「このたびは申し訳ありませんでした」

柔道耳が直樹に陳謝している。

「いえいえ、こちらこそ」

直樹はそう柔道耳に頭を下げると、

「ほら、帰るよ」

と言って私の手を固く握った。かくして私たちは警察署を去り、二人並んで帰路に就いた。

 十字路を越えたあたりで、直樹は唐突に口を開いた。

「驚いたでしょ」

「え?」

「昨日の夜、おまわりさんが包みの中身を開けたとき」

「ああ」

私はなおもこちらを見てくる直樹から目を逸らし、うん、と答えた。うん。びっくりした。

「想定はしてたんだよ。誰か密告するんじゃないかって」

そう言うと直樹は私の頭を撫で、

「特に奈桜ちゃん、君はそういうことやりがちだからね」

ととびきり優しい声色で囁いた。私は身をすくめた。

「帰ってきてからずっと泣いてるからさ。これは何かやらかしたんだろうなー、って思ったんだよね。そしたらおまわりさんが来たから、なるほどって感じ。先に手を打っておいてよかったよ」

そう楽しそうに語る直樹の手を振りほどき、私は剥き出しの膝をアスファルトにつけて頭を下げた。

「ごめん直樹。直樹は私のためを思ってたのに、裏切っちゃってごめん。全部台無しにしてごめん」

「大丈夫大丈夫、大丈夫だって」

そう言いながら直樹は私をもう一度起き上がらせた。ワンピースの裾が泥に汚れてしまっている。

「誰も捕まってないんだから、何も台無しになってないよ」

「でも、淡島さん夫妻は」

そう私が聞き返すと直樹は

「ああ、あの二人か」

と呟き、

「まあ大丈夫でしょ」

と返答した。

「なんで?」

そう私が直樹に問いかけた時、直樹は

「着いたよ」

と言って足を止めた。私たちはちょうどアパートの前にまで辿り着いていたのだ。

「先あがってて。僕は淡島さんのところに報告がある」

そう言うと直樹は駆け足で去り、鉄柵を越えて傾斜の向こうへと消えていった。私はその後ろ姿の残像をしばらく眺めたあと、何も持たずにアパートの階段を上っていった。

 ベランダから眺めていると、しばらくして玄関のドアが開いた。晴れやかな面持ちで平屋を後にする直樹、その背中を淡島さん夫妻が名残惜しそうに眺めている。訓子さんに至っては小さく手を振ってすらいる。ゆすりの被害者には相応しくない表情だ、と私は思った。やがて直樹は視界から消え、夫妻も扉を閉めた。平屋の庭には誰もいない。ただ頭の悪そうな犬が涎を垂らしながら鎖をのろのろと引きずっているだけだ。

 なおも私が平屋を見下ろしていると、程なく背後で我が家の扉が音を立てた。

「ただいま」

直樹の太い腕が私の身体を抱く。

「心配しないでください、って言ってきた。情報が漏れてしまったのでこれ以上の口止め料は必要ありません。余ったお金はお二人の幸せのために使ってください。そう伝えたら、忠孝さんってば泣きながらありがとうありがとうって言ってたよ」

そう自慢げに言うと直樹は人差し指を立て、

「あと、至尊くんの死体が警察に見つかることは絶対にありません、とも伝えたよ。そもそも警察は至尊くんのことを何も知りません。最初から最後まで、至尊くんという子供はどこにも存在しなかったんです。いいですね? って」

と言葉を続けた。

「存在しなかった」

そう私が復唱すると直樹は

「そうか、奈桜ちゃんにはまだ伝えてなかったよね」

と言うなり私の耳に口を寄せ、

「実は、至尊くんには戸籍がなかったんだ」

と告げた。

「淡島至尊という子供を行政は認識していなかった。存在しない子供が殺されることなどない、ましてやそれをネタにゆすることなど出来っこない。僕も彼らも奈桜ちゃんも、みーんなはじめから無罪だったんだよ」

そう言うと直樹はさも楽しそうにハハハと笑った。

「でも直樹」私はなおも問いをぶつけた。「死体はどこに行ったの?」

「死体? ああ」

至尊くんの死体ね、と言って直樹は肩をすくめた。

「消滅したよ。はじめから存在していなかった子供の死体なんて、存在する方がおかしいでしょ?」

「じゃああのデスマスクは?」

「上手だったでしょ」

そう言うと直樹は粘土をこねるようなポーズを取り、

「僕の手作り。途中からは型で量産してた」

と言って笑った。

「でも私はこの目で見たんだよ。至尊くんの死体が、葦の茂みに転がってるところを」

そう私が詰め寄ると、直樹は私の髪を撫でながら悲しそうな眼差しでこちらを見つめた。

「ごめんね奈桜ちゃん。これを伝えるのは非常に胸が痛むんだけど……」

そう言うと直樹は私の身体をきつく抱きしめ、

「それは君の妄想だ」

と告げた。

「え?」

「そう、すべては奈桜ちゃんの妄想なんだ。正確に言うなら、すべては奈桜ちゃんの妄想ということになってしまったんだよ。そう言うしかなかったんだ。奈桜ちゃんが通報したんですよね? 気にしないでください、あの子は頭がおかしいんです。そう言ったらおまわりさん、口にこそ出さなかったけど納得してたみたい。奈桜ちゃんをそんな風に言うのは心苦しかったけど、そういうことにすれば全部が丸く収まるからね。――それに、最初に裏切ったのは奈桜ちゃんの方だし」

そう言って直樹はまっすぐに私の目を見た。先に目を逸らしたのは私だった。裏切り、という言葉が改めて私の心に打撃を与えたのだ。

「責めてなーいよ!」

そう言って直樹は再び笑顔を浮かべた。

「責めてない責めてない、大丈夫大丈夫。なんなら僕の方こそ責められるべきだよ。奈桜ちゃんのことを狂人扱いしちゃったんだから」

そう言うと直樹は私の頬に接吻し、

「今回の件は、おあいこ、ってことでいいかな?」

と私に尋ねた。私は黙って頷いた。全てを丸く収めてもらった上に背信まで許してもらえたのだ、直樹の微罪を責めるはずがないだろう。むしろ私は直樹に感謝しなければならないのだ。そのような思いが急激に私の胸中を埋め尽くした。

「ありがとう! 奈桜ちゃん大好き!」

そう言うと直樹は私の唇を勢いよく吸った。私も彼の唇を吸った。それから数分の間、私たち二人は互いの舌を吸ったまま動かなくなった。

 長い接吻ののち、直樹は顔を上げると

「あのさ」

と言って私の胸に顔をうずめた。

「仲直りの証、と言っちゃなんだけど、久々にエッチしない?」

いいよと私は言った。「ありがと」と言って直樹は私を押し倒した。かくして私たちはその日、外出着のままセックスをした。

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