第41話 再び、銀狼が夢の中に……
舜庭生は言葉を続けた。
「若い時に慶央を出奔して青陵国を放浪したという荘さんは、草紙に書かれている白い髪の少女の話を、どこぞで聞いたのやも知れんな。それとも、老僧の昔話を聞いて自分も少女に逢いたいと寺を飛び出したと草紙に描かれた男と、どこぞで出会ったのか。奥深い山に迷い込んだ二人が廃寺で一夜を共にし、一晩、語り合ったと想像するのもおもしろい」
「まさか、そのようなことがありましょうか?」
「いやいや、人の世において偶然は必然、必然は偶然じゃ。ここに萬姜がいて、允さんの淹れた茶を飲んでいるようにな」
「えっ?」
またまた突然に話を振られて、萬姜は素っ頓狂な声をあげた。
今度こそしっかりと聞いて男二人の会話を理解しようと思ったが、やはりその話の内容は難しい。
「いいのじゃ、いいのじゃ、萬姜。おまえは理解できなくともいいのじゃよ。おまえがお嬢ちゃんの傍らにいつもいる、それこそが偶然が呼び寄せた必然なのだろう」
「さようでしょうか。このようなドジ女は、わたしには存在するだけで邪魔だとしか思えませんが」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。允さん、この萬姜を侮ってはなりませんぞ。萬姜が体を張ってお嬢ちゃんを守る未来の姿が、わしには見える」
それでもと言いつのって舜老人に逆らいたくはない允陶が、萬姜を見つめて冷笑する。しかしながらなぜか胸を張った彼女は、その氷のような色の目を見つめ返した。舜老人の自分への褒め言葉が彼女に自信を与えていた。
『それはおまえさんに荘本家屋敷に長く居て欲しいから厳しく教え込もうとしているだけだ』
『萬姜、いまのは允さんの褒め言葉だぞ』
『萬姜が体を張ってお嬢ちゃんを守る未来の姿が、わしには見える』
萬姜の視線に珍しく家令が目を逸らした。それでも不満は残るのか、彼は「ふん」と鼻を鳴した。
允陶と萬姜がほんの一瞬散らした火花だったが、その様子にすべてを察した舜庭生が再び「ふぉ、ふぉ、ふぉ」と笑い、そして、ふと思い出したというふうに言う。
「允さん、花見の宴のお嬢ちゃんの着物のことで、彩楽堂さんには泣きつかれましたかな」
驚くとか動揺するとかいう表情をどこかに捨ててしまっているはずの允陶の声が大きくなった。
「なんと、そのような話まで、ご老人の耳には入っておりましたか」
「驚くことのほどでもない。
冬が去れば、荘本家恒例の花見の宴。李香さんの治らぬ病。そして姿を消している関さまの懐刀である魁堂鉄。
この三つを足して考えれば、荘家本宅の園剋の焦りが目に見えるようじゃ。
しかしながら園剋という男は悪知恵は働いても、荘本家を乗っ取れるほどの気概は持ち合わせていない。せいぜい今できることは、お嬢ちゃんの着物にかこつけて、荘さんに揺さぶりをかけることくらいであろう」
「そのことであれば、さきほど、この萬姜が胸を……。萬姜が大きな胸を叩いて請け合いました」
「おお、それであれば、彩楽堂さんも大船に乗ったようなものじゃな。今夜から枕を高くして眠れることであろう。萬姜、頼むぞ」
そして外の気配に耳をすましたのち、彼は言葉を続けた。
「犬たちが静かになった。お嬢ちゃんに遊んでもらって満足したようだ。さて、今度はわしと遊んでもらおうか」
※ ※ ※
その夜もまた、萬姜は眠れずにいた。
慶央の街の散策を終えて帰ってくると、すでに彩楽堂からは糸や針とともに、魁堂鉄の着物のお直しに使える丈夫そうなハギレが届いていた。それだけではない、魁堂鉄の大きな体に合わせて仕立てても十分にあまりある新しい布まであった。
痛んだ着物をどのように直そうかと考え、そしてよい布地で新しい着物まで縫える喜びに、一晩の眠りなど惜しくはないとさえ思う。
そして花見の宴の喜蝶さまの着物のこと。さぞや、彩楽堂が腕によりをかけた素晴らしい着物となることだろう。お嬢さまが着てくださるかどうか心配ではあるが、彼女には梨佳と嬉児という強い味方がいる。
「萬姜、萬姜……」
名を呼ぶ声が部屋の外より聞こえてきた。以前に一度聞いた、深みのある若い男の声だ。
頭まで被っていた布団から、萬姜は顔を出す。中庭に面した戸の隙間から、昼間を思わせるほどに明るい銀色の光が漏れ射している。それもまた以前に見た光景だ。
……あらま、眠れない、眠れないと思いながら、あたしって寝落ちしてしまって、またあの夜と同じ夢を見ている……
「萬姜、萬姜……」
再び呼ぶ声に誘われて、布団から出た彼女は戸を開けて中庭に立った。昼のあいだ慶央に舞った雪は解け切らず、中庭はうっすらとした銀世界。そして池の向こうに銀狼がいた。雪の白と銀狼の体より発光する光で前にも増して神々しい。
「あの夜は慌ただしかったゆえに、今夜、あらためて出直してきた」
「銀狼さま、弟さまの青龍さまは?」
「神のおれに逢った挨拶が、それか? まあ、よい。おまえにとってはすべて夢の中での出来事であるからな。あれは……、弟は……、皇太子は……、今日は父上直々の帝王学の勉強で忙しい」
「さようでございますか。お目にかかれず残念でございますと、弟さまにはお伝えくださいませ」
「ああ、そうしよう」
尖った歯が覗く口をゆがませて、銀狼は苦笑した。
「おまえにはすべて夢の世界か。それであるならば、×××が下界に追放されることとなったおれたち兄弟の罪について、おまえに話そう。その罪の重さに耐えかねて、誰かに聞いてもらいたいときがある。いまのおまえは最適だ」
そして人の姿になった銀狼はおもむろに片手を上げた。
萬姜の足元にふわふわとした毛並みも暖かそうな敷物が出現する。横には手あぶりの火鉢まである。
「まあ、座れ。話は長くなる。しかし、朝目覚めたおまえは何も覚えていない。ただ、×××を、いやここでの名は喜蝶か。喜蝶の日々のつつがない幸せを願う気持ちだけが心に残るだろう」
その言葉通り、朝になって目覚めた萬姜は銀狼の語った話を覚えていなかった。ただ、喋ることもできず記憶も長く保てない哀れな少女の幸せを願う気持ちだけが、胸の中で大きく膨らんでいた。
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