第42話 花見の宴のお着物


 慶央の街に春が来た。

 桃や杏や梨の蕾が膨らんできている。あと少し暖かく穏やかな日が続けば、新緑の山々に赤や薄桃色や白の模様が浮かぶことだろう。


 梨佳とともにお嬢さまの朝餉の膳を奥座敷の裏口にまで下げた帰り、屋根つき回廊の下で萬姜は足を止める。見上げれば、回廊の屋根と庭木の早緑色の枝々の間から覗く空も霞みが立ち春めいている。


その空に向かって彼女は手を合わせて祈った。


 半年前には、餓死するかそれとも江長川に身を投げるかと、地獄の釜の蓋を開けその下を覗き見ていたのに。雨漏りとは無縁の屋根の下で、食べ物に困らない暖かい冬を母子四人で過ごすことができた。


 そして皆無事に新年には歳を重ね、嬉児は七歳に範連は十歳に梨佳は十八歳となり、彼女もまた三十路を一つ越えた。


……いやいや、自分の歳などどうでもいいことだわ。誰も訊いてこないことなど忘れてしまおう……


 祈り終えて後ろを振りかえれば、梨佳もまた白魚のように細く白い指を胸元で合わせて祈っている。


「お母さま、いつそのように信心深くなられたのですか」


 朝と夕、空に向かって手を合わせるようになった萬姜に、梨佳は尋ねてきたことがある。


「あっ、いえ……。お嬢さまの毎日のご無事と、いまのあたしたちのつつがない日々の暮しへの感謝は、こうして空に向かって祈るしかないと思ってね」


 心を許している娘であっても、夢で見た銀狼と青龍に祈っているのだとは言えない。たちまちその顔を曇らせて、「お母さま、風邪をひかれましたか?」と、額に手を伸ばしてきて言うに違いない。


「で、それはどのような夢なのですか?」

 それともそう言うのか。

 しかし訊かれたところで答えようがない。


 印象深い芝居を観たように、銀狼と青龍の顔かたちや声や着ていたものまで鮮明におぼえているというのに、歳の離れた彼ら兄弟神が夢の中で何を語ったかとなると、きれいさっぱりと忘れているのだ。ただお嬢さまを大切にお守りせねばという想いだけが胸の中に残っている。




※ ※ ※


 部屋に戻れば、そこはあでやかな色彩に溢れていた。

 春まであと一足という外の景色と違って、すでに春爛漫だ。


 正面の衣桁には、彩楽堂より届けられた花見の宴のための少女の着物が広げられかけられている。


 先日、珍しく彩楽堂自身が出来上がったばかりの着物を持ってやってきた。


 それは凝った地模様に織られたずっしりと重い濃く深い赤色の絹地に、金糸銀糸で飛び舞う小さな蝶が無数に刺繍されている。それが座敷いっぱいに広げられたとき、萬姜は感嘆の声をあげた。


「まあ、お嬢さまのお名前に相応しいですこと!」


 しかし横にいた允陶が言った。


「確かに贅沢なよい着物だということはわかるが……。彩楽堂、花見の宴に喜蝶さまのお披露目も兼ねてとなると、少々あでやかさに欠けるのではないか。たとえば刺繍は咲き乱れた花々がよいと思う」


「いえ、家令さま」

 允陶の疑問に無言でいる彩楽堂に代わって、萬姜が口を開き説明する。


「花見の宴の日には、花々は山々にそしてこのお屋敷の庭に咲き乱れています。お嬢さまのお着物にまで花を咲かせてもくどくなるだけです。彩楽堂さまの趣向は、花に集まる蝶を表していらっしゃるのかと」


「萬姜さん、わかっていただけましたか!」


 面持ちを喜色に染めた彩楽堂が声をあげ、萬姜の手を握ってきた。

男の手は大きく暖かい。包まれれば、体どころか心までうっとりとする。はっと我に返って慌ててその手を振り払う。


「そういうものなのか。おれにはおなごの着物はわからん」


 二人の様子を横目で見ていた允陶が言う。

 緊張がほどけた彩楽堂が軽口を飛ばす。


「何ごとにも精通されていらっしゃいます允さまにも、苦手なことがございましたか」


「彩楽堂、それは世辞か、それとも皮肉か」


「皮肉などとは、とんでもない」

 允陶の冷笑を受け流すと彩楽堂は言葉を続けた。

「こちらは嬉児ちゃんのお着物です。嬉児ちゃんに似合うようにと、可愛らしく仕立てました」


「まあ、嬉児にまで……」


「当日、嬉児ちゃんには大役を引き受けてもらわねばなりません」


 少女は満座の席で荘興に紹介されたあと、類まれな音色だとすでに慶央で評判になっている笛を吹くことになっている。

 

 しかしながら、彩楽堂の着物を着てはくれたとして、興味津々の顔が並ぶ中に少女が出て行く気になるのかどうか。


 允陶と彩楽堂と萬姜は知恵を絞ったあげく、嬉児を少女の着物の裾持ちにすることにした。引きずる長い裾を嬉児に持たせれば、我がままではあるがその心根は優しい少女のことだ。嬉児を困らせるようなことはしないだろう。嬉児に裾を持たれたまま、きっとしずしずとその足を皆の並ぶ前に運ぶに違いない。


 薄い桃色の絹地に染めの小さな小花を散らした子どもの着物に、今度は允陶は異をとなえることはなかった。


「そしてこちらは萬姜さんと梨佳さんのお着物です」


 そう言って、彩楽堂は緑色と薄緑色の二枚の着物を広げた。少女や嬉児のと違ってなんの模様もないが、その深みのある光沢でいい絹だとはすぐにわかる。


「えっ、わたしたちにまで、新しい着物だなんて。当日のわたしと梨佳は裏方でのお手伝いのみ。お客人の前に出ることはありません。もったいない……」


「萬姜、前にもいったはずだ。彩楽堂からもらえるものはもらっとけと」


 允陶が不機嫌に言う。

 彩楽堂がおだやかにとりなした。


「さようでございますよ。萬姜さんへのお礼はこのくらいでは足りないくらいです」


 もう一度、彩楽堂は自分の気持ちを表すために、萬姜の手を取ろうとした。

 しかし、彼女がもじもじと両の手を袖口に引っ込めたのを見て諦めた。




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