弓の島

朝吹

弓の島 上


 

 棺の中には若い女が眠っていた。手当を終えた若い女の瞼が開くのを彼は待った。

「無事に回収できたな」

「ああ」

 仲間の言葉に彼は応えた。船の外には高天原たかまがはらの白い雲が流れていた。

 やがて目覚めた女は、変わらぬ姿とその声で、彼の名を呼んだ。




 水嵩を増した川に落ちて死んだ獣を石斧を手にした邑人が数名がかりで引き上げている。天地が真っ黒に変わった嵐の翌日の空は澄み渡り、初秋の陽ざしが眼に眩しい。

 雷雨と暴風の中、礫のような飛沫を飛ばしていた湖は、今朝は水面を静かに広げ、ミヲの足許に波をやさしく寄せていた。

「灰しかなかった」

 湖の手前で押し流された枝木が折り重なり堰となっている。そこに引っかかっている獣の死骸を男たちは斧を使って取り外し、川岸で待っている女たちに引き渡していた。

 ミヲは山から湖に戻ってきた者たちの話に耳を澄ました。

「山頂付近は全て焼けていた。彼の遺骸もなかった」

 声はそう告げていた。

 湖畔の対岸の山の嶺が黒々と焦げている。昨夜の落雷による火災で焼けたのだ。頂きに雷が立て続けに落ちるのを、湖の邑からミヲたちも見ていた。

 耳を聾する雷鳴と、瞼をやく青白い火柱。その後、山から焔が背びれのように立ち上がり、強風に煽られた火の手は雨の中、魚影の群れのように見る間に山の稜線を駈け下っていったのだ。

「ミヲ」

 粗織の貫頭衣をまとった女たちが気づかわしげな顔でミヲの許に集まってきた。

「ミヲ。スラギが死んだ」

 嘘。ミヲは首を振った。

「何処に行く、ミヲ」

 ミヲは振り向かずに応えた。森。

「昨夜の嵐で、木の実が沢山落ちているはずだから」

 水たまりを蹴り分けて、土器を手にしたミヲは山の麓に向かった。


 

 スラギは山からやって来る。いつ頃からか湖の邑に姿を見せるようになった若人は、水辺で貝を割っていたミヲに、それは何かと訊いてきた。

 幼いミヲはスラギに貝を開いて見せた。

 中からは虹色を帯びたまるい珠が零れ出た。大きな珠は葦原あしはらへの貢物。歪んでいたり小さすぎる粒は、飾りに使う。

 だが、どんな珠よりも、スラギが持っている細い糸のほうが煌めいていた。

 ミヲが眼を離せないでいると、スラギはその糸に貝の珠を繋ぎ、魔除けだと云ってミヲにくれた。

 危ない時の御守りだよ。

 朝露の連なる蜘蛛の糸のようなそれをミヲは肌身離さず首にかけた。

 四季が何度か巡った。森の獣と湖の魚を交換しにやって来るスラギは、はじめて逢った時から見た目が変わらない。山奥に独りでくらし、いかなる狩猟方法を使うのか、いつも見事に獣を仕留めていた。

 山頂付近を黒々と変えた山の麓に広がる森をミヲは湖に沿って歩いた。やがて森の中の巨石に辿り着いた。その岩は枯葉の中に身を沈め、今にも真下の湖に向かってせり出していきそうだった。

 或る日スラギに逢いに行くと、スラギはこの巨石の上に座って、板に描かれた絵を見ていた。

「これはこの島だ」

 巨石から降りてきたスラギは、その絵をミヲに見せてくれた。

「海の中にあり、上から見ると弓の形をしている」

「山の上」

「違う、もっと上からだ」

 雨上がりの森の中にも焦げた匂い薄く漂っていた。ミヲは腕に抱えている器を抱えなおした。粘土と砂を混ぜて焼く器には縄や枝を用いて文様をつける。ミヲも乾燥前の表面に湖で獲れる貝殻を押し付けて三日月の柄をつけていた。

 夜通し、ぱちぱちと鳴っていた山火事の音。


 いつかお別れをしなければ、ミヲ。

 

 いつかとはいつ。ミヲはスラギに訊いた。スラギは応えた。

 探している人がいるんだ。

 大きな鳥が飛び立った。ミヲは空を振り仰いだ。鎮座している巨石が、僅かに向きを変えているような気がした。



 春の花が揺れている。雪解け水の流れ込む湖の邑は早朝から忙しかった。ミヲが葦原あしはらに行く日がきたのだ。

 耳飾りをつけ、黒髪を梳かして飾り紐で結わえると、仕上げに邑の女たちはミヲの額に顔料で小さく模様を入れた。

 早朝の山並みはしんとして昏く、白い夜明けは空疎なミヲの心を映し出すようだった。

「葦原のいえは床が高いそうだよ」

 木の実の灰汁を抜き、臼でひいて焼いたものを子どもたちがミヲに差し出す。邑の子どもたちは追いすがって手を振った。

「すぐに帰ってきて、ミヲ」

「莫迦」年長の子どもが叱った。

「ミヲは葦原の王子に嫁ぐのだ」

 各地の豪族を服属させて拡大していった葦原の國は、各部族から有力者の姉妹や娘を差し出させた。葦原の大王は云った。吾には王子が沢山いる。王子に妻を差し出す國は、葦原勢に加えてやろう。

