暗闇の隙間

kou

暗闇の隙間

 六畳一間の安アパートがあった。

 部屋は小さく、くたびれた感じが漂ってた。

 家具といえば小さな座卓とテレビだけで、その上に無造作に置かれた灰皿には吸殻が溢れていた。

 全体的に埃っぽくて、湿っぽい感じがした。

 部屋には、ジャージ姿の男が一人いた。髪はボサボサで、無精髭を生やしている。年齢は40歳。

 名前を小内幸雄と言った。

 幸雄は正社員で働いていたが、給料は安く手取りで18万円に満たない。そこで家賃の安いアパートを探して見つけたのが、この家賃2万円の木造アパートだった。

 1971年築ということで、かなりガタが来ている。天井や壁にシミがあるし、ドアは建付けが悪く開け閉めするたびに力が必要だった。

 冬場は寒く、夏は暑く、とても快適とは言えない環境だったが、幸雄はこの部屋に満足していた。

 それは、この部屋では誰にも邪魔されず、好きなだけ煙草を吹かすことができるからだ。

 最近の社会は喫煙者にとって厳しい。

 会社内にあった喫煙所は廃止され、屋外で吸っていると、お局様に日光浴をさせていた観葉植物に影響があると注意された。路上でも歩き煙草が禁止され、駅のホームも禁煙となった。

 だが、ここは自分の部屋だ。

 どれだけ煙草を吸っても文句を言われる筋合いはない。

 仕事から帰宅した幸雄は、買ってきたばかりの煙草を吸い始めた。飯の後の煙草は美味いものだ。

 幸雄は壁を背に、紫煙をくゆらせながら、肺一杯に満たした煙を吐き出す。

 右手に持った煙草から、紫煙が天井に向かって立ち上るのを、ぼんやりと眺める。

 ささやかな至福を感じていると、室内であるにも関わらず紫煙が流れるのを見た。

 せせらぐ川の流れが不自然に断ち切られたような、そんな流れ方だった。

 幸雄はエアコンを見るが、動いてはいない。

 風もないのにどうしたことかと思って、紫煙の動きを冷静に確認する。

 すると、幸雄から見て手前から奥へと動いているのが分かった。つまり背にしている壁から、風が流れているのだ。

 幸雄は背後を振り返り、壁を見上げた。

 柱と壁に隙間があり、そこから風が吹いているのだ。位置としては、高さ180cmくらいのところに幅5mmの隙間があった。

「安いと言っても、隙間風はねえだろ」

 ぼやく幸雄は、立ち上がって隙間の前に移動した。

 幸雄は身長がある方なので、背伸びをすれば隙間を覗き見ることができる。スマホのライトを点灯させ、隙間を照らし出す。

 この部屋は角部屋で、壁の向こうは外になっているだけに貫通しているのではと思ったのだ。

 しかし、何も見えなかった。

 隙間の奥が闇に沈んでいるだけなのか、あるいは外に通じているのか。

 ともかく、向こうは見えないのだから、どうしようもない。

 諦めるしかないかと、そう思ったとき、幸雄は隙間の中に光る玉を見た。


 目玉


 それを認識した瞬間、背筋に悪寒が走る。

 慌てて後ずさった。

 背中が壁にぶつかり、大きな音を立てる。

 心臓の鼓動が速い。

 冷や汗が流れ、息が荒くなる。

 その日以来、幸雄は視線を感じるようになった。

 部屋の中はもちろん、外出先でもどこからか見られているような気がするのだ。

 その視線を感じる方向に目を向けても、そこには誰もいない。

 最初は気のせいだと思った。疲れているのだと。

 だが、それは毎日のように続いた。

 会社で嫌なことがあっても、自分の部屋に帰ることができればビールをあおって忘れられたが、部屋に帰ると視線は常に感じられた。

 部屋の隅々まで見渡しても、やはり自分以外には誰もいない。

 それなのに、何者かの視線だけはあるのだ。

 ふと思った。

 あれは、本当に目玉だったのか?

 何かの見間違いだったのでは?

 そう思ってしまうと、そうとしか思えなくなる。

 きっとそうだ。

 自分は何かを見間違えたに違いない。だからこんなに落ち着かないんだ。

 少し気持ちが楽になった気がした。

 もう何日もまともに寝ていない。疲労もピークに達している。

 かつての生活を取り戻す為に、幸雄は隙間を再び確認する決意をすると、ライトで隙間を照らし出した。

 隙間には目玉はなかった。

 今度こそ間違いないと確信した瞬間、幸雄は背後から肩を叩かれたような気がした。

 いや、確かに叩かれたのだ。

 振り返ったそこに居たのは、死んだ魚の様な目をした女だった。

 女は不安と邪悪を微笑む。

 幸雄は自分の瞳孔が満月の様に丸くなっていくのを感じた。


【隙間女】

 隙間に現れる怪異。

 壁と家具の数cm、数mmほどの隙間から見続けられ、姿を現す。

 江戸時代の随筆『耳嚢』に、その原型が見られる。


 女は幸雄の右手を掴むと、その身体が排水溝に飲まれる渦のように壁の隙間に飲み込まれる。

 幸雄は必死に抵抗しようとするが、恐ろしいまでの力に自分の腕が隙間に飲まれていた。

 痛みは無い。

 恐怖だけが脳髄を駆け巡っていた。

 肘が飲み込まれ、肩が飲み込まれる。

 やがて、顔が隙間に近づくと、その奥から生暖かい空気が流れてくるのを感じた。

 それが女の吐息と気づくと同時に、幸雄は隙間へと引きずり込まれた。

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