第45話 萬姜、宗主を追い払う


「おっ! どうされた、喜蝶さま」

何かが崩れ落ちる大きな音に、男のうろたえた声が重なる。


「宗主、何ごと!」


 隣の部屋の異変に気づいた允陶の行動はすばやかった。

 叫んだ声とともに立ち上がると、荘興と少女のいる部屋に音を立てることなく飛び込んだ。


 彼のあとを追うように萬姜も立ち上がったが、着物の裾を踏み尻もちをついた。再び立ち上がりよろけながらも、続いて部屋に入る。


 赤い顔をして目を閉じた少女を荘興が胸に抱え、その横に家令がいた。


「お嬢さま! お嬢さま!」


 その光景に驚いて駆け寄ろうとした萬姜に家令の叱責が飛んできた。

「騒ぐな、萬姜!」


「飲ませ過ぎた。ためらいなく盃を口に運んだので、酒を飲みなれているのかと思ったが、そうではなかったようだ」


 主人のうろたえぶりに比べると、家令はどこまでも冷静だ。少女の細い手首で脈を測り、そして赤い顔の額に手を当てる。


「湯浴みをされたあとでしたので、喉が渇いていらしたのでしょう。それで酔いがはやく回られたようです。幸いに、顔色も青くなく息遣いもさほど荒くございません。このまま寝所にてお休みになれば、朝には目覚められるかと」


「ありがたい。允陶、おまえの冷静さはいつも役に立つ。では、おまえの言葉に従って、喜蝶さまを寝所にお連れしよう」


 そう言って、少女を横抱きにしたまま荘興は立ち上がった。


 男の腕の中で、正体を失くした少女の頭がのけぞり両腕が死人のようにだらりと垂れ下がる。あまりにも痛ましいその光景に今度は萬姜の体が固まった。

 

 しかし、またまた家令の叱責が飛んでくる。


「ぼんやりと立っていてどうする、ドジ女。さっさと動いて、宗主の足元を手燭で、お照らし申し上げよ」


 その声に飛び上がった萬姜は部屋の隅に置かれていた手燭のもとに走った。




 酔いつぶれた少女を寝台に寝かせたあと、眠り続ける少女の白い髪に触れたり布団の上に投げ出された手を握ったりと、荘興は世話を焼き続けた。


「わしの不注意で、喜蝶さまには申し訳ないことをしてしまった」


 何度も呟く男の声には、先ほどの上機嫌は微塵もない。

 そして洗濯女たちから噂として聞かされていた「泣く子も黙る」とか「逆鱗に触れれば、首が飛ぶ」という恐ろしさも威厳もない。


 愛おしく思う女を心底案じる男の想いだけが溢れている。

 萬姜はその様子を部屋の隅で見守るしかない。


 家令は心配するほどの悪酔いではないと言ったが、それでも寝台に寝かされた少女の息は大きく、そのまだ薄い胸が上下するのは彼女の場所からでも見える。


 彼女の心の中に不甲斐なさと惨めさがだんだんとつのってきた。


……いつも天に向かって「この命にかけてお嬢さまをお守りする」と誓っているのに。そのお嬢さまが苦しんでおられるのになんの手出しも口出しもできないなんて、あまりにも情けない……


 そのとき、一度退室していた家令がその手に水を張った桶を持って戻ってきた。振り返った荘興が訊く。


「允陶、それでどうするつもりだ?」


「喜蝶さまの火照ったお体を冷たい水に浸した布で拭けば、酔いも醒めやすくなります」


「おお、よくぞ気がついた。わしがやろう」


「しかし、宗主……、それは……」


 允陶の言葉は荘興の耳には入っていない。

 袖をまくりながら彼は言葉を続ける。


「その前に、喜蝶さまの帯を緩めなくてはならんな。あとはわしに任せておまえたち二人は自室に戻れ」


 男のその言葉に、突然、萬姜の心の中の何かがはじけた。


「お待ちください、宗主さま。そのようなことは、わたくしがいたします」


 あとは考えるよりも先に体が動いた。

 家令の手から桶をひったくる。


 水がこぼれて着物の前を濡らしたが、いまはそのようなことを気にする場合ではない。肝が据われば、もう恐ろしいものなどない。荘興と允陶を前にして今まで「えっ?」とか「ああ……」とか言えなかった彼女の口が滑らかに動く。


「この部屋より出て行かれるのは、わたしではありません。宗主さまと家令さまです。宗主さまがいずれ喜蝶さまを娶られるにしても、喜蝶さまはいまはまだ未婚の少女であられます。そのお体に直接触れるなど、おやめください」


 そして言葉だけでは足りないと、萬姜は水桶を抱いたままその豊満な体で荘興を戸のほうへと押しやった。驚いた荘興は萬姜の体当たりによろめき、そして家令は呆れた顔で萬姜を見つめる。


 三人の視線の間で、目に見えない火花が散る。


 しばらく続いた気まずい沈黙を荘興が破った。

 ここを丸く収めるのは自分だと彼は知っている。そしていま何よりも大切なのは、太った女に傷つけられた自分の面目ではなく、悪酔いしている少女の体だ。


「確かに、萬姜の言うとおりだ。わしも酔い過ぎていた。今夜は、自室に戻りおとなしく寝ることにしよう。そうだ、允陶、明日の朝、永先生に使いを出して来てもらえ。たぶん、喜蝶さまは二日酔いだ」


 男二人が出て行ったあと、萬姜の足が立ってはいられないほどに震え始めた。お嬢さまを命がけで守るという本当の意味を、いまやっと彼女は身に染みて知った。

 




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義を見てせざるは勇なきなり 明千香 @iyo-kan

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