雨と凪
無記名
俺と陽依
俺と
わが家とおとなりの朝凪家はほとんど親戚のような関係なので、
また俺の母である侑は生命保険の営業をやっており、ある程度の所得があったので比較的家計に余裕があるのだが、陽依の母親である
そんな事情もあり、幼いころから俺と
中学校に進学してからも、一緒にいる時間は長いままだった。所属している部活は俺が家庭科部で
いとおしかった。
その存在のすべてを守るために、俺は生まれてきたのだとさえ思っていた。それは恋ではなく、家族愛のようなものだったと思う。
中学二年生になったあるとき、俺と陽依が付き合っているといううわさが流れた。黒板にはチョークで雨森と朝凪の文字が並んでいる相合傘が書かれた。ひっこみ思案な陽依のもとにクラスの女子が大挙して押し寄せ、男子はニヤニヤしながら、俺の肩をトントンと手のひらで軽く叩いた。「やっぱ付き合ってたんじゃん」とでも言いたげな表情で。
腹が立った。
俺と陽依の関係に、恋などという軽薄で即物的なラベルを貼るなと思った。
肩をトントンと叩いてきた男子を殴り飛ばすため拳を握ったが、ふと気になり、女子の生け垣の中にいる陽依を見た。つらそうにしていた。顔が青いな、と思った次の瞬間、「うぇぇぇぇ……」とうめき、胃から内容物を吐き出してしまった。
女子生徒の生け垣が同心円状に広がって割れた。
俺は即座に廊下の雑巾を取って、床の吐瀉物に被せ、ハンカチで陽依の口元を拭いた。背中をさすりながら「だれか先生を呼んでくれ」と言うとちょうど担任が教室に入ってくるところだったため、僕が保健室に連れていきますと言おうとしたそのとき
陽依が俺を、弱々しい手で拒絶した。
そのとき俺は、もう彼女の近くにいるのをやめよう、と思った。周囲が俺たちの関係に注目し、それによって彼女が傷付くのであれば、それは本末転倒というものだからだ。
結局、陽依は担任と保健室まで歩いていった。
俺はもくもくと床を掃除した。
数人の女子生徒が手伝ってくれた。
その日から、俺たちは学校で話さなくなった。高校に上がるころには互いの家の行き来も無くなり、関係が限りなく薄くなっていった。中学校を卒業し、近所の同じ高校に進学したものの、クラスは違うのであまり意味はなかった。
もうこのまま一生話すことはないのだろうと思っていた。
状況が変わったのは、とある事件によってだった。俺たちが高校一年の春、午前十時過ぎに朝凪家に窃盗犯が入ったのだ。それを察知した有給消化中の侑と、ちょうど家に招いていた元女子柔道選手の同僚が、二つの家を隔てるベランダの間仕切りを蹴破り、犯人を追いかけて捕まえ、警察に突き出した。ちなみに家主の美月は疲れて熟睡していたらしい。陽依からそう聞いたとき、温度差で笑ってしまった。
極度のめんどくさがりな美月に代わり、面倒ごとや厄介ごとは侑がこなす。これは両家の暗黙の了解である。
なにはともあれ、問題はベランダがひと続きになってしまったということだ。
もちろんすぐに修理の話は出たのだが、なんとなく放置することになってしまった。
そして春が過ぎ、夏が来た。
うんざりするほど照りつける日差しの中で、いつものように洗濯物を干しにベランダに出ると、陽依がぼーっとしながら空を眺めていた。様子が変だったので「よぉ」と軽く声をかけながら、洗濯カゴから衣服を取り、ハンガーにかける。「ねぇ、ベランダでなら、ダメかな」と主語を欠いた返事が返ってきたので、そちらを見ずに「なにがだよ」とどうでもよさそうに返すと、陽依は「話すの」と悲しそうに言った。
あえて「誰と誰が?」とそっけなく聞いてみた。
「・・・こっちみてよ」とすねたような口調で言うのでしかたなく、億劫そうに、彼女に視線を向けた。
「あのときは、本当にごめんなさい」
陽依は俺に頭を下げていた。ショートボブの黒髪とつむじがよく見えた。あのときがいつを指すのかは明らかだった。予想外の行動に俺は「いや……まぁ」ともごもご言いながら頬をかいた。陽依は「注目される理由がよくわからなくて、恥ずかしくて、あなたを拒絶してしまったこと、ずっと後悔してたんだ。ごめんね、
「……べつにいいよ。もう気にしてないから。頭上げてくれ」と俺がうながすと、陽依はグイッと顔を上げ、急に互いの鼻の頭がくっつきそうなくらい詰めてきた。「近い近い!」と俺は叫んだ。
「お願いがあるの。ベランダだけでもいいから、また昔の関係に戻れないかな」
一瞬の間が空いた。至近距離で見つめ合う。すると途端に瞳が泳ぎ、しどろもどろになりはじめたので、ゆっくりと、昔のようにおだやかに、俺は陽依の頭を撫でた。丸顔の彼女は頭頂部からの輪郭もゆるやかに弧を描いていて、とてもなでやすい。「はいはい、わかったよ」と言うと「……またこどもあつかい」とむくれて、それから「……でも、ありがとう」と満足そうにはにかみながら笑った。ひさしぶりに見たその表情からは、積み上げてきた自信が垣間見えた。強くなったんだな、と思った。
気心の知れたふたりで、この家を出るまでのあいだ、お互いが独り立ちするまでの3年間だけ、このベランダで一緒にいる。それだけだ。
これは恋ではなく、俺たちに血のつながりは無いのだから。
雨と凪 無記名 @nishishikimukina
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