第一幕 四天王寺樒口寄⑥




 巫女が訪ねてきてからしばらく、二月に入っても、彼女の警告が現実のものとなることはなかった。「何か」が来ることはおろか、簪の一件以来これといって妙な出来事はない。

 こけおどしだったのだ──と自分を安心させてはいたが、しかし一回会っただけの人間をわざわざ訪ね、注意など残していくだろうか、という疑問も消えずに残っていた。

 考え込んで気分が晴れないときは、私は学生時代からの習慣を利用することにしていた。画材を持ってあちこちを歩き回り、気に入った場所があれば、何時間でも写生をする。目の前の風景を観察し、構図を考え、手を動かしてさえいれば、あとのことは何も考えずにすんだ。

 挿絵や広告の仕事はこなしていたが、ゆくゆくは油絵を描きためて心斎橋辺りで展覧会を開きたいと考えていたことも、写生に出かけていた理由のひとつだった。もとは油絵を学んでいたから、それなりの野心はまだ残っていたといえる。

 風のないよく晴れた日、なかしまに向かって家を出た。近場で、絵になりそうなのに手をつけていないのを思い出したからだ。地震後東京から帰ってきたとき、市電で中之島を通り過ぎたはずだが、そのときは疲れと行く先の心配から外を眺める余裕もなかった。

 平野町通から道幅の広いさかいすじに出て北へと歩き、を模した石像がたもとに据えられている難波なにわばしを渡ると、どうじまがわと土佐堀川に挟まれた中之島にたどり着く。私が東京に発ったときにはまだ落成していなかった中央公会堂のあかれんが冷たい空気の中でえ、遠い外国にでも来たような気がした。

 背の高い西洋建築が増え、私の幼いころから中之島もずいぶん変わったはずだが、こうして改めて来てみると、昔はここがどういう風景だったのかほとんど思い出せなかった。

 どうせなら重厚な建物を扱おうかと考えたが、その前にもう少し軽いものを描いてみようと思い直し、公会堂に背を向けて歩いていく。小さな橋を渡るとすぐ、なかの東端にある公園に出た。裸木に囲まれて噴水があり、まだ寒いせいか二、三のひとがしようようしている他には誰もいない。ここなら良かろうとチョークを取り出し、冷たい手に息を吐きかけた。

 公会堂や大阪市庁舎を背景にした噴水が形を成してきたとき、ふいに紙の上に薄い影が差した。がいとうの襟を立てた、見慣れた顔が私の絵を覗き込んでいる。

「この寒いのに……」赤くなりかけている鼻に白い息がかかる。「よくやるね、お前も」

 同窓のかさという男で、東京育ちだが震災で焼け出された身だった。呆れたような口調だが、その脇にはしっかり画材が抱えられている。

「そらお互いさまやな」

「まったく。ここにはよく来るのかい」

 笠木が突っ立ったまま訊いてきた。

「いや。目と鼻の先に住んどるくせに、戻ってきてからは今まで来なんだ」

「僕はよく来るよ。ここいらは絵になるからね。高いところから描いたら、ビルディングやら川やらが見下ろせていいだろうな」

「せやなぁ」

 会話が途切れてすぐチョークを動かす。喋りながらでも描き続けるのが私の常だから、笠木も慣れたもので、ぽつりぽつりと取り留めのないことを話しかけてくる。

 地震後の苦労話から心斎橋の喫茶カスターニアやどうとんぼりのカフェ・パウリスタといった芸術家たちのたまり場の近況、今の画家の批評へと話題が飛び、それが落ち着いたところで、ふと笠木に目をやった。写生を始めるでもなく、画材を取り出そうともしないまま、視線を私に注いでいる。

「どないした」

 手を休めて、水を向けてみた。笠木は切り出すのを迷っているのか、しばらくあちこちに目をやって、

「ここに描きに来る道すがらな、お前の家を訪ねてみた」

「ああなんや、入れ違いになってしもたんか。すまなんだな」

 それは別にいいんだが、と曖昧な返事をしたまま、外套の襟を搔き合わせ、

「古瀬な、前にやまの話、しただろう」

 私と同じ大阪の生まれで、地震で死んだ同窓のことだった。笠木とは特に親しかったが、なぜ今そのことを言いにくそうに話し出すのだろう。

「したなぁ。実家はこう神社の近くやったか……お悔やみ言いに行かなならんな」

「それだけどな、津山、生きてるかもしれん」

 チョークを取り落としそうになった。あの混乱のこと、生死がはっきりしないのもめずらしくはないが、笠木が心斎橋で話したときは確かだと断言していたからだ。彼のほうでもそれを覚えているのだろう、ばつの悪そうな顔をした。

「いや、遺体は確かに見つかってはいないんだけれど。死んだって何人も話してたし、東京の津山の女も泣きわめいてたしさ、僕もそうとばかり思ってたんだが」

「見たひとでもおるんか」

「うん、それが知り合いくらいなら見間違いだと言えるけど、実の母親だから……。声もかけられないうちに人混みにまぎれて見えなくなって、家じゃえらい騒ぎらしいよ」

 それで母親が直々に笠木の下宿にまでやってきて、行方を知らないか、せめて噂だけでも聞いていないか、と泣きついてきたらしい。そう問われても、笠木自身も死んだと思い込んでいた人間のこと、すっかり混乱して私を訪ねてきたという。

「そないなこと言われても、笠木が知らんもんを、私が知るはずないやろう」

 そうだろうな、と笠木は白い息とともに答えた。

「母親の見間違いなら、まだ僕も気が楽なんだが。あるだろう、街で死んだやつと背格好が似てる人間を見て、ひょっとしたら、なんて思ってしまって」

 それは私も覚えがあった。住んでいる町で、心斎橋で、道頓堀で、若い既婚の女を見れば、倭子に似ていると思う。倭子そのひとだと思うこともある。しかしその一瞬あと、必ず、妻は死んだのだという事実が突き刺さってくる。

 笠木は苦々しく眉をひそめた。

「死んだと決まれば、まだあきらめもつくんだがな。生きているかもしれないなんて言われちゃあ……」

 何か答えようとしたが、どう言葉をかければいいのか分からなかった。笠木も津山の母親に対して、同じ気持ちだっただろう。

 風で紙がめくれ、押さえた手が冷たくかじかんできていた。写生もここいらで引き上げ時らしい。画材を片付けながら笠木を家に誘うと、相手は首を横に振った。

「いや、少し描いてみる。落ち着かないときは手を動かすに限るから」

 どの絵描きも同じようなものらしい。苦笑してその場を去り、橋を戻ったところで笠木を振り返る。笠木はもう写生に集中しており、こちらを見ることはなかった。

 平野町にたどり着き、自宅の黒い瓦屋根が見えてくると同時に、笠木の言葉がよみがえってきた。

 ──死んだと決まれば、まだ諦めもつくんだがな。

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