萬姜の覚悟

第43話 宗主さまのご帰還


 部屋に戻れば、白い頭と黒い頭をくっつけるようにして少女と嬉児が語らい合っていた。といっても、いつものように喋れない少女を相手に嬉児が一人で話しかけているだけなのだが。


 だが、嬉児の言葉一つ一つに嬉しそうに頷く少女の様子は、見慣れるほどに、萬姜には二人が語り合っているとしか思えなくなっている。


 彼女たちは、大きな盆の上に並べられた簪の前に座っていた。

 嬉児が簪を一つ持つと、朝餉の前に結ったばかりの少女の髷の根元に挿した。

 

 それは少女の白い髪と花見の宴の着物に合うようにと特別に誂えられたもので、光輝く銀に小さな赤い珊瑚玉が贅沢にあしらわれている。二つで対になっていて、少女の短い髪でまとめた髷に左右から挿し、なんとか華やかに見せようという彩楽堂の趣向だ。


「喜蝶お姉ちゃん、可愛い!」


 嬉児の言葉に頷くと、今度は少女がもう一つの簪を持ちそれを嬉児の髷に挿した。そして二人で手を取り合って立ち上がると姿見のほうへと駆け寄った。


 再び白い頭と黒い頭がくっついて、姿見に映る自分たちの姿に笑い合う。

 なんとも可愛らしく微笑ましい光景だ。


……これなら、きっと大丈夫……


 あと三日後と迫った花見の宴の日に、少女は機嫌よく着飾ることだろう。嬉児に着物の裾を持たせて、満座の席にその美しい姿を見せるに違いない。そして気づかぬうちに両頬を流れ落ちる涙が濡らすとも、また音色で万病が治るとも噂されている笛を吹いてくださる。


 豊満な胸に両手を押し当てて、萬姜は安堵の息をそっと吐いた。

 幼くも賢い嬉児は母の願いを察して忠実に実行してくれている。


「さあ、お嬢さま。朝餉も終わりましたので、お着替えをいたしましょう。家令さまのお話では、今日、長く留守をされていた宗主さまがお戻りになられるとか」


 敷物の暖まる間もないほどに仕事で東奔西走していた宗主が戻られると、昨夜、家令の允陶より聞かされた。そして花見の宴が終わったあともしばらく屋敷に滞在してくつろがれるという。


 洗濯女たちは姦しく、『宗主さまは跡目を長男の健敬さまに譲られたのち、喜蝶さまを娶られる』と噂していた。その日が近づいているということなのか。


……それはおめでたいことでもあり、またお嬢さまのようにお美しくあれば当然のことであるけれど……


 しかしなぜか、遠い山の端に浮かんだ黒雲のように、允陶の言葉は萬姜の心をざわつかせた。少女の幸せを素直に喜べない自分がいる。


「萬姜?」


 考え込んで返事を忘れている彼女の名を允陶が呼ぶ。


「えっ、はい……。お嬢さまがお喜びのことと思います」


 とっさに当たり障りのない返事をかえす。しかし家令から戻ってきた言葉は意外なものだった。


「喋ることのできない喜蝶さまのお心の内が、おまえにはわかると言いたいのか」


「あっ、いえ。そのようなことは……。出過ぎたことを申しました」


 またまたドジ女との叱責が飛んでくると覚悟して身を縮こまらせた。しかし次の言葉は萬姜にはもっと意外だった。


「言い過ぎたようだ。いまの言葉は忘れてくれ。もう下がってよい」


 伏せていた顔をあげると、もう萬姜などいないかのように家令は卓上の書付けに目を落としていた。


「失礼いたします」


 取り付く島もないその姿に、頭を深く下げて後ずさりのままで退室しながら、家令さまもまたその心の中で黒雲を見たのかと萬姜は考える。


 それはまたたくまに空を覆って嵐となるのか。

 それとも青空に吸い込まれて消えてしまうものなのか。

 考えてもわからない。


 ただわかっていることは、お嬢さまをこの命に替えてもお守りすること……。


 この時の萬姜はまだ知らなかった。


 数日前に、荘興の三男・英卓を見つけたと、密命を受けて彼をひそかに探している魁堂鉄からの知らせが荘本家に届いていた。


 英卓はまだ雪の残る山深い銅鉱山で、その出自を隠して人足として働いていた。


 見つけ次第、たとえ英卓にその気がなくとも担いででも連れ帰ると、堂鉄の手紙にはあった。それを受けて荘興はもどってくる。


 荘本家の中には英卓が戻ってくることを望んでいないものたちがいる。

 十五歳で慶央を出奔して二十歳となった若者の命を奪ってでも阻止したいものたちだ。


 そのものたちの目を逸らすための荘興の帰還でもあり花見の宴でもある。


 荘本家がその形を成してより三十年。荘興も五十歳となれば、跡目のことできな臭い煙が立ち始めた。


 長男の健敬は穏やかな性質であるぶん、少々押しが足りない。

 心を許せる補佐役が必要だ。


 五年の放浪を経て英卓がどのような男に成長したのか、一時もはやく見てみたいとも思う荘興の親心も多分にあった。




「お母さま」


 後ろにいた梨佳に呼ばれて、萬姜は我に返った。


「お母さま、宗主さまがお戻りになるのであれば、今日のお嬢さまのお着物はどういたしましょう。それからお化粧のほうも。花見の宴の日にそなえて、お化粧にも慣れていただきたいと思います」


「ああ、そうだね。お着物のほうはとびきり可愛らしいものを選びましょう。それからお化粧のほうは任せますね。巷で若い人の化粧はどのようなものが流行っているのか、あたしはとんと疎くてね」


 母の言葉に梨佳がうふふと笑う。




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