第44話 宗主さまは酔っている


 家令の言葉通り、その日の昼餉も終わったころ、荘興が久しぶりに奥座敷に姿を見せた。そして戻ってきたときに必ず発する言葉を彼は言った。


「喜蝶さま、無沙汰していたが、息災であったか?

 ここでの暮らしに不自由はないか?」


 嬉児と絵草紙を見ていた少女が顔を上げる。

 

 喋れない少女の記憶は底に穴の開いた甕の中の水のように、溜まることを知らない。少しずつ日々にこぼれ落ちていく。しかし自分に声をかけた男のことはおぼえていたようで、返事の替わりに笑った。


「おお、覚えてくれていたか。安堵した」


 少女を案じる男の声は低く深く優しい。その耳障りのよさは彩楽堂に似ていると萬姜は思う。しかし彩楽堂と違って、常に人を支配してきた男の荘本家の宗主という立場は隠しようもないが。


 これから春の花々がいっせいに咲き乱れようかというのに、彼の年齢を思わせない精悍な顔は、すでに陽に焼けて浅黒かった。


 荘本家の生業がどのようなものであるか知らず、また知りたくもない萬姜だったが、彼が馬にまたがり外を駆け回っているということはその顔の色だけでも想像できる。


 無駄な肉のついていない体は敏捷に動き、いまだ衰えぬ男らしさがある。


 病弱な正妻・李香の亡き後に娶るであろう新妻が誰となるのか、気になってしようがない洗濯女たちの気持ちもわかるというものだ。


 彼は大変に機嫌がよいように萬姜には見えた。留守の間のことや花見の宴のことなど、美しい少女にあれこれと話かける。


 その優し気な声音に、少女もまた喋れないながら嬉しそうに頷きかえしていた。


 少女は喋れないが、その美しい顔と白く長い睫毛に縁どられた透きとおるような金茶色の瞳は、心を許したものには雄弁に語る。


 そうやってしばらく少女の機嫌をとったあと、まだ仕事が残っているのか心を残した男は出ていき、しばらくして家令だけが戻ってきた。


「今夜、宗主は喜蝶さまと夕餉を楽しむことをお望みだ。久しぶりの休息ゆえに酒も召される。傍に控えるのは、おれとおまえだけでよい」


 そこで家令は言葉を切った。

 しばらく無言が続いたのはそのあとに続ける相応しい言葉を探したのだろう。何ごとにもよどみなく指示をする彼にしては珍しいことだ。

 

 彼は再び口を開いた。


「喜蝶さまの湯浴みと着替えを手伝わせたあと、梨佳と嬉児は早々に休ませるとよいだろう」


 その言葉に、なぜか萬姜の胸はざわついた。晴れ渡った青い空の端に浮かぶ黒雲の正体を見たと思った。目の前の男もまた見たのかと彼女は伏せていた顔をあげたが、目に入ってきたのはすでに部屋を出て行く背中だった。




※ ※ ※


「あれを召し上がれ、これを召し上がれ」と、荘興のかいがいしい世話を受けて、少女の前に並べられた贅沢な食事はあらかた片づいていた。


 そして食事のあとは、必ず請われて少女は笛を吹く。


 その心に沁みる笛の音を楽しんだ荘興は手を叩きながら言った。手酌で盃を重ねた男の声は昼間にも増して上機嫌だ。


「いつもながらの素晴らしい笛の音色に、この荘興、感服いたしました。さあさあ、喜蝶さま、こちらにお戻りください」


 その声に素直に従った少女の衣擦れの音が、隣の部屋の戸の陰で、家令とともに気配を消して控えている萬姜にも聞こえてきた。


 湯上りのよい匂いを体にまとった少女は、梨佳と嬉児に「可愛い、可愛い」とおだてられて、薄桃色の袖も裾も長いあでやかな着物を着ていた。


 そして梨佳の手によってその美しい顔に薄化粧もほどこしていた。入浴でほんのりと上気した顔の目元と可愛らしい唇に紅を差した梨佳でさえ、そのしあがりの可憐さに息を飲んだほどだ。


 迎えに来た允陶は少女に見とれて一瞬足を止めたほどだ。まして彼女を愛おしく思う荘興の目はいまも少女だけを見つめていることだろう。


「そうだな、向かい合っていては話が遠い。横に座るといいだろう。一献差し上げようぞ」


 隣の部屋から聞こえてきた声に、萬姜は思わず腰を浮かせた。だが、家令の片手がすっと膝に伸びてきて彼女を押しとどめる。


 萬姜は声をひそめて言った。


「しかし、家令さま。お嬢さまにお酒は早すぎます。お嬢さまはまだ子ども。それに宗主さまはかなり酔っておられます」


 しかし、家令は手を萬姜の膝に乗せたままだ。

 彼もまた萬姜だけに聞こえる声で答える。


「喜蝶さまが子どもであるかどうかの判断は、宗主がなされること。我々ではない。そのうえに宗主が酔っているかどうかに、口を出すとは。おまえは命が惜しくないのか」


 その言葉に萬姜は自分の立場を思い知る。薄暗闇の中で、浮いた腰を落として座り直すしかなかった。


 隣の部屋から、かちかちと甕と盃の縁がふれあう音がして、とくとくと酒が注がれる音がする。それが繰り返されたのは、男もまた自分の盃に酒を満たしたのだろう。


「よい飲みっぷりだ。喜蝶さまは酒がお好きか? たしかにこれは口当たりのよい甘く美味い酒だ。今夜のために台所方が特別に用意したものに違いない」


 聞こえてくるのは、喋れない少女を相手に優しく囁く男の声だけ。


「おお、もう飲み干されたか。ではもう一杯……」


 その言葉は何度繰り返されたのか。

 しかし、次第に男の言葉に焦りが含まれた。


「喜蝶さま、酒はそのように飲むものではない。口当たりがよくとも酒は酒だ。そのように盃を重ねては悪酔いする……」


 その声と同時に、ばたんと何かが崩れ落ちる大きな音が響いた。


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