第一幕 四天王寺樒口寄⑦



 夕方ごろ、描きためた素描をあれこれ眺めて、新しい油絵をどんな構図にしようか悩んでいるうち、頭がふらついてきた。熱を測ってみると、三十八度近い。

「せやから言うたやないでっか、この寒い中歩き回りはったら風邪ひきまっせって」

 女中にたしなめられて早めに床に入り、浅い眠りと目覚めを繰り返しているうちに日が暮れた。何回目かに目覚めたときにはすでに真夜中を過ぎていたらしく、女中の立ち働く音も聞こえてこない。今ごろは二階の寝室でもう休んでいるのだろう。

 額に手を当てると測ったときより熱が上がっているようで、起き上がろうにも身体が重い。とはいえ、しばらく眠っていたから寝付けもしない。寝返りを打ち、左肩を下にする。

 暗闇に目が慣れ、床の間の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきたとき、客間か、その向こうの廊下のほうから物音がかすかに聞こえてきた。

 やはりまだ女中が起きて仕事をしているのだろうか。私の世話のせいで手間を取ったとしても、どうも時間が遅すぎるように思えるが──。

 とん、と床に手をつくような音がした。

 中庭に面した廊下の床だ、と直感した。倭子が生きていたとき、たまに転んで廊下に手をついていた。片足が悪いのに、つえを使うほどではないと言い張っていたからだ。壁があるところならともかく、中庭に転げ落ちたら危ないと忠告しても聞かなかった、その倭子の足音が。

 ゆっくりと、近づいてきている。板張りの床を踏む音がする。左足はそっと、右足は体重がかかって大きく、ふすまを開ける音がし、さらにもう一歩。


   おいて……ろ……こちゃ……うたん……


 歌が聞こえてきた。

 歌、だろうか。音程は曖昧で、聞こえたかと思うと消え、また耳に入る。声は倭子のもののようであり、しかしどこか違う。倭子の声より高いときも、かすれて低いときもある。


   おいてまわろ……こちゃは押さ……なりゃこそ櫓は押し……る……


 起き上がってもいないのに、目が回るようだった。身体が動かない。床の間を見ている瞼すら、閉じることができない。

 足音が客間の畳を踏む。歌声が近づいてくる。

 私がいる寝室の襖の、すぐ向こう側にいる。


   八おいて廻ろ こちゃ鉢割らん ……こそ鉢割りまする……


 八。この歌は知らないが、それまでの歌詞が一から七までを歌っていたことは推し測れた。

 歌いながら、ずっとこの家を歩いてきたのだ。

 じゆっぱそろえて。かすかな歌声とともに、寝室の襖が開いたのが分かった。


   十っぱそろえて ……なははや なははや…… なはよいよい……


 節の調子は、あの歌と雰囲気が似ていた。子どもの歌うような。巫女が倭子らしきものを降ろしたとき、歌った曲と。

 声の主は、私の背の、すぐ後ろに座った。

 冷や汗が額を伝うが、拭うこともできない。これは何なのか。倭子なのか、まったく別の何かなのか。

 背後で畳をさする音、身動きをするきぬれがした。それが座っているのはちょうど、いつも倭子が寝ていた辺りだった。

 ──布団を探している。

 ふいにそんな考えが浮かんだ。暗闇の中、寝床を求めている。倭子の使っていた布団が、今はもう敷かれていないからだ。

 私の頭の上に気配がした。

 覗き込まれている。目を少し動かせば、誰が、何が私を見つめているのか、すぐに分かるだろう。

 倭子の顔よりも、人間でない何物か、目鼻のゆがんだ異形の顔ばかりが頭に浮かんだ。見てしまえば声を立てずにはいられない、正気すら保っていられないかもしれない何かの。

 やがて気配が頭の上を去り、また衣擦れの音が聞こえてきた。足をかばっているのか、ゆっくりと、姿勢を変えている。やがて音は止んだが、背後の気配は消えない。

 すぐ後ろに寝ている。

 指一本でも動かせば、布団とれる音が聞こえるだろう。まばたきをすれば、この凍り付いた場を破るほどの音がするだろう。荒くなりそうな呼吸を胸にとどめる。また気配が頭上に覆いかぶさるのではないか。背後のものが今にも、私を組み伏せるのではないか。いつこの場を去ってくれるのか。一秒後か。夜明けごろか。

