黒猫はコンニャク爆弾の夢を見るか?

長門拓

黒猫はコンニャク爆弾の夢を見るか?

 議事堂にコンニャク爆弾を投げ込んだという疑いを掛けられて、ぼくは裁判に掛けられた。判決はもちろん有罪。たとえ不発に終わったとしても、由緒正ゆいしょただしき権威に向かって爆弾を投げ込んだということは、権威にとって許すべからざることであるらしい。即刻控訴こうそしたが、鼻で笑われ棄却ききゃくされた。そしてこれは肝心なことなのだが、ぼくはコンニャク爆弾の製造法も知らないし、コンニャク爆弾を議事堂に投げ込んだ覚えもない。そもそもコンニャク爆弾なるものがどんな形状をしていて、どのような効能を発揮するのかさえ、ぼくのあずかり知るところではない。誓って言える、ぼくは無実だ。


 しかしそんなぼくの魂の叫びも、特別尋問官とくべつじんもんかんにとっては大した問題ではなかったらしい。

「お前が投げ込んだかどうかは大した問題ではない。誰かが投げ込んだのは確かなのだから、それがお前であっていけない理由はないではないか。第一、不発に終わっているのだから、大した罪ではない。早い内に認めれば、早い内に家に帰してやれる」

 ぼくは六日に及ぶ尋問で疲弊ひへいし切っていた。ろくに睡眠も取れず、冷たい塩水と堅いパンしか食べることを許されていない。

「本当に家に帰してくれるのですか……」

 特別尋問官はここぞとばかりにまくしたてる。

「特別尋問官に嘘はない! 全ての特別尋問官は正直である! ささ、早くこの調書にサインして拇印ぼいんを押しなさい。内容なんて読まなくていいから。そうすればぐっすり眠れるし、温かい食事にもありつけるというもの」

 しかしぼくは根からの活字中毒でもあったため、つい調書の内容に目を走らせてしまう。

「……コンニャク爆弾の製造法を、この調書のぼくはかなり熟知してますね」

 特別尋問官がぼくを灰皿で叩く。

「読まなくていいと言ったぞ! 調書のお前はお前であってお前でない、けれども紛れもなくお前なのだ。その論法を認めない限り、お前はこの密室から出ることは相成あいならぬ!」

 ぼくはなおも抵抗したが、それは三日しか続かなかった。ぼくは結局、ぼくではないぼくがぼくであると認める文章にサインしてしまうことになる。

 この時から、ぼくの身分は確定死刑囚という大層なものになったらしい。ぼくは悔恨かいこん怨嗟えんさの念を込めてこう呟く。全ての特別尋問官は嘘つきである。



   〇



 ネオ・トーキョー拘置所は、三次元の空間にしつらえられた四次元の住まいである。増加の一途を辿る未決拘禁者、及び死刑確定者の収容が社会問題としてクローズアップされ、その解決策として建設されたものがここだ。

 ぼくは遠路はるばると車で運ばれ、目かくしを外される。

「壱九四五番、車を降りろ」

 ぼくの体格の三倍はあろうかと思われる刑務官が、無表情でそう言う。壱九四五番とは、機械的に定められたぼくの称呼番号しょうこばんごうである。

 ぼくは外界の眩しさに目を細めつつ、言われた通りに車を降りる。地平線が見えるほどにだだっ広い荒野の真ん中に、灰色のコンクリートで塗り固められた正方形の建物が鎮座している。

「ここが拘置所ですか。思ってたより小さいですね」

 第一印象をそのまま呟いた。刑務官は頷く。

「何しろ四次元だからな。見た目と中身はかなり違う。お前も入ってみれば驚くだろう。まぁ、何事も経験だ」

 ぼくは苦笑する。確定死刑囚に経験もクソもないものだ。

 刑務官はちょっと気まずそうな仕草で頭を掻く。

「私の案内はここまでだ。壱九四五番、ここでも規律を守り、規則正しい生活を心がけるように」

「お世話になりました。ところで前から気になっていたんですが、壱九四五番って言いにくくないですか?」

「決まりだからな。それにお前の名前はすでに国家によって剥奪はくだつされている。我々にもお前の本当の名前を呼ぶことは許されていない。お前自身も、自分の本当の名前を思い出すことは出来ないはずだ。違うか?」

