気持ち悪い。私はハンカチで口を押さえながら、千鳥足で川沿いの遊歩道を歩いていた。気持ち悪い。細いヒールが石畳の溝にもつれて転びかける。深夜の遊歩道には私以外誰もいない。街灯が左右に揺らめく私の影をさらにゆらゆらと引き伸ばしている。気持ち悪い。本当に気持ちが悪い。

 そもそも私は酒が苦手なのだ。それにさんざん付き合わされた上、あれほど不快な真似をされたら情緒が乱れるのも仕方ないだろう。まったく酷い目にあった。今日の客は今まででワーストかもしれない。店側の対応のまずさも精神状態の悪化に拍車をかけた。非常に気分が悪い。ああ、本当に気分が悪い。

 憎悪の対象は徐々に客から店へとスライドしていった。そしてその矛先は最終的に、私がこの仕事を始めるようになった原因の根本にまで向かっていった。直樹は私の毎日の苦労を理解しているのだろうか。奈桜ちゃん、僕を信じて、だって? 私はずっと直樹を信じてきたよ。いい加減すこしは信頼に応えてくれてもいいんじゃない? 計画と現実が食い違うのは仕方がないことなのかもしれない。とはいえ、見通しが甘かったことについてもう少し反省してもらわないと、一緒の生活を続けていくことは出来なくなりそうだ。

 一緒の生活をやめる? 私はふと自らを省みた。直樹と一緒の生活をやめて、一体どこへ行けばいいのだろう。彼と付き合い始めて何年になる? この土地に移住して今年で何年になる? もう若くはない。実家との繋がりも絶えた。直樹との生活が詰んでいるのなら、私の人生自体も既に詰んでいるのである。

 水の音が鳴る。暗い水面に光の粒が飛び散る。魚でも跳ねたのだろうか。川の方に顔を向けた私は、自らが崖っぷちに立っているのだということを不意に自覚した。全ての迷いが消え失せ、なすべき行動が一つに定まる。みるみる狭まっていく視野を感じながら、私は鞄の中からスマホを取り出して直樹に電話をかけた。

「こんばんは直樹」

「奈桜ちゃんお仕事お疲れ様。こっちは店の片付けだよ」

「そう」

私はそう冷淡に相槌を打つと、パンプスを脱いで冷たい川岸へ下りていった。岸辺は葦の群生に覆われている。私のタイツが歩を進めるたびに、葦の影が触手のように暗く揺らめく。淡水生の二枚貝が砂に埋もれたまま静かに割れる。

「奈桜ちゃんはもう家?」

そのときの私にとって、電話口の直樹の声はどうしようもなく能天気に感じられた。問題が山積しているというのに、なぜ彼はこれほど明るく生きていられるのだろう。しかし先ほどまで私の精神を支配していた怒りはもはや凪いでしまっていた。むしろその時の私には呆れや諦めといった表現こそ相応しかった。もういい。どうせ言っても分からないんだろうから。

「ねえ直樹」

私はそう呼びかけると川面へ一歩踏み出し、

「私これから死ぬね」

と直樹に伝えた。

 直樹は何秒か沈黙したあと、

「もう一回言って?」

と私に言った。

「私これから死のうと思うんだ。仕事も楽しくないし、このまま生きてても暮らし良くなる見込みないし」

なぜかそのとき私の喉は奇妙なほど朗らかな声色を奏でていた。これから死のうと決めた瞬間、私の身体には未知のエネルギーがみなぎってきたのである。川の奥へ奥へと進んでいく足取りもどこかマーチのように力強い。

