第40話 舜老人が語る怪奇な昔話
「おまえの心はここにあらずだな。萬姜」
ことさら大きな音を立てて茶器を萬姜の前に置いた允陶が言う。
ちんちんと煮たぎる鉄釜の松風のように、男二人の会話を聞き流していた萬姜は我に返った。
「も、申し訳ありません」
彼女はふくよかな体を縮こまらせて謝ったが、家令は容赦ない。
「せっかくのご高説であるのに、うわの空とは。舜ご老人に失礼であろう」
「いやいや、そのようなことはわしは気にしていないぞ」
口に含んでいた茶をごくりと飲みこんだ老人が萬姜の肩を持つ。
「萬姜、この男の下で働くのは大変だろうが、それはおまえさんに荘本家屋敷に長く居て欲しいから厳しく教え込もうとしているだけだ」
「は、はい。重々に承知いたしております」
「ふん、利いたふうなことを言いおって。喜蝶さまが気に入っていなければ、おまえのような田舎者を荘本家の奥座敷勤めになどするものか」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。萬姜、いまのは允さんの褒め言葉だぞ。
それにしても美味い茶だ。ますます寿命が延びたような気がする。」
「それはよいことにございます。もう一杯、淹れましょう」
「そうしてもらおうか」
そして、突然、舜老人が話題を変えた。
「允さん、見つけましたぞ。歳をとらぬ白い髪の少女が、中華大陸をさまよっている……。何かの書物で読んだはずと思い、先日より、蔵の中で探していたのだが。やっと見つけましたぞ」
釜より湯を掬う允陶の手が止まった。
「ご老人、よろしいのですか? 萬姜が聞いております」
「ふぉ、ふぉ、ふぉ。よいのじゃ、よいのじゃ。わしと允さんの話を萬姜がどこまで理解できるか。それもまた、天の采配というものであろう」
「ご老人がそうおっしゃられるのであれば、わたしになんの異存もございません」
再び允陶の手が動き始め、そして舜庭生は語り始めた。
「書物といっても、それは庶民が楽しむ怪奇な伝承話を集めた草紙であるが。書かれてより数十年は、いやもしかすると百年は経っているかもしれんな。草紙は綴じ紐もほどけ墨もかすれあちこちが紙魚に食われていて、骨董品としてはなんの価値もない。
それにな、それをどのようにして手にいれたのか、そして後生大事に蔵の中に仕舞い込んでいたのか。まったくもってわしは憶えていないのじゃ。それでいて、幾つも書かれている怪奇話のなかで、齢をとらない髪の白いおなごの話だけは、はっきりと記憶にとどめていたとは。
寄る年波で放浪生活を諦め慶央に居を構えたときに、荘本家の荘興さんが齢をとらず笛の名手で髪が白い少女を探しているという噂を伝え聞いた。それで草紙に書かれていたことが、ずっと頭の中にあったのかも知れんな」
「その草紙に書かれていた伝承話とはどのようなものでありますか?」
「百歳を迎えておのれの死期を悟った老僧が、若い頃に経験した話を、身の回りの世話をする小坊主に聞かせたというものだ。
その老僧は若い頃に修行の旅に出て、中華大陸をさまよっていた。そして不運なことに盗賊に襲われ切りつけられた怪我がもとで死にかけた。そのときたまたま通りかかった少女の治療を受けて一命をとりとめた。
だがな、その少女というのが喋ることも出来ず記憶も長く保てず、奇異なことに髪の毛が真っ白であったそうな。そしてどうやら連れとはぐれたらしく、一人旅のようでもあった。それで怪我の治った僧はその少女を連れて、二人で再び中華大陸をさまよう旅にでた。その旅はなんと十年も続いたそうだ。
少女は喋れず記憶も長く保つことができず髪の色も真っ白であったが、言葉では表しがたいほどに美しかったそうだ。それで男は僧といえども若い。『大人の女となれば、この少女を妻としたい』と、還俗まで願うようになったのも当然のことであろう。
しかし二人の旅は十年も続いたというのに、少女は一向に大人になる気配がない。
そのうちに僧は、少女は人の領域を超えた存在であろうと思うようになり、妻にしたいと願うことは御仏の教えに背くと考えるようになった。それで、一夜の宿を請うた家のものが信頼がおけるとみて、少女を預けまた一人旅の修行に戻ったとか」
「なるほど、いかにも怪奇な話を集めた草紙に書かれていそうな話でございますな」
「話はまだ続く。
その老僧は小僧に思い出話を語って聞かせたあと、『あのお方はいまも中華大陸のどこかをさまよっておられるのだろうか。何か大切なものを探しておられる様子にも見受けられたのだが、それは見つかったのだろうか』と呟き、持っていた箸をぽろりと落とした。そして、そのまま苦しむこともなく、あの世へと旅立ったそうだ」
「なんと、それはまた……」
「老僧より髪の白い少女の話を聞いた小坊主は、自分もまたその少女を一目でも見たいという欲望にかられて寺を抜け出すと、中華大陸をさまよう旅に出たということじゃ。しかし話はそこで終わり、その後、その小坊主がどうなったかは書かれてはいない」
二杯目の茶を満たした茶器を老人の前に差し出しながら、允陶が相槌を打ちつつ言う。
「宗主もまた若い頃に慶央を飛び出して中華大陸を放浪し、そのときにその不思議な少女の噂を聞いたと伺ったことあります。
客桟・渡し場・妓楼に手下を忍び込ませ目を光らせるいまの仕事を宗主が始めたのは、その少女を探すためだとの噂がたったことも。巷では『宗主は気が触れられた』とか『宗主の道楽』とまで言われものです。
しかしながら、喜蝶さまが現れる三十年の間、そのような少女の姿の片鱗もなく。それでいて荘本家は栄え権勢を誇ることとなりました。
その草紙に書かれていることと喜蝶さまは同じ人物だと、ご老人はお考えか? それともただの偶然だと?」
舜庭生はゆっくりと二杯目の茶を味わうと、允陶の問いに「ふぉ、ふぉ、ふぉ」と笑った。
「世の中には、偶然に見せかけた必然、必然に見せかけた偶然などは掃いて捨てるほどある。なにが偶然でなにが必然かは、人智の及ばぬことよ」
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