最後の白紙

空烏 有架(カラクロアリカ)

Dona nobis pacem

 運命という観念はいささか狂気じみている。



「あー俺の番ね、はいはーい。いつ出るの? 今すぐ?」

「気味が悪いほど物分りがいいな。……出ろ」

「よっと。いやさぁ、俺このために生かされてるんじゃん? 他の用件だったらむしろ驚き」


 その男は、真っ白な毛髪に覆われた頭をふるりと揺らして笑った。


 この世は神の慈愛に満ちている。しかし稀に、その恩恵を受けない例外も存在する。

 御詞みことばがその身に刻まれない呪われ人、白紙タブラ・ラサ

 彼らは人びとが当たり前に使える魔法の一切に感応できず、ゆえに嫌悪と迫害の対象となってきた。生まれながらに神を拒んだ怪物と見做されたからだ。


 百数十年前に転機があった。大陸の中心部に生じた巨大な穴――そこから湧き出した猛毒の瘴気によって、突如世界は滅びに向かい始めたのだ。

 この未曾有の大災害にはどんな浄化魔法も障壁も効果がなく、数え切れない人の命が失われた。

 暗黒時代の到来だった。


 それでも研究のすえに、白紙の肉体が瘴気を吸収することが判明した。

 つまりは元より嫌われ者だった彼らが人身御供という形で脚光を浴びたのだ。つくづくこの世を創りたもうた神とは残酷な御方だと思う。

 以来、定期的に白紙が瘴穴に投げ落とされてきたが、彼でとうとう最後の一人。

 それでも出し惜しみはできない。すでに瘴気が滲み出ているとの観測結果を受け、議会は白紙投入の決議を出した。


 この男を犠牲にすればおよそ十年の猶予が生まれる。その間に次の白紙が生まれなければ世界は滅ぶけれど、それは、一人の女騎士にとってはどうでもいいことだった。

 彼女はただ上からの命令に従って動くだけの駒、組織からこぼれ落ちた歯車の一つに過ぎないのだから。


「おねーさんも損な役割だよねぇ」

「え?」

「顔に書いてるよ。気が滅入る、ってさ」


 男の瞳は血の色そのもので、きらきらと輝いていた。


 重い錠前がついた殺風景な部屋を出ると、重苦しい曇り空の下に、魔導制御された無人の機械馬車が停まっている。

 男を座席に押し込み、女騎士もその隣へと乗り込んだ。扉を閉めて施錠すれば、あとは寝ていても目的地まで勝手に連れていってくれる、嫌になるほど便利な乗り物だ。


「俺ね、穴に送られるまでは死んじゃダメだからって、超大事に保護されてたんだよ。あと遺伝するって説があるとかで、毎日違う女の子が送られてくんの」

「……」

「まぁ産めた人、いなかったらしいけど。俺らって身体弱いんだよね~」


 己の運命など意に介していないのか、それとも現実逃避か、男はのんびりした口調でべらべら話し続ける。

 女は無視したが、さほど効いている節はなかった。


「ね、君も挑戦してみる?」

「……何を」

「俺と子作り。――ぁだッ! 冗談だって、んなマジで叩かなくてもいいじゃん、もぉ」

「無駄口を叩くな、……立場を弁えろ」


 それは、自分に聞かせるための言葉でもある。騎士は白紙を穴送りにするための役人、いわば死刑執行人であり、当然ながら白紙との交流は禁じられていた。


 口を利くな。耳を貸すな。相手をするな。

 ――を人間だと思うな。


「おねーさん、生真面目だね。生きにくそう」


 放っとけ。


「なんでこんな仕事してんの。可愛い顔してるのに、そんなゴツい鎧なんか着ちゃって、似合わないよ?」

「……」

「さては選べなかったのか~」

「うるさい」

「図星? なんなら話聞こうか? 絶対他の人にはバラさないし、つかどのみち死ぬから後腐れも――」

「……うるさい! おまえに……白紙なんかに、何がわかる……!」


 ごとり、と馬車が揺れる。地獄へ向かう道は舗装の剥げた悪路である。何しろ十年に一度しか使われないので。

 急に車内が静かになったせいで、車輪の軋む音ばかりがいやに響く。


 あれだけうるさかったのに、男は突然一言も発さなくなった。女はわざと顔を背けていたから表情も伺えない。

 とうとう根負けしてそっと反対側を向くと、息がかかるほど近くに赤い瞳があった。上げそうになった悲鳴をずるりと吸い込み、かすかな呼吸音だけ歯列から漏らして、女は震えながらそれを睨み返す。

 呑まれたら負けだ、――任務を忘れるな。


「……あは。気ィ強いなぁ、君」

「ッ……」

「で、何だっけ? 無駄口叩くなって? 死ぬためだけに生かされてきた俺に、最後まで大人しくだんまりしてろって??

