数週間後。いつも通勤に使っていた道を歩きながら、この仕事に行くのも今日で最後かあ、と私は奇妙な感慨に耽った。当初はいつまでもこの日々が続くと思っていたのだが、意外に早くけりがついてしまった。数多くの危機があったにもかかわらず、結局すべては丸く収まってしまったのである。めでたしめでたし。そんな言葉でこの物語を締めくくってもいいだろう、そう私は思った。

 椎葉さんが我が家を訪れることもなくなった。借金はまだ僅かに残っていたのだが、この経営状況なら返済が滞ることもないだろうと見積もられたのである。そのことを椎葉さん本人から知らされたとき、私は四肢の凝りが一挙にほぐされてゆくような解放感を覚えた。もう望まぬ来客にコーヒーを振る舞わなくてもいいのだ。

 さて、昨日は私の誕生日だった。

「今まで苦労かけてごめん」

直樹はそう言って私に頭を下げると、

「これからは二人で楽に生きていこうね」

と言って私に小さな箱を差し出した。

「開けてみて」

蓋を開くと、中には小さなピアスが一揃い並んでいた。乳白色の液体が流れ落ちる寸前に凝固したような形。

「象牙製なんだ。奈桜ちゃんに似合うと思って」

そう言うと直樹は恥ずかしそうにはにかんだ。私はしばらくそれを眺めたあと、ありがとうと微笑んで直樹に接吻した。

 そして今、私の両耳には当のピアスがぶら下がっている。私はカーブミラーに映る自分の姿を眺め、たしかに似合っているな、と思った。よく周囲から毛皮が似合うと言われてきたが、象牙も私にはよく似合うようだ。しかし、私はそれらを身につけた自分自身のことを果たして好きになれたのだろうか。

 バス停に着いた。小さな鞄をベンチに置き、祠に向かい合う。恵比須さまは満面の笑みを湛えてこちらを見返している。暗い夜道には私と恵比須さま以外誰もいない。ただ街灯の光のみが、路面に薄ぼんやりとした楕円を投げかけている。

「今までありがとうございました」

そう言って私は恵比須さまに頭を下げた。

「でも、ごめんなさい」

そう言いながら私は髪を掻き上げると、先ほど家で装着したばかりのピアスを耳朶から取り外した。象牙のピアスは手のひらの上で軽やかに転がっている。

「これ。お返しします」

そう言うと私は手のひらを賽銭箱の上にかざし、指の間から一揃いのピアスをそっと滑り落とした。雫の形をした象牙のピアスは空気の中をしばらく下降したあと、賽銭箱の桟の間に音もなく吸い込まれていった。

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隣人童子 黒井瓶 @jaguchi975

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