第一幕 四天王寺樒口寄⑤





 家に着いたころ、日は落ちたばかりで、残照が二階の屋根を薄ぼんやりと浮かび上がらせていた。もとあった三階を潰したのは貸家にするからというだけではなく、東京の地震のせいで三階建ての家に不安を覚えたからなのだと聞いていた。逃げのびてきたはずの災害が、故郷にまで影を落としているのかと思うと、どことなく気が沈む。

 倭子のいない今、女中と私とではこの家はよけいに広く思えた。

 かつての店の部分は潰され、土間と玄関部屋、八畳間と中庭が造られていた。中庭に降りられる八畳間は板敷きにし、「アトリエ」などと称して仕事場として使っている。

 中庭を囲む廊下から通じるかつての仏間は、今は客間として使っており、私と倭子はその奥の十二畳間で寝起きしていた。十二畳間が臨むせんざいに春の陽が差すのを倭子は生きるよすがとしていたが、ついにかなわずに逝ってしまった。

 昔は特別な客を通していた東側の内玄関はほぼ使っておらず、吹き抜けの炊事場は女中の領分だから私はめったに足を踏み入れない。もともと家族や奉公人が使っていた二階は、今や女中の寝室のほか部屋のほとんどが空いたままだ。三階に通じていた階段も、残されてはいるものの、上がりきったところの板戸は閉め切られている。

 この家に家族と何人もの女中、番頭、丁稚たちが寝起きし、商売をし、生活をしていたかつての賑わいを覚えているだけに、家に帰るたびにくつろぎというよりも寂しさがまさった。

 私は奥の寝室にはほとんど寝に行くだけで、家にいるだいたいの時間はアトリエで過ごしている。その日も帰ってアトリエに落ち着くと、女中が呼びもしないのに茶を運んできた。その手つきがいつもと違ってのろくさとしているので、

なんや言いたいことがあるんやろう」と水を向けてみた。

 訊かれるのを待っていたと悟られないようにしているが、それでも少し逸った口調で、女中が切り出した。

ぃさんのとこな、行てきはったんでしょう」

 いわれは分からないが、女中は巫女町で霊を降ろす女たちのことを「巳ぃさん」と言い習わす。

「うん、行てきた」

「どないでした」

 問われてぎくりとした。巫女など半信半疑だと思って出かけたのだが、倭子が実際に降ろされて、言葉を交わしたというのならまだしも……。頭の中に倭子──倭子らしきものの歌と、巫女の警告がよみがえった。

 死んでいないかもしれない。

「どないもなんも、あれ騙りやないか」

 一瞬迷った末に、わざと突っぱねるように返した。

「降ろす降ろすいうて、似ても似つかん様子で喋るさかい、あきれて帰ってきてしもた」

 女中は落胆と申し訳なさが混じった声を出した。

「でも、わてのお祖父じいさんを降ろしはったひとは、どこそこに金を隠してある言うて、探してみたらほんまにあったんです」

「金の隠し場所なんて当てずっぽでも分かるもんやろう。まぁそれもだいぶ前のことやろうし、その巫女はほんまもんやったかも知らんけど、今日のはなぁ」

 そうでっか、と答える女中の顔が沈んでいるのに気がとがめたが、事実を告げたところでどうにもならない。女中が引いたあと、布に包んで置いてある、東京から持ち帰ってきた切り抜きを取り出した。倭子が私の知らない間に集めていた、私の描いた挿絵。

 机の上には描きかけの、というよりも描きあげられなかった素描が何枚か散らばっていた。どれも倭子の顔を思い出して描こうとし、ついにできなかったものだ。顔にはぼんやりとした影だけついていて、まぶたの線も、唇も形にできていない。

 写真は東京から持ち帰っている。しかし見るのが怖かった。見てしまえば、自分の描く倭子は、写真をただ写し取っただけのものになる。私の覚えている倭子にはならない。水をこぼしてしょげ返る、浴衣ゆかたが縫い上がったと言って嬉しがる、そんな倭子には決してならない。

