五
「一時間以上帰ってこなかったら通報してね」
玄関で靴紐を結び終えた直樹は、ベランダで双眼鏡を構えている私にそう声をかけた。双眼鏡の先には淡島さんの家が聳え立っている。直樹は左手に白菊の花束を持ち、右手に紙袋を下げている。花束は相手にプレッシャーを与えるためなのだという。
「もし通報することになったら罪は全部僕にかぶせていいからね」
扉を開ける寸前、直樹は再度私にそう告げた。
「帰ってきてね」
そう私が言うと直樹は黙ったまま扉を開け、アパートの階段を降りていった。ひとりぼっちの室内にて、私は自分自身のことをつくづく馬鹿だと感じた。今まで何度も裏切られてきたのに、優しい言葉をかけられただけですぐほいほいと協力してしまう。
しばらく双眼鏡を覗いていると、不意に画面の端から直樹が出現した。パーカーのフードを被り、太い腕に花束と紙袋を抱えている。直樹は鉄柵を越え、傾斜を下り、トタンの敷かれた用水路を渡って淡島さん一家の領土に侵入した。そして彼は国境を警備していた頭の悪そうな犬に一切れのビーフジャーキーを放ると、平和の使者のような面持ちで淡島さんの家の扉をリズムよく叩いた。犬は直樹の放った肉片を拾うと彼に背を向け、こそこそと人目を憚りながら空腹を満たし始めた。
ややあって扉は内側から開いた。双眼鏡のピントが家主の顔に集中する。旦那さんは休日だったのか、毛玉のついたトレーナーに無精髭という格好で直樹の前に姿を現した。無精髭と言ってもそれほど濃くはない。眉毛同様、口の端や唇の下に細筆のような毛がちょぼちょぼと散らばっているだけである。つくづく平安貴族のような顔立ちだ、と私は思った。烏帽子と狩衣を着せさえすれば百人一首の絵札にも自然と溶け込むだろう。
私が彼の人相を観察していると、旦那さんは直樹へ向かって不審そうに何かを尋ねた。直樹も短く返答している。それに再び旦那さんが問いをぶつけ、再度直樹が答える。とそのとき、突如旦那さんは直樹に殴りかかろうとした。しかし直樹は反射的にそれを避け、隙をついて旦那さんを玄関の土間に押し倒した。彼自身もずかずかと家の中へ押し入っていく。直樹が後ろ手でドアを閉めたことにより、私の視界から二人の姿は完全に消え失せた。
私は双眼鏡を置き、時計を確認してペットボトルの麦茶に口をつけた。一時間待つ。一時間以上直樹があの扉から出てこなかったら、全てを彼になすりつけて警察に通報する。そう頭の中で自分がなすべきことを確認し、私はごくりと麦茶を飲み込んだ。
二十分経過。視界には動きがない。四十分経過。直樹は一向に姿を見せない。私は双眼鏡を置くとウェットティッシュで額を拭った。飲み込んだはずの麦茶が胃の中でみるみる重くなっていく。体格を見たかぎり、旦那さんは直樹よりもずっと貧弱に感じられた。しかし、もし家の中に他の男がいたら……そのようなことを考えて私が気を揉んでいた丁度その時、平屋の扉が開いた。中からさっぱりとした表情の直樹が現れる。手には花束も紙袋もない。旦那さんの姿もない。直樹は廊下の奥に一言声をかけると、扉を閉めて意気揚々と帰路に就いた。
数十秒後。長い階段を上り、ついに直樹は私のいる部屋へ凱旋帰国した。
「奈桜ちゃんただいま」
そう言って直樹が私に笑顔を向けた瞬間、私は言葉にならない声を上げて直樹にしがみついた。目からだらだらと熱い涙が湧き上がる。自覚していた以上に私は直樹のことを心配していたのだ、と私はその時はじめて気付いた。お気に入りのパーカーが汚されるのも気にせず、直樹は私の頭を何度もゆっくりと撫でた。
私の感情が完全に収まったのを見届けてから、直樹は淡島さんの家で話した内容について報告し始めた。