「奈桜ちゃん、今どこにいるの? 落ち着いて。少しだけ僕の話を聞いて、それから考え直してほしい」

電話先の直樹は車のキーを回したようだ。落ち着いてと何度も言っているが、当の本人がもっとも動揺しているように感じられる。

「私は冷静だよ」

そう私は答えると、さらに川の奥へと歩を進めていった。

「もう死ぬって決めたんだ。もう決めたから心配しなくていいよ。じゃあね、バイバイ! 今までありがとう。全部直樹のせいだよ」

電話先では直樹が早口で何かをまくし立てていたが、私の耳には届かなかった。進む。進む。進む。夜の川を掻き分けてさらに奥へと進んでゆく。

 しばらく進んだとき、私はなにかがおかしいことに気付いた。だいぶ中へ分け入ったのに太腿の辺りまでしか水に浸かっていない。振り返ると私は川の中央を既に越えてしまっていた。これ以上歩いても対岸に着くだけだ。

「遠浅じゃん」

直樹との電話が未だ繋がっているのも忘れ、私は一人そう呟いた。酔いが醒め、自らの無計画な挙動に対する恥ずかしさが土砂のようにのしかかってくる。足が冷たい。服が生臭い。まるでドブだ、と私は思った。これ洗濯で落ちるかなあ。この臭いのままで仕事に出たらお客さん一人もつかなくなっちゃうよ。

 私は黙っていた。直樹はやや間を置いて、

「……生きてる?」

と私に問いかけた。

「……生きてる」

自分のみっともなさに耐え忍びながら私はそう答えた。

「今どこ? 迎え行くよ」

今どこ? 私は直樹の質問を反芻した。「川の中心」というのがもっとも正しい答えだが、まさかそこまで車を出してもらうわけにもいかないだろう。私は周囲を見回して目印となる建物を探した。そのとき私は、自分の今いる川が警察署のちょうど裏手だということに気付いた。私はあろうことか警察署の裏で入水しようとしていたのだ。私はますます自らの猪突猛進ぶりを恥ずかしく思った。

 警察署の裏にまで来てほしいと伝え、私は元いた川岸へと帰っていった。足に砂が鋭く食い込む。傷が出来たかもしれない。雑菌が入ったらどうしよう、そんな恐怖が私の脳裏を駆け巡った。先ほどまで死のうとしていたのに傷口の雑菌を心配するとは、つくづく自分が情けなくなる。

 かくして私は元の岸辺に生還した。「もう死なないから切ってもいい?」と何度か直樹に言ったが、直樹は「心配だから」と言って電話を繋ぎ続けた。破れたタイツを脱ぎ捨て、薄手のハンカチで足全体を拭う。くるぶしに藻が絡みついている。

 その後私は立ち上がると、靴を脱いだはずの地点へ裸足のまま向かっていった。しかしパンプスはどこにも見当たらない。戻る地点を間違えたのだろうか。元いた場所を求め、私は葦を掻き分けて夜の川岸をさまよった。

「今郵便局のとこ曲がった」

直樹は運転しながら私にそう告げた。もうすぐ直樹が来る。その時にはもう少しちゃんとした格好をしていなければ、そう焦った私はパンプスを探す足取りをますます早めた。雑草を踏みしめ、青い汁に足を染めてなお私はパンプスの捜索をやめようとしなかった。盗まれたのではないかという疑念を当時の私は一切持っていなかった。私が見落としているだけだ、この川岸のどこかに必ずパンプスは存在するはずだ。そう固く信じたまま、私は同じ場所を何度も何度も行き来したのである。

「もうすぐ着くよ」

そう告げる直樹の声が電話口から聞こえてきた時、ついに私はあるものを発見した。しかしそれは私が探していたものではなかった。

 それは葦の群生の中心に横たわっていた。それは黒ずみ、痩せ細り、四肢をぐったりと草の上に投げ出していた。私は反射的にそれの手を握ったが、それがもはや生きていないことは誰の目にも明らかだった。表面の至るところに暗い痣が浮かび上がっている。

「ねえ直樹」

「どうしたの?」

直樹の声は未だ緊張していたが、どこかその口調には安堵のようなものも混ざっていた。私が自殺を思いとどまっただけで彼にとっては一件落着なのだろう。

「ねえ直樹。びっくりしないで聞いてね」

私はそう前置きをしたあと、絞り出すような声で現状を報告した。

「志尊くんが死んでる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る