第8話 君と僕とお腹の子供と

 コンコン。

 夕食後、部屋でくつろいでいるとノックの音がした。


「駿河、入ってもいい?」

「どうぞ。ダメって言っても入ってくるんだろう?」

「駿河の意地悪! どうしてそういう事を言うのかな?」

 

 腰に手を当ててぷりぷりと怒りながら咲良が部屋の中に入ってくると僕のベッドの上に腰を下ろした。そして、自分の右側をポンポンと叩き僕を催促する。

 やれやれと床の上から見上げた僕と視線が合った途端に咲良の頬がゆるんだ。


「えへへ、早くおいで」

「はいはい、ちょっと待ってね。よいしょ」

「うん、いい子いい子」


 隣に座ると同時に咲良が僕の左腕に抱きついてくる。もはや指定席と化していた。


「今日は会社の方、大丈夫だったかい? 遅刻せずに間に合ったの?」

「大丈夫よ。うちの会社はフレックスタイム制を導入しているもの。出社が遅くなった分だけ、今日は帰るのが遅くなっちゃったけどね。我慢した分、今から駿河を堪能するわよ」

「お疲れさま。それで癒されるならいくらでもどうぞ。気の済むまで堪能してくださいな」


 左腕に頬をすり寄せている咲良の髪を触っても嫌がる様子がなかったので、そのまま右手で彼女の髪を撫でる事にした。

 相変わらず咲良の髪からはシトラスのいい匂いがする。


「うん、それ気持ちいい。もっと続けて欲しい」

「いいよ。こんな感じでいいかな」

「うん」


 返事と共に咲良の動きが止まると、撫でられる事に集中しているようだった。


「あのね、駿河に呆れられるかもしれないけど、今だから言うとね――」

「僕が咲良のことを呆れるなんて、今この瞬間もこの先もないさ。安心してよ」

「――ちゃんと駿河の彼女になりたくて、遊園地で告白したけど。断られたらどうしようかと心配でジェットコースターが止まるまで、心臓がバクバクしてたんだよ! 返事がOKで、ほっとしたわ。もう、彼氏彼女だものね」


 チュッ。

 僕の左腕に抱きついている咲良の顔が近づいてくると僕の左頬に口づけをした。

 そのまま口にも欲しいと思うのは贅沢な願いだろうか。


「あっ、結婚の約束も交わしているからもう婚約者よね。うっかりしてたわ」

「そうだね。僕は果報者だ。もしかしたら世界一の幸せ者かもしれない」


 不幸だなんて言ったらバチが当たるだろう。しかし、いまだに若干状況を飲み込めず混乱しているのは事実だ。

 ジェットコースターでの咲良からの告白? あの時の絶叫は僕への告白だったんだ?

 思わず聞き返さなくて良かった。僕はほっと胸を撫で下ろした。

 一つ選択肢を間違うだけで待ち受けているのは地獄への片道切符。どこに罠が潜んでいるのか僕にはわからない。

 一か月後に本当に早苗が妊娠していることが確認できたら僕はどうするんだろう?

 自問自答するが答えは出ない。


「ところで、いきなり話が変わるけど、咲良は子どもが出来ていたら産むんだよね? 就職して、すぐ休職しても大丈夫?」

「ええ、産休についてもかなり手厚い会社だから心配しないで大丈夫よ。それよりも心配なのは駿河の方だよね。本当はまだ、子ども欲しくないんじゃないの? 大学卒業する前に子持ちになるんだよ。心の準備はちゃんとできてるの?」


 もちろん、咲良が妊娠していたなら、産まない選択肢はない。大好きな咲良の子どもだ。僕の知らない誰か。その子の父親がどんな奴だったとしても大事に育てていく自信はある。

 問題があるとすれば、咲良がまだそいつに未練がある場合、もしくは、僕がただの当て馬だった場合だ。それに対処する方法は今から慌ててもどうにもならない。

 まだ何もわからないのだから。


「うーん、何しろ初めての事だからね。胸を張って任せて、って言える自信はないけど、頑張ってよい父親になるつもりだよ」

「ふふふ。じゃあ、期待してるわよ、パパ。本当ならもう少し二人っきりの時間を楽しみたかったけど、その分、二人でいる時間を濃厚にするばいいだけだもの」

「そうだね。具体的に咲良はどうしたいの?」

「もちろん、今晩から駿河と一緒に寝るわ。同じ屋根の下にいるのに離れ離れで寝るなんて寂しいでしょう? 駿河は平気なの?」

「そりゃ、僕だって寂しいよ。だから一緒に寝るのは大歓迎だ。ただ、二人で寝るには少し狭い気もするけどね」

「狭いかな? くっついて寝るからそんなに狭くないと思うけど」


 ドサッ。

 そう言いながら咲良は僕をベッドの上に押し倒した。


「ほら、そんなに狭くないわよ」

「そうかもしれない」


 横になると同時に、両手で抱きしめられた僕の胸元から咲良の声が聞こえてくる。鼻をくすぐるシトラスの香りと柔らかな胸が下半身に触れて反応しそうになった。


「私はこれだけで満足なんだけど――」

「何か心配ごとでもあるの?」

「駿河は大丈夫かな? 男の子って我慢できなくなるんでしょう? 妊娠初期は大事な時期だから、お腹の赤ちゃんの為に駿河には我慢して貰わないといけないもの。もちろん、あれだけ目の前にチャンスがあっても手を出さない位だから我慢強いと思うよ。でもね、ただのヘタレかもしれないし、私に興味なかっただけかもしれないし――」


 ぎくっ!

 女性の勘は侮れない。

 まさか、あきらめていたから興味ないふりをしていた。まして、伯父さんの手前、自分から手を出す勇気もなかったとは口が裂けても言えない。

 それでも僕が咲良の事を好きな気持ちに偽りはない。


「二人の為なら、少しくらいは我慢できるよ。なにせ、初プロポーズから数えて十年以上だからね。やっと咲良が振り向いてくれたんだから」


 しかもこの腕の中に咲良がいる。当時の僕に伝えてもけっして信じないだろう。どんな魅力的な誘惑だろうと、胸の柔らかさだろうと下半身の欲望に負けたりしない。


「えへへ、嬉しい。嬉しすぎてにやけた顔が元に戻らなくなっちゃったじゃない。もう! 責任取らせるからね」


 照れ隠しするように咲良が僕の胸に顔を押し付けてくる。さらにぐりぐりと小刻みに顔を左右に振る感覚がくすぐったくて仕方がない。


「ほら、ここに赤ちゃんが――いるといいな。駿河との赤ちゃん、可愛いと思うもの。もちろん、小さな頃の駿河も可愛かったわよ」


 僕の手を取った咲良がゆっくりと自分の下腹に押し当てた。

 柔らかな感触とほのかな暖かさが手のひらに広がっていく。もう少しすると膨らみだし、その先では鼓動も聞こえてくるのだろう。

 つくづく女性の身体の神秘を感じてしまう。抱きしめると折れてしまいそうなくらい華奢きゃしゃなのに。

 頼り甲斐のある憧れの女性だった咲良は恋人として甘い顔を見せてくれている。この先、母親となった咲良はどのような顔を見せてくれるのだろう。

 この先がどうなるかわからないけれど、子供の父親に僕を選んでくれた事は胸を張ってもいいだろう。


「えへへ、私の初めてが駿河で本当に良かった――」

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運命の赤い糸を信じる彼女曰く 青空のら @aozoranora

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