 ぼくは頷く。二十八世紀の国家ともなれば、確定死刑囚の名前を奪うことなど造作ぞうさもないのだ。

「始めは違和感がありましたが、名前のない生活というのも馴れるものですね」

「私には名前があるから、その感覚はよくわからない。だがお前の神経の図太さには感心する」

「名前がないからでしょう。何となく、これから死に行くことも他人事のような気がします」

 何となく無言。

 荒野に吹く秋の風が、ぼくの粗末な囚人服をはためかせる。微かに冷たく、どことなく侘しい気分になる。これが外界の見納めか。

 ぼくは黙ったまま刑務官に一礼し、つい棲家すみかの入口をくぐった。



   〇



 さすがに四次元だけあって、すぐ外側にいるはずの刑務官も自動車も風景も、一切がこちらからは見えなくなる。そして入口そのものが消えてしまった。ぼくはもう、この建物の外に出ることは出来ない。ぼくと世界の繋がりは断たれてしまったのだ。

 部屋の真ん中のテーブルに置かれている、古風な装丁そうていの冊子が目に付く。『受刑者の心得』だ。

「これを読むのが最初の作業だと言われてたっけ」

 ぼくは『受刑者の心得』をパラパラとめくる。根からの活字中毒なので、何かを読めるというだけでも有難い。

 結論から言うと、大したことは書かれていなかった。何もかも事前に聞かされていた情報の域を出ない。簡潔にまとめると、こうだ。


 一、囚人は規律を厳守し、規則正しい生活を心掛けること。

 二、建物の内部は四次元であるため、敷居をまたいだり、窓をくぐると別の部屋に転移することになる。元の部屋には簡単には戻れないので注意のこと。

 三、四次元なので、食事や飲み物は無限に冷蔵庫や倉庫から沸いてくる。節約(?)を心がけること。

 四、囚人には名前がないので、自殺又は囚人同士の喧嘩や殺傷の類は起こり得ないが、万が一、病死や事故などによる他の囚人の遺体を発見したら、各部屋に設置されているダストシュートに放り込むこと。

 五、図書館や娯楽室の数はそれほど多くはないが、もし見つけたら自由に、しかし良識の範囲内で使用が可能とのこと。

 六、確定死刑囚の刑の執行は、自然死をもって完了とするとのこと。


 ぼくは三十分ほど『受刑者の心得』に目を通し、そっと閉じる。

 この世界から、古式ゆかしき処刑方法が撤廃てっぱいされて久しい。それは四次元空間をこうして活用出来るようになり、新しい処刑方法が考案されたことがきっかけであったと聞く。

 普通に処刑するよりは、四次元に放り込む方が遥かに人道的であると、数世紀前に国民投票で決まった。それが現在でも続いているというわけだ。

 ぼくは終の棲家を改めて眺める。幅二十メートルほどの正方形の形をした部屋の壁は一面にクリーム色をした壁紙で覆われており、台所やベッドや風呂場やトイレ、ダストシュートらしき穴が無造作に配置されている。精査してみないと何とも言えないが、少なくとも「健康で文化的な最低限度の生活」ならば、文句なしに保障されていると見て差し支えないだろう。

 台所には蛇口やガスコンロ、冷蔵庫が据え付けられている。戸棚には種々雑多な調味料や香辛料、食器やマグカップが所狭しと収納されており、フォークやスプーンも数人分が用意されているらしい。

 ぼくは試しに冷蔵庫を開けてみる。ひんやりとした空気が頬にかかるので、電気は通っているようだ。中にはパンや卵や牛乳、ベーコンやバターやヨーグルト、レタスなどの生野菜や栄養ドリンクまで備わっていた。至れり尽くせりのラインナップだ。

 ところが一度冷蔵庫を閉めてみると、次に開ける時には、また別の食材が内部に発現はつげんしていることに気付いた。牛乳やバターの置かれていた位相は、なぜか豆乳やマーガリンなどの食材に入れ替わっており、ベーコンやヨーグルトはハムやチーズに入れ替わったりしている。時々ピーナッツバターや梅ジャムやアボカドやコンニャクなどのレア食材を引き当てることも出来るが、その法則性は今ひとつ判然としない。

 冷蔵庫のガチャを回すのにも飽きたので、適当な材料を見繕って簡単なサンドイッチを作って食べた。食後のコーヒーもインスタントにしてはなかなかの風味だった。

 マグカップから立ち上る湯気を眺めつつ、確定死刑囚の生活もそんなに悪くなさそうだなとぼくはひとりごつ。ふぅ。



   〇



 あれからひと月が経過した。

 率直な感想としては、ここでの生活はおおむね気に入っている。衣食に事欠くことはないし、住まいは快適な温度と湿度に常時保たれている。少なくとも飢えることはないし、寒さに凍える心配もない。