 そっくりそのまま返すわ、――てめぇに何がわかんだよ」


 真っ白い指が女の頬に触れた。皮膚も爪もペンキを塗ったように純白で、その表面に生えた産毛までも半透明、およそ血の気というものがない。

 ただ左右の瞳だけがおぞましいほどに赤色をした、生まれながらに呪われた存在。神の恩寵を記されない者。


 男が何か喋るたび、彼の痩せた首を縛めている鉄輪がカチリと鳴った。


「おまえら印紙インキュナブラの都合なんざ知るか。俺はな、物心ついた頃にはあの部屋に閉じ込められてんだ。そのうえ抱きたくもねぇ女を孕ませろってんで、びーびー泣いてる相手を押さえつけて犯した、それだけの人生なんだよ。

 なぁ、あんたもそうしてやろうか? だから今日わざわざ女を寄越してきたんだろ?」

「……っさ、わるな……触るな……っ」

「どうせ俺を殺せないくせに。格好だけのおねーさん。あんたの仕事は、俺の恨み言をきっちり最後まで聞くことだ」


 狭い車内で、逃げることも拒むこともできない。甲冑や帯剣にはなんの効果も力もない。

 まさしく格好だけ、ある意味己も生贄だ。わかってはいたけれど、悟られるまいと虚勢を張っていたことすら、白紙に見抜かれている。

 女は諦めたように項垂れた。男はそれを、寂しそうに見つめていた。


「……さっき久しぶりに外に出られて、ホント、がっかりしたよ。なんかどんよりしてて汚ェ世界だなって。俺、こんなもん守るために生きてたのかよ」

「……、瘴気が薄まれば、青空になるの」

「ホント?」

「子どもの頃そうだった。明るくて、花が咲いてたし、水も濁ってなかった……」

「ふーん。……見たかったなぁ」


 馬車はその後も走り続けた。


 そのうち女は動かなくなった。顔が黒ずみ、呼吸はまばら、半開きの瞳には何も映っていない。

 瘴気の穴が近いのだ。人柱を運ぶ兵士とて無事ではいられない。つまり初めから、彼女の任務は命を捨てるものだった。

 白紙の男は朦朧としている女騎士を抱き寄せて、そっと彼女にキスを落とす。もう拒んでくれさえしない。


 勝手に鎧を脱がせて下着姿にしたところで、馬車が停まった。

 男は女を抱き上げて、大口を開けている暗黒の穴の前へとふらふら歩いていく。そのころにはすでに白紙の肌もうっすらと黒ずみ始めていた。


「……死にたくないなぁ」


 ねばつく風が白髪を揉み散らし、純白の長衣にはまだらの染みが浮いていく。


「それじゃ行こっか、おねーさん。……地獄に着いたら名前くらい教えてよ」


 男はそのまま飛び降りた。

 果ての見えない、底なしの暗闇へ。名も知らぬ女を抱き締めて。


 噴き上がる瘴気の渦に全身が染められる。神の愛は受けられずとも、代わりに悪意と狂気で綴られた祝詞が、その身を穢らわしい黒に彩っていく。


 世界のために死なねばならぬ運命だ。そのように生を受け、そのためだけに存在してきた。

 結末を誰が保証するわけでもないのに、そんな破滅的な思想に身を委ねるのは、いささか狂気じみている。

 よしんば無駄死にだったとしても、独りでなければ地獄も楽しかろう。


 彼は笑った。濁流のような瘴気の海に溺れながら、決して女を離さなかった。

 己が見ることのない青空を、焦がれるように呪いながら――……。



 この後普通に生き残って普通に帰ってきた。


(了)

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