「淡島さんとこの旦那さん、忠孝さんって言うらしいんだけど、が出てきた時、僕は試しにしばらく黙ってたんだ。向こうがなんて言ってくるか気になってね。そしたら忠孝さん、『何しに来たんだ?』って言うんだよ。これ以上からかってもしょうがないかなと思ったから、僕は単刀直入に『至尊くんの件で話があります』って言ったんだ。そしたら忠孝さん、顔色変えて『なんで知ってる』って僕に詰め寄るからさ。『まあまあ、経緯は追って話しましょう』って言ったら、奴さん急に殴りかかってくるんだよ。回避できたからよかったけど、当たってたらかなり痛かっただろうね。あのパンチが無抵抗の子供に向かって振るわれてたと思うと、ぞっとするよほんと」
そう言うと直樹は座椅子に腰を下ろし、マグカップに残っていたインスタントのブラックコーヒーを無造作に飲み干した。
「家の中に入ったら奥さんがいたんだ。訓子さんって言うらしいんだけど……玄関での会話が聞こえてたんだろうね、僕の顔を見て不安そうにしてた。だからこっちも緊張を解くために自己紹介したんだ。『直樹って言います、隣のアパートに住んでます』って。秘密にしててもどうせ顔は覚えられてるだろうし、そこはバラしちゃおっかな、って。んで、ちゃぶ台の上にカップのコーンスープが転がってたから『これ新発売のやつですよね? 知ってますよ、美味しいですよねー』とか適当に喋ってたら、忠孝さん不機嫌そうに『早く本題を言え』とか言うんだよ。仕方ないから僕は早速紙袋の中身を開けたんだ。で、『この顔に見覚えはありますか?』って言ったんだ」
私は「紙袋の中身」を見せられた時の二人の表情を想像した。直樹は、死んだ至尊くんのデスマスクを紙袋に入れて淡島さんの家へ持っていったのである。直樹が作った石膏のデスマスクは至尊くんの歪んだ顔を忠実に再現していた。それが死体から生じたものであるにもかかわらず、私はその真っ白い仮面を見たとき、なぜかひょっとこのような縁起物に近い印象を覚えた。
「ふふふ、驚いたでしょう。こないだ河原で見つけたんですよ。可哀想に、このままじゃ腐ってしまう。そう思って僕は至尊くんを保管することにしたんです。いま至尊くんはあなた方の手の届かないところでぐっすり眠ってますよ。このデスマスクはその証拠。――僕がそう言ったら、忠孝さん血相変えて『何をする気だ』って叫ぶんだよ。だから『僕は虐待されてる児童を保護したまでですよ』って言ってやったんだ。『これからどうなるかはお二人の誠意次第です。お二人から誠意が感じられればお子さんは無事お返ししますが、感じられなければ最悪警察のもとへ届けるかもしれません』ってね」
「……ちょっとやりすぎじゃない?」
私は直樹のサディスティックな微笑に不穏な空気を感じた。
「ああいう人たち、追い詰めすぎるとかえって暴発するよ」
そう私が忠告すると、直樹は
「そうだね、たしかに反撃してきた」
と言って肩をすくめた。
「ふーん。直樹さん、あんた俺をゆする気なのか。そう言うと忠孝さん、僕に顔を近づけてこう言ったんだ。『知らなかったかもしれないけど、俺には悪い友達がたくさんいてね』って。だからすぐ『僕にも友達はたくさんいます』って返したんだけど、そしたら――」
「え、待って」
私は直樹の話を遮り、
「直樹、ヤクザと繋がりあるの?」
と恐る恐る詰問した。
「あるわけないじゃん」と直樹。
「僕は『僕にも友達はたくさんいます』って言っただけだよ。ハッタリハッタリ」
ヤクザとの繋がりを否定され一瞬私は安堵したが、すぐさま別の不安に襲われた。
「じゃあ向こうの脅しはどうなるの?」
そう私が問うと、直樹はさも当たり前のように
「ああ、忠孝さん? あっちもハッタリだよ」
と答えた。
「ヤクザと繋がってる人間があんなとこに死体捨てる訳ないじゃん」
そう答えると直樹は楽しそうにカラカラと笑った。私も一緒に笑おうとしたが、頬肉を司る歯車の油が切れているのか思うように口角が上がらない。直樹って昔からこんな人だったっけ。椎葉さんの話しぶりに影響されてしまったのだろうか、と私は思った。
