第一幕 四天王寺樒口寄④


 巫女の単調な詠唱に誘われて半ば閉じていた目を開け、今自分がどこにいたのかをようやく思い出した。視線を上げると、巫女がいつの間にかこちらに向かい、ほの暗い中から、うつむいて右手を差し伸べている。

 ──軽く握っとくなはれ。奥さんが来はりますさかい。

 差し出された手を、すぐに握ることができなかった。巫女がかたっているだけなのではないか、これから倭子のふりをした他人と話すはめになるのではないか。

 たもとを上げかけたまま止まった私を促すように、白い手がわずかに動いた。覚悟の決まらないまま、そっと握ると、かさかさとしているように見えた掌は思いのほかしっとりとしており、倭子の手を思い起こさせた。

 倭子が生きていた時分にときおりそうしたように、指先だけ動かして掌を撫で、それから少し力を込めて握ると、相手も応じるように握り返してきた。その、指の肉だけでしてくるような、遠慮がちな握り方には確かに覚えがあった。

 倭子、と呼びかけて、じっと返事を待った。もしほんとうの倭子なら、私の名前を言う口ぶりで分かるだろうと思った。きっと名前を呼ぶだろう、あの柔らかい中にしんの通った声を出すだろう。手を握っているうち、そうとばかり考えられてきて、相手の口許をじっと見つめた。

 唇が動き、高い音が喉の奥から漏れ出て、やがてかすかに聞き取れるほどの言葉となった。確かに倭子の声だった。あの短い東京での生活の間に、何度も聞いた倭子の声音だった。

 だが、何を言ったか──言った、のではなかった。

 私の名前を呼ぶのではなく、こちらに語りかけてくるのでもなく、私の耳に懐かしさを感じさせながら、


   なにがやさしや

   蛍がやさし


 倭子──倭子のようなものは歌った。

 何の曲かは分からない。倭子がこれを歌っていたところなど、まったく覚えがない。それだけならまだしも、普通の歌い方ではなかった。遠いところから聞こえてくるかのようで、音程すらはっきりとは摑めない。それらしい節回しを歌っていたかと思えば、急にふつりと途切れ、また何事もなかったかのように歌いはじめる。


   草のかげで


 握っているのは倭子の手であり、聞こえてくるのは倭子の声だ。だというのに、これは妻ではない、この女は違う、と頭の中で何かが訴えかける。目の前にいるのは倭子ではない。巫女ですらない。


   火をともす──


 激しい勢いで手を振りほどかれ、前のめりに倒れかけた。空をかすった右手が床につき、ざらついた埃が掌に触れた。

 わけの分からぬままに自分の爪に注いでいた視線を上げると、巫女が先ほどまで差し出していた指をもう一方の手で摑み、身をよじってこちらをにらんでいた。怒りというより、戸惑い、混乱し、恐れる目つきだった。

「今……」

 巫女がもとの、低い声で問いかけた。

「わて、なんぞ言いましたか」

 やはり霊を降ろしている間は、自分の意識はないものらしい。私は努めて気を落ち着かせ、

「喋った、いうわけやないでっけど」

 そこまで言ったが、何と答えていいのか迷った。

うとうとりました」

「それ、奥さんの知ってはる歌でっか」

「妻がどうかは分からしませんけど、私は一度も聞いたことはごあへん。子どもの歌うような歌……もとの家が近所ですよって、私が知っとってもおかしないはずでっけど」

 巫女はひとつ息をつき、居住まいを正した。それでも肩の辺りはまだこわばっている。

「これはなぁ……」

 そのあとも何かつぶやいたようだったが、内容までは聞こえなかった。握られていた手に視線を落とし、黙りこくったままでいる。

「覚えてはらへんでしょうけど、妻の声でした」

 沈黙に耐えかねて、私から切り出した。

「なんぞ、いつもとちごたんでっか。その、いつも降ろしてはるのと」

 巫女はすぐには答えなかったが、やがて細いあごをこころもち引いて、私を正面から見据えた。

「奥さんな、ほんまに行んでもうたんでっか」

 何を訊かれているのか、一瞬分からなかった。死んだのか、妻がほんとうに死んだのかと、この巫女は訊いているのか。

「きちんと死に水与えて、弔いました。死に顔もよう覚えとります」

 答えているうちに、侮辱を受けたという実感が湧いてきた。

「今しがた降ろしといて、何言うてはるんでっか」

 私の声が部屋に響いて、薄暗い天井から跳ね返ってきた。巫女の顔は白いまま、目つきばかりが鋭くなっていく。

「古瀬さんな、わてが何言うとるか、よう分からへんかもしれへんけど。奥さんの霊、んですわ。いつもなら、すぅっと降りて来るもんが、なんやもやでもかかっとるみたいにぼんやりして、うまいこと入ってけぇへん」

 巫女でもない私には、その感覚が摑めなかった。ましてや、なぜそうなったのかなど見当もつかない。聞かれてはまずい相手がいるかのように、巫女は膝を少し私のほうへ寄せた。

「気をつけなはれな」

 はったりで脅しているのではないことが、巫女自身の声もわずかに震えていることから分かった。

「奥さんな、行んではらへんかもしれへん。なんや普通の霊とちごてはる。呼びにくい、いうのは、そういうことやさかい」

 気をつけなはれな、と巫女は薄闇の中で繰り返した。

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