雨と凪

無記名

俺と陽依

俺と陽依ひよりは保育園のころから高校に至るまで、ずっと一緒の腐れ縁だ。それだけでなく、家が古い団地のとなり同士であり、母親同士も高校からの親友という間柄で、しかもどちらも母子家庭である。今日日、少年ジャンプのラブコメでもここまではやらないだろうというくらいには、濃い。


わが家とおとなりの朝凪家はほとんど親戚のような関係なので、陽依ひよりは異性というより守るべき対象だった。なにせ4人のうち男は俺だけなのである。当時小学2年生だった俺が気張るのもムリはない。父不在の理由は、ウチが離婚であちらは死別。それぞれ養育費と遺産が入りそうなものだが、どちらももらえなかったようだ。


また俺の母である侑は生命保険の営業をやっており、ある程度の所得があったので比較的家計に余裕があるのだが、陽依の母親である美月みづきは水商売をしながら恋人をとっかえひっかえしているため、金は常に男へ貢がれ、朝帰りも珍しくなかった。陽依はネグレクトを受け、ひもじい生活を強いられていたのだ。


そんな事情もあり、幼いころから俺と陽依ひよりは毎日いっしょに過ごしていた。腹が減ったら俺が食事を作り、陽依が盛り付け、もくもくと食べた。毎日同じ空気を吸い、同じ机で勉強し、同じテレビを見て、同じ風呂に入り、同じ布団で眠った。長話をすることはほとんどなく、静かにふたりで過ごす時間がいちばん幸せだった。小学校高学年くらいから、さすがに風呂と布団は分けたものの、基本的に毎日同じ部屋で過ごしていた。


中学校に進学してからも、一緒にいる時間は長いままだった。所属している部活は俺が家庭科部で陽依ひよりは美術部だった。部費や画材の費用が出せないときは、ひとまずうちの母親が立て替え、翌月に美月みづきへ請求するなどしていた。お互いの部活が終わると、毎日一緒に下校した。乱雑に長い前髪の奥に隠れた彼女の瞳は、いつも不安そうに揺れていた。俺がのぞき込むとその揺れが落ち着き、恥ずかしそうに目をそらすのだ。


いとおしかった。


その存在のすべてを守るために、俺は生まれてきたのだとさえ思っていた。それは恋ではなく、家族愛のようなものだったと思う。ゆうがしっかり者の父親で、美月みづきが愛嬌だけはあるダメな母親で、俺が兄で、陽依ひよりが妹。だから心臓が早鐘を打つことはほとんどなかった。ごくまれに彼女から俺に触れることはあっても、俺は決して自分からは触れなかった。それはある種の意地、あるいは戒めのようなものだったのかもしれない。


中学二年生になったあるとき、俺と陽依が付き合っているといううわさが流れた。黒板にはチョークで雨森と朝凪の文字が並んでいる相合傘が書かれた。ひっこみ思案な陽依のもとにクラスの女子が大挙して押し寄せ、男子はニヤニヤしながら、俺の肩をトントンと手のひらで軽く叩いた。「やっぱ付き合ってたんじゃん」とでも言いたげな表情で。


腹が立った。


俺と陽依の関係に、恋などという軽薄で即物的なラベルを貼るなと思った。


肩をトントンと叩いてきた男子を殴り飛ばすため拳を握ったが、ふと気になり、女子の生け垣の中にいる陽依を見た。つらそうにしていた。顔が青いな、と思った次の瞬間、「うぇぇぇぇ……」とうめき、胃から内容物を吐き出してしまった。

女子生徒の生け垣が同心円状に広がって割れた。

俺は即座に廊下の雑巾を取って、床の吐瀉物に被せ、ハンカチで陽依の口元を拭いた。背中をさすりながら「だれか先生を呼んでくれ」と言うとちょうど担任が教室に入ってくるところだったため、僕が保健室に連れていきますと言おうとしたそのとき