 布団の間に何かが滑りこみ、私の背中へとい進んできた。びくりとする間もなく、背中に掌と、五本の指が触れる。ひどく冷たかった。死んだあとの、倭子の身体に似た冷たさだった。

そういちろうさん」

 かすかな声がした。

 紛れもなく、倭子の声だった。

 喉に息が詰まった。ただ一度だけ、倭子がこうして背中に手を当て、名前を呼んだことがあった。仕事で描いた挿絵を見せはじめて三か月目、それまでうなずいていただけの倭子が、初めて嬉しそうに笑った日の夜だった。

 よく覚えている。今置かれている手の位置も、名前を呼ぶ調子も、そのときとちょうど同じだった。

 唇だけ動かして、倭子、と呼びかけた。手がすぅと、布団の間を滑り、襟首から頭へと動いていく。

「壮一郎さん」

 倭子がもう一度言った。さっきよりも少し低く、柔らかに。

 手がそっと頭を撫でた。幼いころ、母がたまに、こうして撫でてくれたのをふいに思い出した。耳にわずかに触れた手はやはり冷たかったが、もしかしたら私が熱を出しているからかもしれない。倭子は手の温かい女だったが、もし生前に私が熱を出して、触れてくれていたら、このくらいの冷たさに感じていたかもしれない。

 今度こそ、倭子、と口に出そうとしたとき。

「そ──そ、そう、い、いいいいちろ、さ」

 声が歪み、かすれて、ねじれ、ぷつりと途切れた。

 思わず身を起こし、何を目にするのかなどと考える前に、部屋じゅうを見渡した。誰もいない。暗い寝室が、うっすらと視界に浮かび上がるばかりだ。だが何者かがいるという感覚だけが、まだ残っている。

「ううう、うしろ、う、う、う、うしろ」

 歪んだ声が寝室に響く。背中が何かにぶつかる。無意識のうちに後ずさって、障子戸に突き当たったらしい。

「うしろに──」

 声が再び途切れ、それきり何も聞こえなくなった。気配すら感じられない。移動した様子もなく、ただすっと消えてしまった。

 たっぷり一分も経って、ようやく、全身が冷や汗でれていることに気付いた。ゆっくり息をつくが、まだ心臓の鼓動は速いままだ。

 うしろに。

 最後の言葉を思い出して、恐る恐る振り向くが、ただ閉められた障子が見えるばかりだった。あれが脅しか警告かも分からない。自分が今体験したことが、熱のせいで見た悪夢だとも思いたかったが、きしむ身体と、背中に張り付いた寝巻の感触は現実そのものだった。

 恐怖と動揺が収まりかけると同時に、自分の名を呼ぶ倭子の声が胸によみがえってきた。

 倭子が死んで以来、二度と聞けないと思っていた。背中に置かれたあの小さい、柔らかい手も、二度と触れることはないと思っていた。巫女が降ろしたときも倭子のそれだと思っていたが、比べものにならない。

 何を犠牲にしても、聞きたいと思っていた声と、触れたいと思っていた手が、ついさっきまでここに響き、私の背に触れた。

 それなのに、あれは消えてしまった。

 静まりかける鼓動と反比例して、ある直感と、同時に胸が潰れるほどの懐かしさが湧いてきた。

 この家に、倭子がいる。

 わずか一年ばかりの生活の末に亡くして、二度と会えないと思っていたものが。

 寝巻の腿にぽたりとしずくが垂れて初めて、自分が泣いていることに気付いた。



※つづきは書籍でお楽しみください。

https://www.kadokawa.co.jp/product/322306001322/

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をんごく 北沢 陶/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

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