 敷居を跨いだり窓をくぐったりすると、そこにはまた別の部屋が現れている。そして元の部屋には簡単には戻れないが、どの部屋も似たり寄ったりの設えなので、それほど困ることもない。

 部屋の往還おうかんを繰り返していると、時折他の囚人と会ったりすることもある。そんな時は物珍しさからしばらく談話することもあるが、それもその部屋から離れるまでの間だけだ。余程のことがない限り、彼らとは二度と会うことはないだろう。少なくとも、このひと月の間に同じ囚人と巡り会った例はなかった。

 彼らを懐かしむことがないわけでもないが、そもそもぼくらは国家によって名前を奪われている存在だ。あらゆる感情や感覚がまるで他人事のようにぼんやりとしている。外的な物や人に対する執着心なども起こりえない道理だ。

 名前のないぼくは、独り身の確定死刑囚の生活を気ままに謳歌おうかしている。

 しかしぼくは根からの活字中毒でもあるため、時折何かに追い立てられるように四次元の部屋から部屋を歩き回ることになる。『受刑者の心得』によると、建物の内部には少ないながらも娯楽室や図書室があるという。

 ぼくはどうしても本が読みたい。このひと月、手垢で汚れるほどに『受刑者の心得』を繰り返し読み込んで来たが、それもいささか苦痛になっている。

 しかしどれほど歩き回っても、なかなか図書室のガチャを引き当てることが出来ない。ぼくの運がよほど悪いのか、それとも図書室の絶対数が極めて少ないのか。

 ひとつだけ確かなことは、国家による名前の収奪も、ぼくから読書への欲動よくどうを根こそぎ奪い去ることは出来なかったということだろう。

 それはともかく、このところのぼくは日がな一日歩き回るのが日課となり、図書室への扉を開こうと執拗に試みている。

 図書室はいったいどこにあるのだろう。



   〇



 その日も、ぼくは足を棒にしながら四次元の部屋から部屋を散策していた。これまでに一度も図書室らしき部屋を見つけるに及んでいない。

 もうそろそろ今日の捜索は切り上げようかと思いながら、諦めきれずにくぐった部屋の真ん中でぼくは『彼ら』と出会った。


「……おや、お客様かのぅ……」


 老人は部屋の片隅にあるベッドの上で、力なくこちらに視線を寄越よこした。

「お邪魔します。こんにちは」

 ぼくは頭を下げて挨拶する。老人は皺だらけの顔を寝たままでこくりと動かす。近寄って確かめるまでもなく、余命いくばくもなさそうな風情だと感じた。

 ところがぼくは別の意味でその老人に興味を持った。それと言うのも、老人の枕元に何か黒っぽい物体が丸くなっていたのだ。

 ぼくが部屋に入って来たことを、その黒い何かも察したらしい。ぴくんと身動みじろぎした物体は、警戒するような目つきでじろりとこちらを眺める。

「すみません、それはもしかして……猫ですか?」

 ぼくは寝たきりの老人にそう訊ねる。老人はそうだと肯定する。

「こんなところになぜ猫がとお思いでしょう。実を言うと、私にもよくわかりません。何かの拍子に紛れ込んだのかもわかりませんが、何しろ猫は喋らないので確かめる術もありません」

 ぼくが敵ではないことを察したのかはわからないが、猫は鋭いヘーゼル色の目つきをいくらか和らげ、ふわあとあくびをした。そしてまた老人に寄り添うように丸くなる。

 猫にも確定死刑囚がいるのだろうかと一瞬考えたが、すぐに思い直す。そんなことがあるわけないだろう。


 ぼくは疲れ切っていたこともあり、その日は老人の傍らで当たり障りのない雑談をして過ごすことにした。聞いたわけではないが、老人もそうすることを望んでいるような雰囲気があった。

