毛皮が似合いますね、とよく言われる。特に今の店の客は毛皮を強く勧めてくる。今着ているコートも客に買ってもらったものだ。カーブミラーを見るかぎり、たしかに私には毛皮がよく似合うようだ。しかし実のところ私は毛皮を全く好んでいない。同じく、毛皮を着ている自分自身のことも、私はあまり好ましいと思っていない。

 直樹が店を開くと言い出した次の月に私は今の仕事を始めた。うちの市には「公営マイクロファイナンス」なる制度がある。市民、かつ低所得層、かつ起業の意志がある人間に対し、行政が無担保の融資を行なっているのだ。

 実績も経験も必要ありません。しかも一度融資を受けさえすれば、起業前から完済後まで市の担当職員が丁寧な助言や支援を続けます。そのような文言の書かれたパンフレットを私の眼前に広げ、直樹は自らの事業計画を滔々と語った。

「うちの市は近々駅前を再開発するんだ」

直樹は地図をなぞり、店を置く予定のテナントを私に指し示した。思い返せばあの頃の直樹は今よりもずっと痩せていたしずっと魅力的だった。

「レシピには自信があるんだ。交通量が増えさえすれば、早くて一年、遅くても五年で完済できる」

そう言うと直樹は私の肩を抱き寄せ、

「奈桜ちゃん、僕を信じて」

と言った。かくして直樹は市から融資を受け、駅前の一角に「SHIVA CURRY」という名前のインド風創作料理屋を開業した。あのとき止めておけばよかったのかなあ。暗い夜道を歩きながら、私は変えられない過去に漫然と思いをはせた。開業から今年で四年目、未だ借金は返せていない。むしろ利子の雪がしんしんと降り積もるばかりだ。公営マイクロファイナンスは、担保がいらないぶん利率が高かったのである。

 ここで借りるべきだったのかなあ。私は直樹から手渡されたパンフレット、とりわけそこに書かれた「市の担当職員が丁寧な助言や支援を続けます」という文言を注意深く脳内で反芻した。丁寧な助言や支援。椎葉さんが今私たちにしていることは、果たして丁寧な助言や支援と言えるのだろうか。

 週に一度、椎葉さんという人物が市役所からやってくる。彼は私たちのアパートと「SHIVA CURRY」の店内を訪問し、私たちの事業が軌道に乗っているか否かをチェックしているのだ。私は椎葉さんの高い背丈と日本人離れした風貌を思い返した。椎葉さんはいつも黒い外套と黒い革靴を身につけている。そして彼はカツカツと足音を立ててアパートの階段を上り、私たちの部屋の敷居を跨ぎ、私の出したコーヒーを必ず二杯飲む。

「ミルクは要りません。砂糖はたっぷり」

そう言ってコーヒーを飲み終えると、彼はやっと本格的な「監査」を開始する。

「そういえば直樹さん、玄関に男物のスニーカーが置いてありましたね。あれはあなたのものですか?」

椎葉さんにそう問われた直樹は、ややためらったあと

「はい」

と答えた。

「とてもお洒落なスニーカーですねえ。私はそういった方面のファッションには疎いのですが、さぞかし良いものなんでしょう?」

「いやあ、それほどでも……」

そう直樹が謙遜すると、椎葉は微笑を浮かべたまま

「でも、今秋のニューモデルなんでしょう? 聞きましたよ。有名なデザイナーが手がけたそうで、靴底にも新素材を使ってるとか」

と直樹に向かって畳みかけた。直樹は沈黙してしまった。

「カレー屋の靴に清潔以上のものは必要ありません」

椎葉さんは唐突に笑顔をやめると直樹にそう告げ、

「以後気をつけるように」

と言ってクリップボードに何かを書き込んだ。直樹は立ったまま視線を床に落とし、

「はい。すみません」

と小さく謝罪の言葉を述べた。

「それと奈桜さん、あなたの着てる毛皮のコートも随分とお洒落に見えますが……」

椎葉さんがそう言って私に視線を向けたので、私は慌てて

「頂き物です」

と釈明した。

「頂き物」

椎葉さんはそう言葉を繰り返すと軽く鼻を鳴らし、

「いいでしょう」

と言って再度クリップボードに何かを付け加えた。

 いいでしょう? 椎葉さんの発言を思い返し、私は改めて彼に激しい苛立ちを覚えた。なぜ私は彼に毛皮の着用を許可されなければならないのだ? いくら借金があるとは言え、なぜ私たちは彼に家計の内実を把握されなければならないのだ? せめて店だけにしろよ、と私は思った。何が公営マイクロファイナンスだ。これじゃ公営ヤミ金だよ、そう小さく呟いて私は自らのむらむらとした憤りに方向性を与えた。

 バス停に着いた。既に日は沈んでいる。この仕事を始めてから、私はいつもこの時間のバスに乗るようになったのだ。下校や退勤の時間に近いからか、私の乗るバスよりも逆方向のバスの方がずっと混み合っている。何はともあれ、人と会わずに通勤できるのは気持ちがいいものだ、と私は思った。

 バス停のベンチの横には祠が立っている。祠の中には恵比須さまの像が祀られている。大きな鯛を小脇に抱え、いかにも福の神といった面持ちだ。恵比須さまは七福神の中で唯一日本固有の神なのだと以前なにかで耳にした。しかし目の前の石像は毒々しいほど鮮やかに彩色されているせいでどことなくメキシコ土産のような異国情緒を漂わせている。

 私はいつも通勤前にこの祠の前で手を合わせるようにしている。賽銭は入れない。毎週毎週椎葉さんからの「監査」を受けていると、お金を無駄に使うことがどうしても出来なくなってしまうのだ。それでも手だけは念入りに合わせる。願いはもちろん商売繁盛。かつては神に金運を祈る人を卑しいなどと思っていたが、今はそうも言っていられない。神の手でも借りなければ、私たちの生活はもはや立ちゆかないのだ。

 バスが来た。再度恵比須さまに会釈し、閑散とした車内に乗り込む。嫌だなあ、と思う。仕事に行くのは気が滅入る。今の仕事は尚更だ。しかし働かなければ生きていけない。私がシートに腰を下ろしてスマホを開くと、バスは乱暴に扉を閉じて動き始めた。走り去る刹那、私は祠の中の恵比須さまがこちらにちらりと目を向けたような気がした。

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