 生きているうちに、倭子を描けばよかったと今さらながらに悔いた。描いてやると結婚したときから言っておきながら、ついに絵にしないで死なせてしまった。

 立ち上がり、奥の寝室に向かう。倭子のことを思い出したときは、抑えつけるよりもいっそ気が落ち着くまでしのんだほうが楽だ。

 知らないひとがこの十二畳間を見ればまるで妻も生きているかのように思えただろうが、倭子のものはどうしても片付けられなかった。部屋の隅に三面鏡台があり、引き出しの中にはまだくしや簪、化粧たぐいがしまわれている。針仕事の道具もそのままにある。仕立てかけたはんてんすら、女中に続きを任せずしまっている。夜中にふと起きて眠れないときなど、まだ布団がもう一組敷かれているような気さえした。

 もう暗い縁側に向かって座りかけたところで、何か覚えのある匂いが鼻をかすめた。すぐに消えてしまったが、白粉おしろいの匂いのようだった。

 あの女中だろうか、しかし化粧っ気のない女だし、まさか倭子の化粧道具をいじりはしないだろうと考えたところで、鏡台にてらりと光るものが置かれているのが目に入った。

 梅をあしらった、しろべつこうの簪だった。見てすぐに、婚礼の日に身に着けていたものだと思い出した。他はセルロイドや硝子のものが多かったし、白鼈甲は他にないはずだ。

 女中が勝手に持ちだしたに違いない、といよいよ呼びつけようとして、声を喉で止めた。この簪は他のとは一緒にしまっていない。手入れも倭子自身がやって、誰にも置き場所を教えようとしなかった。

 大事なもんやさかい。

 一度だけ倭子がそう言ったことがある。忙しい仕事の合間に、あの女中がわざわざ探し出してくるものだろうか。考えてみれば、若い女の挿すような簪に興味を持つのも妙な話だ。念のため、三面鏡台の引き出しや扉の中をすべてあらためてみたが、なくなったと言い切れるものはない。

 食事を運んできたときに、それとなく簪のことを話題に出してみたが、女中は首をひねって、

「はあ、わてはお式のときは目の回るようでして。そないな簪やとは知りませなんだ」

 と答えた。

 もう一歩踏み込んで、鏡台に簪があったことをただしても知らないという。普段から噓がつけない点で信じてはいたし、やましい様子など少しもうかがえない。

「もしかしたら」女中は立ち上がりがてら、「りよさんがご自分で出してきはったんかもしれませんわ」

 娘を偲ぶような懐かしさから出た言葉だと分かってはいたが、はしを持ちかけた指が固まった。寝室で白粉の匂いがしたことを思い出す。

 やはり倭子の匂いではなかっただろうか。

 どこかにまだ残り香があるような気がして、ようやく箸をつけても、床に就いたあとでも、まだ気持ちが落ち着かなかった。


 家のことは気にかかったが、用事があれば空けないわけにはいかない。巫女に会ってから二日後、心斎橋で同業が集まるというので、ひとつは顔を売ることから出かけていった。

 東京で仕事をしてきたから輪に入りにくいかと帰阪当初は気を揉んでいたが、私と同じく地震から逃げてきた者もあって、思ったよりすんなりと受け入れられた。その日も美術学校時代の同窓を偶然見つけ、他の同窓の話も出たが、

「あいつは地震で死んだよ。簡易食堂の屋根に潰されて」

 などと聞くと、胸の辺りが重くなった。

 集まりから帰ると、玄関の三和土たたきに女の履物があるのが目に入った。若い女のものではないし、私の姉か倭子の母親だろうか、と考えていると、女中が待ちかねていたように小走りに来てささやいてくる。

「けったいなおしとですわ。わて見たこともごあへん。お名前お訊きしても答えまへんし」

 私が眉をひそめるのと同時に、玄関部屋に、流行はやらないせんざいちやもんちりめんを着た女が顔を出した。昼日中の明かりで一瞬誰か分からなかったが、よく見ると巫女町の女だった。