 数年前、湖の邑からもミヲの姉が選ばれた。ミヲの姉は染めた糸で模様を織った布をミヲの手許に残し、葦原に嫁いだ。

 その姉が死んだ。

 出産時に死ぬ女は多いが、姉は、生み落とした若子をのこの急死を受け、嘆きのあまりに赤子の後を追って自死したという。

「ミヲ。次はお前の番だ」

 葦原との絆を保つために差し出される贄。長の娘のミヲには断れるはずもなかった。

 差し向けられた護衛の兵に囲まれて、ミオの乗る馬は湖の國から離れていった。馬の鞍からは、青い湖と、焼けた山が望めた。

 ミヲはスラギからもらった首飾りをまだ首から下げていた。

 枯草を束ねて火打ち石で火を熾す間も、漆の木に傷を入れて一滴ずつ樹液を貝殻に集めている間も、スラギは興味深そうにミヲのやることを見ていた。

 やがて成長したミヲには、スラギのその視線が、ミヲの上にもそそがれているような気がすることがあった。

 峠から振り返った。葦原に向かう交易の道からは、もう山も湖も見えなかった。



 遠方から運ばれてきた女たちを、葦原の王子たちが一人一人、顔を覗き込んで連れて行く。貢物の女たちは、よいものから年長の王子が選んでいった。大勢いる大王の王子たちは彼らの肉体が持ちえない、やわい女を好むようだった。

 後方で隠れるようにしていたミヲには誰の眼も留まらなかった。鹿革の沓の先ばかり見ていたミヲは、肩の力をようやく抜いた。

 葦原までは馬、さらには舟で大河を渡った。舟から降りる時にひねってしまった足首が痛んだ。

 河や山や森はあっても、葦原の地に湖はない。

 湖の國に帰りたい。帰ればスラギがいるような気がした。冴えた月が昇る夕映えの湖面をいつものようにスラギは巨石の上から見詰めている。

 山から下りてきて、スラギ。地を掘り下げ萱の屋根をつくって、邑で暮らして。

 星が耀きはじめた。落日の中でスラギはミヲに告げた。


 この島は弓の形をしている。あの星の何処かにも、同じような島がある。


 

 日輪が地平に落ちた。葦原の王子たちはみんな去ったようだ。

 槍を手にした監視兵はいるが今はよそ見をしている。奴婢に紛れて消え去っても、きっと誰も探さないだろう。

「なんだ。余ってしまったのか」

 周囲をうかがっていたミヲは腕を掴まれた。

「その額のしるし。湖の國から来たな」

 まだ若い、腕に刺青のある王子だった。王子はミヲの前に背を向けて片膝をついた。

「足が痛そうだ。はこんでやる」

 王子はミヲの膝裏を軽々と掬い上げて立ち上がった。ミヲは慌てて王子の首にしがみ付いた。

「ずっと俯いて隅にいるから、てっきり婢女はしためかと想ったぞ」

 王子は笑い声を上げた。

 とにかく女が多すぎるのだ、とミヲを背負った王子はぼやいた。夕暮れが川を朱く染め、草木が深い影をつけていた。

「戦をするよりはよい。女が子を成せば、その一族も葦原と血で結ばれる。しかし幾らなんでも流石にもう要らん。要らんのだが、大王の命だから仕方がない。寄こされた女たちは王子の誰かが娶らねば遠くからお前たちがやって来た意味もない。湖の子、お前の名は」

 何を云われているのか分からない。

 王子はもう一度、少し云い方を変えてミヲに問うた。それでようやく通じた。ねぐらへ帰る鳥が薄灰色の宵闇を飛んでいた。

「ミヲというのか」

 そうかそうかと頷いて、王子は濠を跨ぎいえの一つにミヲを連れて行った。巣のような同じ居が間隔をあけて沢山建っており、環状になっていた。王子たちはそんな集落をそれぞれに持っていた。

「吾はクロトリ」

「クロトリ」

「大王の子だ。まあ、しばらくは遊んでおけ。とにかく通わなければならない女が多すぎる。誰がだれやら覚えきれない。だがお前のことは覚えたぞミヲ」

 それだけ云うとクロトリ王子はミヲを置いて、階段を降り、何処かへ行ってしまった。

 話にきいていたとおり葦原の居は柱を立てて地面から浮いており、幹から表皮を剥いだ木を組んで出来ていた。



》中

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