次の日。直樹はSHIVA CURRYの裏手の砂利に車を停めると、私を助手席に残したまま店の勝手口へと向かっていった。

「おーい、ハリー」

直樹がそう呼びかけると扉が開き、中から黒いエプロンを着けたハリーが姿を現した。

「先輩どうもっす」

と言って軽く頭を下げる。眼鏡の奥の眼差しはいつもと同様に覇気がない。晴れの日も雨の日も、常にハリーは不機嫌そうな顔をしている。

 ハリーは直樹の高校の後輩だ。週に一度の直樹の休日、ハリーは直樹の代わりに店を任されている。かなり良い待遇を与えているのだが、彼自身は一向に意欲を見せようとしない。なにか不満があるのか、単に無表情なだけなのか。ハリーのそのような態度を私はやや疎んじているのだが、直樹は一貫して彼を可愛がり続けている。

 ハリーをハリーって呼び始めたのは僕が最初なんだよ、と以前直樹は私に語った。ハリーは外国人ではない。名字が「針井」だった訳でもない。彼は、高校時代の事故がきっかけで周囲からハリーと呼ばれるようになってしまったのである。

 高一の五月、ハリーは交通事故に遭った。幸い命に別状はなかったが、片足を骨折したせいで彼は部活動にしばらく参加できなくなってしまった。それでもハリーは部活動に通うのを辞めなかった。彼は、部員たちのマネージャーとしての仕事を進んで買って出たのである。(今のハリーしか知らない私は、かつての彼がそのような積極性を有していたと知ったときいささか驚きを覚えた。)彼は杖をつきながら毎日部員たちと時間を共にした。その頃から、直樹は彼の努力を讃えて彼をハリーと呼ぶようになった。眼鏡をかけて杖を持っている姿が有名なファンタジーの主人公を彷彿とさせるからなのだという。彼のつけたあだ名は瞬く間に学校全体へ広まった。かくして彼は、骨折が治って以後もハリーと呼ばれ続けることになったのである。

「今日はどうしたんすか?」

先輩は非番っすよね、と言いながらハリーは腕のデジタル時計に目をやった。気怠げだが忙しそうには見えない。平日のこの時間帯はいつも準備中なのだ。

「デカい肉が手に入ってさ。冷凍庫に入れなきゃいけないから、手伝ってほしいんだよね」

直樹がそう言うとハリーは怪訝そうに眉をひそめた。

「デカい肉? 一人で運べないんすか?」

「うん。おそらく二十キロは下らないね」

二十キロと言われた瞬間、ハリーの顔色はますます険しくなった。

「今はドライアイスを巻きつけて車のトランクに積んであるんだけど、クーラーボックスがないからこのままじゃじきに傷む。だから冷凍庫に入れるのを手伝ってほしいんだ」

そうハリーに説明したあと直樹は一段と声を潜め、

「あと、この肉のことはくれぐれも内緒にしておいてほしいんだ。ちょっと人には言えない経路で入手した品だからね」

と付け加えた。

「人には言えない、ですって?」

ハリーは目を見開いた。

「まさか、人肉とか?」

ハリーがそう直樹に問いかけると、直樹はにやりと笑って

「さあ、どうだろうね」

と言った。

「やめてくださいよ!」

慌ててハリーが扉を閉めようとしたので、直樹は

「冗談冗談」

と言ってドアノブに手をかけた。

「人の肉じゃなくて象の肉、南方からの密輸品だよ。所持は一応合法なんだけど、取引先に迷惑がかかるからくれぐれも他言無用でよろしく」

そう直樹がハリーに語ると、ハリーは

「なるほど、象の肉ねえ」

と言って口をひねった。

「でも先輩、なんで象の肉なんて買ったんすか」

「まだレシピの研究中なんだけど、上手くいったら僕がいる時だけ裏メニューとして出そうかと思っててさ」

「象の肉なんて調理するのも食べるのも嫌っすよ自分」

「大丈夫、ハリーは今運んでくれさえすればいい」

そう言ってハリーを店の外に連れ出すと、直樹は車のトランクを開けて中の包みをハリーに示した。直樹が「象の肉」だと主張しているそれは、銀色の保冷シートとガムテープによって中身が見えないよう厳重に覆われている。トランクから外気に向かってドライアイスの白い靄がとめどなく溢れ続けている。

