆が扱えるそうだ」

 マリ姫がそう云うと、女たちは愕いた顔をした。漆かぶれは扱う内に平気になるが、葦原では希少だった。

「さっそく漆を塗ってもらおう」

 ミヲの前に木桶に保存された漆がはこばれてきた。漆で染めたくしかんざしは女たちを引き立てる。

 そこへ、十歳くらいの若子が先端を舐めていた木剣を口から出して、ミオに向けて差し出してきた。玩具のこれにも漆を塗れというのだ。ひと目で分かるほど若子は様子がおかしく、先はながくないと想われた。マリ姫の子だった。

「王子たちの御子の中で、もっとも年長の若子をとこはこの子です。葦原では若女をとめしか育たない」 

 マリ姫は若子を膝に乗せると、あやすように揺らしながら小声で唄いはじめた。

 ヨモツや、ヨモツヒコ。

「大きくなったらこの剣でおじ上たちを殺すのです。そうすれば、あなたが日嗣王子ひつぎのおうじ。弓の島の王になる」

 ミヲは横目で母子を見た。マリ姫はヨモツヒコから取り上げた木剣をミヲに渡すと、「漆を塗ってあげておくれ」と微笑んだ。



 クロトリ王子は稀にしか来なかった。居を訪れても、四肢を投げ出して寝息を立てている。しばらくすると仮眠から起き上がり、ミヲを一瞥すると「またな」と云って出て行った。

 そのうち、誰かに何か云われたのだろう。

「こちらにも雪が降る。冬は寒いぞ」

 日が暮れてからやって来たクロトリ王子は新しい毛皮を何枚か、ミヲに投げて寄こした。奴婢たちがそれを床に敷き、隙間風を防ぐために壁にかけた。煮沸して虫を殺した後の毛皮は日なたの草のように温かい。

 王子は最初の夜と次の日はすぐに帰った。三日目、床の暗がりに小さな蛇が這っていた。

「あそこに蛇が」

「うん。ほっとけ」

 クロトリ王子がミヲの首飾りを手にとった。細い糸で繋いだ湖の貝は満月の涙のように闇にひかった。

「これは邪魔だ」王子はミヲの眼を見た。

 ミヲは首飾りを外し、黒髪の流れる頭の上においた。蛇はするすると柱を回って昇り、ミヲが見上げる暗い屋根の何処かへと消えていった。


 

 子どもたちの笑い声がする。

「あれに、王子の御子たちが」

 遠くを老奴婢が指す。床が高くなっているいえからは行き過ぎる一行がよく見えた。

「半分でも冬を越えるとよいのですが」

 幼子たちを引き連れているのはクロトリ王子だった。彼らは原野に遊びに行こうとしていた。王子を慕ってまとわりつく子どもの数は、ミヲが眼を疑うほどに多かった。

 老奴婢が零した言葉の意味はすぐに分かった。子どもたちは少し具合が悪くなると、あっけなく次々と死んでいったからだ。湖の邑でもそうだったので愕くことはなかったが、やはり辛いことだった。

 子どもたちの亡骸は甕の中に納められて土坑墓どこうぼに埋められた。同じ墓が幾つもあった。

「かくれんぼ、ミヲ」

 ミヲを慕っていたヨモツヒコも死んだ。マリ姫の子ヨモツヒコは膝を曲げて眼を閉じ、甕の底で丸くなっていた。

「女も子も多すぎる。覚えられん。そのほうがいい」

 甕棺を埋めた土の上に倒れ伏して身動きすらしないマリ姫を女たちは慰めようもなかった。クロトリ王子の洩らした呟きが木屑のようにミヲの胸にも落ちた。


 

 奴婢たちが騒いでいる。井戸の水が減った。鳥獣がいない。地面が揺れている。地底の巨人が大地を持ち上げているのだと葦原の民は噂し合った。

 遠い山を彼らは仰いだ。誰からともなく、あの山が膨らんでいると口にし始めた。伝えられてきた厄災の前兆だ。

 大王の判断は早かった。

「一時代前の、祖先の邑に戻る」

 葦原の人々は大王の命令を受けると、すぐさま荷をまとめ、袋や櫃を担いだ。

「あの山が火を噴き出せば風下は火と灰に包まれる。河が濁流と変わるその前に古き地に向かうのだ」

 肥沃の地を棄てる決断をした大王は、兵士や奴婢を引き連れて、王子たちと共に環状集落を出て行った。

 一行を送り出した後もクロトリ王子は「吾は後備えだ」と云って、まだ動こうとはしなかった。ミヲは人が減っていく集落を寂しい想いで見詰めた。どうせならば湖の邑に戻りたい。しかしミヲはクロトリ王子の許を離れるわけにはいかなかった。


「この地を立ち去る前に、見納めをしたいものがある」

 馬の前鞍にミヲ乗せ、クロトリ王子はミヲを連れて山に向かった。頂きから煙を細く吐き出している山に近づくのは怖かったが、だいぶ手前で馬を降りた。陸に吹き寄せる大波が固まったような、寂然とした荒れ野だった。

「此処は、奇巌原と呼んでいる」

 黒岩が幾層にも折り重なって流れている起伏を、クロトリ王子はミヲの手をひいて辿り始めた。

 やがて縦穴に辿り着いた。松脂付きの木切れに火打ち石で火をつけると、クロトリ王子は先に立って暗い急坂を降りていった。

 底に降り立つとそこは空洞になっており、洞穴の上には孔が開いていて、底にまで陽が射していた。

 仄明るい室の中央を大岩が塞いでいる。傾いた甕棺に似ていた。

「これを見るために何度もこの奇巌原に来た」

 手許の火束から、クロトリ王子はミヲに手火を分け与えた。

 火を掲げたミヲは室を塞いでいる岩に近づいた。

 それは甕棺を大きくして、縦長にしたような形をしており、上の岩盤を突き破って落ちてきたようにみえた。中央に氷塊を挟んでいる。

 氷は曇っているが透かせないほどではない。氷塊ではなく水晶かもしれない。

 手火を近づけたミヲは小さく声を上げた。中に死人がいる。

 氷に閉ざされているのは、埋葬したヨモツヒコだった。



》下

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