陽依が俺を、弱々しい手で拒絶した。


そのとき俺は、もう彼女の近くにいるのをやめよう、と思った。周囲が俺たちの関係に注目し、それによって彼女が傷付くのであれば、それは本末転倒というものだからだ。

結局、陽依は担任と保健室まで歩いていった。

俺はもくもくと床を掃除した。

数人の女子生徒が手伝ってくれた。


その日から、俺たちは学校で話さなくなった。高校に上がるころには互いの家の行き来も無くなり、関係が限りなく薄くなっていった。中学校を卒業し、近所の同じ高校に進学したものの、クラスは違うのであまり意味はなかった。


もうこのまま一生話すことはないのだろうと思っていた。


状況が変わったのは、とある事件によってだった。俺たちが高校一年の春、午前十時過ぎに朝凪家に窃盗犯が入ったのだ。それを察知した有給消化中の侑と、ちょうど家に招いていた元女子柔道選手の同僚が、二つの家を隔てるベランダの間仕切りを蹴破り、犯人を追いかけて捕まえ、警察に突き出した。ちなみに家主の美月は疲れて熟睡していたらしい。陽依からそう聞いたとき、温度差で笑ってしまった。

極度のめんどくさがりな美月に代わり、面倒ごとや厄介ごとは侑がこなす。これは両家の暗黙の了解である。


なにはともあれ、問題はベランダがひと続きになってしまったということだ。

もちろんすぐに修理の話は出たのだが、なんとなく放置することになってしまった。

そして春が過ぎ、夏が来た。


うんざりするほど照りつける日差しの中で、いつものように洗濯物を干しにベランダに出ると、陽依がぼーっとしながら空を眺めていた。様子が変だったので「よぉ」と軽く声をかけながら、洗濯カゴから衣服を取り、ハンガーにかける。「ねぇ、ベランダでなら、ダメかな」と主語を欠いた返事が返ってきたので、そちらを見ずに「なにがだよ」とどうでもよさそうに返すと、陽依は「話すの」と悲しそうに言った。

あえて「誰と誰が?」とそっけなく聞いてみた。

「・・・こっちみてよ」とすねたような口調で言うのでしかたなく、億劫そうに、彼女に視線を向けた。



「あのときは、本当にごめんなさい」


陽依は俺に頭を下げていた。ショートボブの黒髪とつむじがよく見えた。あのときがいつを指すのかは明らかだった。予想外の行動に俺は「いや……まぁ」ともごもご言いながら頬をかいた。陽依は「注目される理由がよくわからなくて、恥ずかしくて、あなたを拒絶してしまったこと、ずっと後悔してたんだ。ごめんね、音也おとや

「……べつにいいよ。もう気にしてないから。頭上げてくれ」と俺がうながすと、陽依はグイッと顔を上げ、急に互いの鼻の頭がくっつきそうなくらい詰めてきた。「近い近い!」と俺は叫んだ。


「お願いがあるの。ベランダだけでもいいから、また昔の関係に戻れないかな」


一瞬の間が空いた。至近距離で見つめ合う。すると途端に瞳が泳ぎ、しどろもどろになりはじめたので、ゆっくりと、昔のようにおだやかに、俺は陽依の頭を撫でた。丸顔の彼女は頭頂部からの輪郭もゆるやかに弧を描いていて、とてもなでやすい。「はいはい、わかったよ」と言うと「……またこどもあつかい」とむくれて、それから「……でも、ありがとう」と満足そうにはにかみながら笑った。ひさしぶりに見たその表情からは、積み上げてきた自信が垣間見えた。強くなったんだな、と思った。

気心の知れたふたりで、この家を出るまでのあいだ、お互いが独り立ちするまでの3年間だけ、このベランダで一緒にいる。それだけだ。


これは恋ではなく、俺たちに血のつながりは無いのだから。

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雨と凪 無記名 @nishishikimukina

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