 なぜ来たのか、どうしてここが分かったのか。うろたえながらも客間で改めて座し、挨拶もそこそこに質す前に、

「平野町でな、絵ぇ描いてはる古瀬さんいうたら一軒しかおまへん言われましたさかい」

 あっさりと巫女が先回りして答える。こうして明るい中で対面してみると、狐の顔によく似ていた。

 私のろうばいしているのがおかしいのか、巫女が小さく吹き出した。

「なんや、わてみたいなんは、明るいとこ出てけぇへん思てはったんでっか」

「そないなわけやないでっけど……なんのご用で」

 問われて巫女がすっと背を伸ばすと、急にその辺りだけ、薄暗くなったように感じた。もはや笑ってはいない。一昨日と同じ、強い目つきをしている。

「奥さんのことで、少し」と巫女は言った。

 私は耳をそばだてて、女中が近くにいやしないか探った。まさか立ち聞きなどしないだろうが、やはり気配はない。

「奥さんな、わても気がかりやったさかい、いろいろ訊いてみましたんや」

 誰に訊いたのか、何を訊いたのか。質問したところではぐらかされそうな気がした。

「呼びにくい理由はいくつか考えられんこともなかったんでっけど。奥さん、急に行んでもうたんとちやいますやろか。こう、事故かなんかで」

 見当違いなことになぜだかほっとして、怪我が元ではあるが死ぬまでには間があったと答えた。巫女は、ふん、とあいまいな返事をしてしばらく考え、

「葬送な、きちんとしはりましたか」と重ねて問うた。

 お前は妻をろくに弔いもしない人間か、ということなのか。思わず頭に血が上りかけた。誰が妻の葬式をおざなりにするものか。誰がそんな扱いをしておいて、口寄せのため巫女のところへ行くものか。口を開きかけたところで、「せやのうて」と押しとどめられた。

「やるべきこと、としはったか、て訊いとるんです。逆さ着物とかな、きよう帷子かたびらやらぶくろやら、家から出すときのひつぎの向きやら。おうちによって違いますさかい、こうしなはれとはよう言わんのでっけど」

 巫女の問いの真意はまるで分からなかったが、弔いの手順を正しく行なったか、と訊かれていることだけは分かる。

「お心遣いしてもろて、おおけにはばかりさん。せやけど、妻の葬儀はみな家の通りにしてやりましたよって……」

 怒りを表に出さないようにはしたが、自分の声が低くなっているのが分かった。母と父が死んだ際、帰阪したときにはすでに準備が進んでいたから、葬儀の勝手を私自身心得ているわけではなかったが、義兄がこまごまと教えてくれたことにはたがえず従った。これ以上なく気を遣った、やり残したことがあるはずがない。

 巫女はすぐに返事をしなかった。家の奥、あの十二畳間がある方向へちらりと目をやり、

「せやったら、どうしてるもんか」

 とつぶやいた。

 本来なら、ここで一昨日の簪の件を話して、多少なりとも向こうの見解を聞くべきだったのかもしれない。だが、弔いに関してまでくちばしを挟まれ、死人の扱いを疑われて、素直に話す気にはなれなかった。

「ご心配おかけしてえろうすんまへんけども、うちのことは私がみな預かっとりますさかい」

 これ以上関わるな。最後まで言わずにおいたが、相手の細い目がぴくりと動いた。

 数秒の沈黙のあと、巫女がひとつ息をついた。

「そない言うてくれはるのやったら、わても安心できます」

 とても安心しているとはいえない口調だったが、巫女はすでに立ち上がっていた。このまま話してもらちが明かないと思ったらしい。

 廊下に出る前に、首だけ傾けるように振り返って、せやけどひとつだけ、と言った。

「何が来ても知りまへんさかいな」

 そのまま見送りも待たず、巫女は往来へ出ていった。

 単なる脅しだ、と思いたかったが、少し遅れて外に出、巫女の後ろ姿が雑踏に消えるのを見届けたあとでも、不安がぬぐいきれなかった。

 あの巫女には確かに感じ取れている。倭子か、倭子のようなものが、この家にいる。

 それに対してどういう感情を持つべきかすら、そのときの私には分かっていなかった。

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