 ぼくの散策の目的について知ると、老人がかすれた声で話す。

「なるほど。あなたは図書室を探しているのですか」

「ええ。でもこれまで一度も図書室を見つけられないんですよ。本当にあるのかと疑わしくなります」

 老人はふむと考え込む。そしておもむろにこう言う。

「確信は持てませんが、もしかすると図書室は仕分けの対象になり、廃止もしくは縮小されたのかも知れませんな」

 その発想はなかったので、ぼくは驚く。

「そんなことが起こり得るんですか?」

「その可能性はあります。こちらから外界に干渉することは出来ませんが、あちら側から干渉することは原理的に可能です。これは一般には公開されていない情報ですがね」

「よくおわかりになりますね」

 老人がふふふと笑うような声を洩らす。

「……実を言うと、この建物を作ったのは私なのです」

 ぼくはさらに驚く。


 丸くなっている時はわからなかったが、黒猫の右前脚は先の部分が幾分千切れてなくなっているらしく、歩き方がぎこちなかった。

 ひょこひょことした歩みで、部屋の真ん中に置かれている容器へと近寄り、ぴちゃぴちゃと音を立てて水を飲んでいる。

 ぼくらはその音を聞くともなしに聞きながら、対話を続ける。

「……昔から王の城を作った大工は、口封じのためによく殺されたものです。まさか自分がそうなるとは思いませんでした」

「しかし、ここは王の城ではありません。確定死刑囚の終の棲家です」

「無論そうです。しかしこの四次元拘置所の技術は、権力にとって薄気味悪いものだったのでしょう。出来の悪い国家というものは、とかく首輪を付けたがる。私は四次元の技術を幅広く公開するべきという立場だったのが、仇になりました」

 ぼくは老人の昔話を拝聴しながら、計算が合わないではないかという疑いを持った。

「この拘置所が実用化されたのは二~三世紀ほど前だと聞いています。どうしてその時代のあなたがぼくの前にいるのですか?」

 老人は了解しかねてるような、片付かない顔つきをする。

 しかしそれも束の間で、何かを察したらしい。

「……もうそこまで、時間のふちが滑り落ちてしまいましたか」

「どういうことです?」

 老人はその質問には答えない。猫は無心に水を飲んでいる。



   〇



 翌朝、老人は目に見えて容態が悪化した。ゆうべの対話が体に障ったのかも知れない。

 老人は苦しそうに咳き込む。しかし意識ははっきりしているようだ。

 黒猫はベッドの脇で微動だにせず、死に向かう者の成り行きを見守っている。

「おじいさん、しっかりして下さい」

 ぼくは彼の手を握りながら、そう励ます。しかしぼくには名前がないので、そういう気遣いも内実ないじつが伴わず、形だけのものだ。国家により名前を奪われたぼくらには、他者への共感というものが欠けている。どうして昨日会ったばかりの、こんな死にかけのみじめな老人をいたわる必要があるのだろう。

 そうぼんやりと感じながらも、ぼくはなぜか彼の手を握ったままでいる。

 老人はただ苦しそうな有様のままで、ぼくを感情のない瞳で眺める。やがて、こんなことを途切れ途切れに話した。

「……あなたに、お願いがあります……ごほっ」

 血の混じった痰が吐き出される。ぼくはそれをタオルで拭う。

「なんでしょう?」

「……あの黒猫はどういうわけか、私から離れようとしません。私が、死んだら……そいつを連れて行ってあげて下さ……うぅ……」

 ぼくは頷く。

「わかりました。安心して下さい。でも猫がついてくるかどうかまでは、責任が持てませんよ」

 よせばいいのに、ついそんなことを付け加えてしまうぼく。老人が絶え絶えの呼吸の狭間で、苦笑したような気がした。

 老人はその後、数時間うめき苦しんだ果てに、何かの糸がぷつりと切れたように事切れた。

 ぼくは深くため息を吐いて、握っていた手をゆっくりと離す。

 黒猫は全てを諒解りょうかいしているものの落ち着きで、静かに老人の指先を舐めていた。



   〇



 冷え切った老人の遺骸をダストシュートに放り込み、ぼくは彼との別れを済ませる。これで一人の確定死刑囚が刑の執行を完了させたことになるわけだ。

 猫はなかなか老人の事切れたベッドから離れようとしなかったので、無理にでも連れて行こうかと考えていると、ふと枕の下敷きになっていたらしい何かの本があることをぼくは認めた。それはぼくを少なからず興奮させるのに充分な発見だった。

 ぼくはその本を手に取り、色褪せた表紙のタイトルを読み上げる。


「……コンニャク爆弾の製造法……?」


 それはぼくが確定死刑囚となるきっかけとなった『コンニャク爆弾』の製造法が、事細かに記されている本のようだった。なぜよりによってこんな本が、老人の枕の下に置いてあったのだろう。

