玄関を上がると床で直樹が熟睡していた。パーカーの裾から生白い臍があらわになっている。私が何度衣替えしても直樹は年中パーカーだ。よくこれで風邪を引かないよね。そう思いながら裾を引っ張って腹部を隠してやった刹那、私はふと「自分は何をやっているのだ」という思いに襲われた。自分は何をやっているのだ。つい先ほどまで私は警察署で直樹の犯罪を密告していたんだ。それなのに今、私は当の直樹本人が風邪を引くんじゃないかと心配している。私は何をやっているんだ? 私は、直樹を裏切ったんじゃないのか?

 私は自分の目から生温かい液体がほとばしっていることに気付いた。塩水は瞼のダム湖を決壊させて次から次へと流れ落ちる。私は本当に駄目な人間だ。直樹は私との生活のためにあれほど努力していたのに。私が口を割りさえしなければ、二人とも幸せになれたのに。なんで私は直樹の言葉ではなく、先日まともに話したばかりの訓子さんの言葉に従ってしまったのだろう。まったく馬鹿だ、馬鹿馬鹿しい。そう思いながら私はなおも肩を震わせ続けた。

 直樹を起こそうか。私はそうも考えた。今直樹を起こして事情を説明し、二人で逃げよう。そうすれば捕まらずに済む。そうだ、それがいい、そう思っているにもかかわらず私には直樹の肩を叩くことが出来なかった。警察署を出るまでの私が訓子さんとの口約束に縛られていたように、その時の私は遠野さんとの口約束に縛られていたのである。

 自分の無力さを感じながらなおも涙を拭っていると、不意に呼び鈴が鳴った。反射的に背筋が硬直する。ぴーんぽーん。いや、その時の私の耳にはぴいいいいいん、ぽおおおおおん、と響いた。ぴいいいいいん、ぽおおおおおん。

「直樹さーん、いますかー? ××警察署です。直樹さーん?」

ガチャ、ガチャ、と乱雑にドアノブが回される。目をこすりながら直樹が身体を起こした。声を出さず、口の動きだけで私に「なにこれ」と尋ねる。目を腫らしながら首を振る私。

「直樹さーん? いますかー?」

「はい」

そう答えながら直樹が扉を開けると、そこには柔道耳の青年巡査が立っていた。遠野さんの姿は見えない。

「××警察署の××です」

柔道耳の巡査はそう名乗ると、

「直樹さん、あなたがご自身のお店に死体を隠匿しているという通報が入ったのですが……お店までご同行願えますか?」

と直樹に問いかけた。

「死体ですか。面白い噂ですね」

直樹は目をこすりながらもそう軽快に返答し、

「行きましょう」

と言って私にも付き従うよう促した。

 かくして私たちはパトカーに乗り、店の鍵を握りしめたまま閉店後のSHIVA CURRYへと連行されていった。既に街は暗い。信号の光が直樹の横顔を赤く縁取っている。私も、直樹も、運転席の柔道耳も、誰一人口を開かない。ただ柔道耳の胸に収められた警察無線のみが、ノイズを交えながら署内の情報を交換し合っている。

 ついに柔道耳はSHIVA CURRYの店先へ辿り着くと、その前の歩道にパトカーを乗り上げさせた。そして彼は後部座席の扉を開け、私と直樹に車外へ出るよう指示した。車外に出るとそこには別の警察官が既に数人待機していた。どうやら裏手の砂利にもパトカーが停まっているようだ。突然の抵抗や逃走に備えているのだろう。

 直樹は指示どおり表口の鍵を開けた。ガネーシャの前を横切って警官たちが店内に侵入する。他のものには目もくれず、厨房の冷凍庫へと一直線に進んでいく。

「うちも飲食店なんでね。冷凍庫に死体を隠した、なんて噂流れたら潰れちゃいますよ。通報した奴を反対に営業妨害で捕まえてくれませんかね、おまわりさん?」

そう冗談を飛ばしながらも直樹は警官たちを冷凍庫の前までエスコートした。

 柔道耳の巡査が恐る恐る冷凍庫の扉を開ける。すると、冷気と共に青白い光が暗い店内へ溢れ出た。肉や氷の塊が凍結した状態で転がっている。その一番奥に、幼児ほどの大きさをした銀色の包みが重々しく横たえられている。それを目にした瞬間柔道耳はごくりと唾を飲み込んだ。私も額の汗を拭う。

「これですかね、噂の火種は」

直樹は涼しげな表情で包みを指差すと、

「おまわりさん。あなたがこの包みを開けてみてくださいよ」

と言って柔道耳に微笑みかけた。柔道耳はびくりと眉を吊り上げたが、

「分かりました。それが本官の職務です」

と自分を鼓舞するように呟いてゴム手袋を両手にはめた。包みは白い冷気を纏い、銀色の保冷シートとガムテープに覆われている。

 柔道耳はまっすぐに硬直した包みをそっと床へ寝かせると、ガムテープを一枚また一枚と剥がしていった。ガムテープは簡単に剥がれた。長期間の冷気によって糊が劣化してしまっていたのだ。全てのガムテープを剥がし終えると、柔道耳は浴衣を脱がせるような手つきで銀色の保冷シートをそっとめくった。すると勢いが強すぎたのか、包みの中身はシートの外へごろりと転がり出た。

「……これは?」

柔道耳は包みの内容物を眺めたのち、直樹の顔に目をやってそう問いかけた。

「子象の足です」

直樹は冷ややかな笑みを浮かべてそう答えた。

「象の肉。南方からの密輸品。所持は一応合法ですよね? 捕まえないでくださいよ」

直樹はそう柔道耳に言ったあと、私に向かってひそかに目くばせを送った。私は悲鳴を上げて象の肉の前に倒れ込んだ。私の脳は状況を全く理解できていなかったのである。おそらく警官たちも同様だったのだろう。無線で何者かと話し合う柔道耳。騒然とする店内。

 それから程なくして私たち二人は警察署へ連れて行かれることとなった。取調は夜を徹して続いた。そしてとうとう次の日の朝、――私たちは解放された。

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