「少しでもシートをめくるとそこから腐敗が始まっちゃうから、くれぐれも中は覗かないようにね」

「分かりました」

「冷凍庫に入れてからもいじらないように」

「分かってますって。言われなくてもいじらないっすよ象の肉なんか」

そう言うとハリーは膝を曲げてかがみ込み、

「自分どっち側持てばいいっすかね?」

と直樹に尋ねた。

「足の方持ってくれる?」

そう言って直樹がハリーの反対側に手を伸ばすと、ハリーは

「足の方?」

と直樹に聞き返した。

「ああ、これ子象の足なんだよ」

と直樹。

「なるほど。豚足ならぬ象足ですか」

そう納得しながらハリーは荷物を両腕で抱え込んだ。

「旨いラーメンだしが取れるかもね」

そう嘯きながら直樹も荷物を持ち上げる。かくして二人は、「子象の足」と呼ばれているものを軽々と店の中へ運び込んでいった。

 しばらくして直樹は再び勝手口から姿を現した。

「ありがとう、お疲れ様!」

と厨房のハリーに声をかけ、運転席に乗り込む。

「待った?」

そう聞いてくる直樹に対し、私はスマホに目をやったまま

「大丈夫」

と答えた。

 車が動き始める。一方通行の道を十五パズルのように迂回し広い通りへ出る。その瞬間、SHIVA CURRYの表口が一瞬だけ窓の外に見える。サイケデリックな看板の横にガネーシャの像が置かれている。なんで店名にシヴァが入ってるのに像はガネーシャなの? 開店して間もない頃、私は直樹にそう尋ねたことがある。ガネーシャの方が絵になるじゃん。商売繁盛の神だし、一応シヴァの息子だし。その頃の彼は肩をすくめて私にそう答えた。午前の明るい空の下、通りの人影はまばらである。

 昨晩、警察署の裏に到着した直樹は通報しようとする私を制止した。

「奈桜ちゃん待って! 落ち着いて!」

そう言うと直樹は私の肩をきつく抱き、

「志尊くんは、神様から僕たちへのプレゼントかもしれない」

と私に言い聞かせた。

「どういうこと? 正気?」

私は直樹の手を振りほどこうとした。私はそのとき直樹のことをついに気が狂ったのではないかと疑っていた。生きた子供ならともかく、死んだ子供を「神様からのプレゼント」と呼ぶなんて。

「僕は正気だよ!」

そう言ってさわやかな作り笑顔を浮かべると、直樹はなだめるような声で

「僕たちはあれがどの家の子だか知ってるでしょ?」

と私に問いかけた。

「どう見てもあれは至尊くんの死体だ、淡島さんちの子の死体だ」

直樹はそう言うとこちらの目をじっと見つめて、

「ゆすろう」

と一言私に伝えた。

「え」

「ゆすろう。これは殺人だ、虐待死だ、死体遺棄だ。僕たちが通報すれば淡島さん夫婦の人生は終わる。僕たちには何の見返りもない。ゆすればあの夫婦は捕まらずに済むし、僕たちは生活を立て直すことが出来る。これってウィンウィンでしょ? ねえ奈桜ちゃん、淡島さんをゆすろうよ」

直樹は私にそう言い終えた。私は鉄臭い唾をごくりと飲み込むと、

「最低」

と一言直樹に返した。

「最っ低。最低!」

「待って奈桜ちゃん」

直樹は再び振りほどこうとする私の肩を抱きしめた。

「そうでもしないと立ちゆかないところまでもう僕たちは来ちゃったんだよ! これは千載一遇のチャンスなんだ。これを逃したらもう後はないんだよ!」

全部直樹のせいでしょ? 私がそう言い返そうとした瞬間、私たち二人の顔を赤い光が照らした。サイレンの音。反射的に私たち二人は手を取り合い、葦の陰へ頭を隠した。

 警察署から出動したパトカーはランプを点灯させ、急発進で高架の方へと走り去っていった。私はハーッと鈍重なため息を吐いた。まさか警官たちも、自分たちの目と鼻の先で大事件が起きているとは思いもしないのだろう。

 もう降りれないよ。もう共犯者だよ。直樹の大きな手を掴みながら、私はそう観念した。そしてそれを敏感に察知したのか、直樹は小声で私の耳に

「死体をトランクに運ぼう」

と囁いた。私は無言で頷いた。かくして直樹はその夜、生者ひとりと死者ひとりを無事に自宅へ連れ帰った。

 そして今、直樹は安全なスピードで車を走らせている。カーラジオは平和ボケした声色で高速道路の渋滞情報を私たちに知らせている。右隣の直樹を眺め、昔よりだいぶ太ったなあ、と感じる。首には二重顎、ハンドルを握る指もコッペパンのように太い。廃棄のインド料理だけでそれほど太れるものなのだろうか。

「どうだった?」

私がそう尋ねると、直樹は前を向いたまま

「大丈夫でしょう」

と私に答えた。最後の「しょう」の部分をやけに強調した彼の喋り方は、どことなく自分自身に言い聞かせているようにも感じられた。

「それにしても軽かったよね」

直樹がそう私に話しかけたので、私は

「え?」

と聞き返した。

「至尊くん」

「ああ」

私は自分たちが何の話をしていたかを思い出し、

「軽かった」

と答えた。

「長らく食べ物もやってなかったんだろうね。殴られて死んだのかと思ってたけど、ひょっとしたら餓死かもしれない」

そう言いながらハンドルをゆるやかに回し、直樹は

「まあ僕たちにとっては運びやすいから好都合なんだけどさ」

と言葉を継いだ。最低。最っ低。私はそう思ったが、自分もまた最低の仲間であることを省みて口を噤んだ。街の景色が後方へ流れてゆく。はぐれ雲が鉄塔と重なる。

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