 奇妙な因縁を感じつつも、活字中毒のぼくは謹んでその本を受け取ることにする。


 ぼくは一冊の書物と一匹の黒猫を抱え、四次元の次の部屋へと進んだ。

 図書室はいったいどこにあるのだろう。



   〇



 特別尋問官はこの上なく混乱しているように見えた。恐らく、名前のないテロリストを尋問するのは初めてなのだろう。

「お前は何ということを仕出かしたのだ。お前が拘置所内で爆発させたコンニャク爆弾のせいで、時間の縁が滑り落ちてしまったのだ。拘置所の四次元は津々浦々つつうらうらに拡散してしまった。何の罪もない人々が何百人も巻き込まれてしまったぞ。どうしてくれるのだ!」

 ぼくはどこかで見たことのあるような特別尋問官の顔を、無感動な心持ちで眺める。

「ならば、法に照らしてぼくを罰すればいい。あなたたちの十八番おはこだろう」

 特別尋問官はヒステリー気味に机をバシバシと叩く。

「それが出来れば苦労はしない! お前の名前はすでに国家によって剥奪されている。それをどうやって罰することが出来るというのか」

 ぼくはやや俯きながら、膝の上で丸くなっている黒猫の背を撫でている。どういうわけか、右前脚のちぎれた部分は元通りの爪と肉球が生え揃っているようだ。何かの弾みで次元に落としたものが、またくっついたのであろうか。

 ぼくのそうした落ち着き方が、特別尋問官の怒りをさらにあおり立てたらしい。

「私はお前を許さないぞ。たとえお前が法律の隙間から逃げようとしても、我々は必ずお前を追い詰めてやる。それがどんなに遠い場所であっても、四次元の果てであっても、きっとお前を罰してやるからな」

 ぼくは黒猫を小脇に抱えて、静かに立ち上がる。

「どうぞご勝手に。一つ言わせてもらうならば、あの拘置所はもう耐久期間が過ぎていたのだと思いますよ。ぼくがコンニャク爆弾を破裂させなくても、遅かれ早かれこうなっていたでしょう」

 おそらくこの黒猫も、劣化した時間の縁から拘置所に滑り落ちてしまったのだろう。

 顔を真っ赤にさせながら、特別尋問官は地団駄を踏む。

「いいか! 私は必ずお前を罰してやるからな。!」

 ぼくは苦笑する。そうやって過去のぼくを無実の罪に陥れたばかりに、このような事態を引き起こすだろうことにすら気付いていないのだ。


 特別尋問室を出ると、格子付きの窓から見える秋の空が美しく、何となく清々しい気分になる。結局名前のないままのぼくだが、それでも世界が美しいことに変わりはない。

 門の傍らに直立不動する刑務官が、こっそりとぼくに会釈えしゃくする。

「壱九四五番さん、まさかまた会えるとは思いませんでしたよ」

 懐かしい番号だとぼくは思った。ぼくは慇懃いんぎんに会釈を返す。

「先生、お久しぶりです。今度はお世話にならずに済みそうです」

 刑務官は苦笑いする。

「私の立場上、おめでとうと祝福するわけにも行きませんがね」

「それはわかります。四次元を拡散させてしまったことで、ご迷惑をお掛けしてしまいました」

「ははは。これも立場上大声では言えませんが、わりと皆さん、今の現状を楽しんでるみたいですよ。少なくとも、私の知る限りでは実害をこうむった人はいないみたいです」

「特別尋問官はあんなに怒ってましたよ」

「秩序の番人は、えてしてああいうものです。それに、今回の責任を取らされて、左遷させんが検討されているという噂もあります」

 ぼくは同じく苦笑いする。何となく、特別尋問官に悪いことをしたような気がしないでもない。

 その特別尋問官が、扉の影からこちらを睨んでいるのがわかった。長居しては刑務官にも迷惑を掛けてしまうだろう。

 ぼくは黙って一礼し、黒猫を携えて街路へと歩みを進める。



   〇



「さて、これからどうしようかな。どこに行けばいいと思う? コンニャク?」

 ぼくの腕に絡まりながら、黒猫がふにゃあとひと声啼いた。何故だかはわからないが、黒猫はこの名前で呼ばれることを好んでいるらしい。

 コンニャクの瞳はぼくの心の奥底を映しているかのように、透き通っている。

「そうだね。とりあえず、手頃な図書館でも探そうか。でも、さすがに猫と一緒に入ることは難しいかも」

 コンニャクはいかにも不服そうな啼き声で抗議するが、こればかりはぼくにもどうしようもない。ごめんよ、コンニャク。


 気分を害した黒猫を連れて、名前のないぼくは無数の人波へと紛れて行く。

 さて、図書館はいったいどこにあるのだろう。

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