「まあとにかく、そうやってハッタリを相殺したら忠孝さんはまた静かになったんだ。で、僕もさすがにいじめすぎたなーと思ったから、前よりも優しい声色で『どうして殺してしまったんですか?』って聞いたのよ。そしたら忠孝さんしばらく唇を震わせてたんだけど、ゆっくり口開けて絞り出すように僕に言ったんだ。『教育の、失敗です』って」
「教育の失敗」
私は思わず直樹の放った言葉を復唱した。
「うん。急にしおらしくなったから驚いちゃったよ」
そう言って微笑んだあと、直樹は忠孝さんの長い懺悔を私に伝言し始めた。
――――――
俺は、自分は、もともと子供を作る気じゃなかったんです。子供ってやつは昔から嫌いでね。でもあいつは、訓子は産むって言い張った、そんな感じで至尊は生まれたんです。はじめは反対したんですが、あいつの腹が膨れてくのを見てるうちに自分の考えも変わりましてね。赤ん坊の顔見たら俺にも芽生えるんじゃないかな、子への愛が、いわゆる「父性」ってやつが、そう思ってました。
でも、生まれた赤ん坊の面見たらその期待が浅はかだったことに気づきましたね。(そう言いながら忠孝はデスマスクを手に取った)いやあ、こんな顔ってありますかね。子供らしい可愛らしさってやつがありゃしない、誰が見ても醜いと思う顔だ。なあ訓子、(そう言って忠孝は妻の方を向いた)親の俺らが見てもそう思うよなあ? 俺たちは本当の意味での「親の愛」ってやつを至尊に注ぐことが出来なかったんです。だからでしょうね、至尊の側も俺たちを愛することなく、どこまでもひねくれた、性悪なガキになっていきました。
あれをきちんと教育しようと試みたのも、愛ゆえのことではありませんでした。親というものは子を正しい側へと教え導かなければならない、そういった世間一般の義務とでも言いましょうか、あの頃の俺はそんなものに突き動かされてたんです。だからでしょうかね、はじめは単なるしつけだったのに、際限がなくなってしまったのは。
殴る、蹴る、食事を抜く……その頃の俺は、子供を従わせるための方法をこの三つ以外知らなかったんです。いや、それ以外の方法を誰も教えてくれなかった、と言ってもいい。病院も、学校も、行政も、俺たちに親としての正しい生き方を教えてくれなかったんです。直樹さん、あんただって至尊が生きてた頃から虐待には薄々気付いてたんでしょう? それなのに死んでからしか接触に来ないんだ、まったくおかしいや。(そう言って忠孝は暗い笑いを漏らした)まあそうやって余所様を責めても始まりませんやね。結局のところ、一番悪いのは俺たち二人なんですから。
至尊が死んだとき、家には俺と至尊の二人しかいませんでした。いや、正確には「至尊の死を確認した時、家には俺しかいなかった」と言った方が正しいかもしれませんね。その日訓子は朝早くから一人で出かけてたんです。その頃の至尊は動き回る元気もなく、一日じゅう布団の上で寝転がってました。風邪も引いてたんじゃなかったかな?
さすがに可哀想だなと思ったんで俺もシリアル作ってやったんですよ。おーい至尊、シリアルだぞ。そう言って布団めくったら、やつ息してないんです。顔色真っ青、痣のところが黒ずんできてる。漏れ出た尿でせんべい布団がしっとりと濡れてました。死んでる。そう気付いた瞬間、俺の顔も至尊と同じくらい真っ青になりましたね。殺しちまった。実の子を殺しちまった。自分と家内のこれからの人生が頭をよぎりましたよ。いやあ、今までの人生も大して明るいもんじゃなかったんですけど、刑務所よりはね。
救急車、警察、そんなものは頭に浮かびませんでした。丁度そのとき、俺は粗相をしたときの犬のような心理になってたんです。早く目の前の物を隠さなければ。家内が帰ってくる前に片をつけてしまおう。そう思った俺はぐったりした至尊を車に運び、河原の草むらに投げ捨てました。(そう忠孝が言い終えたとき、訓子は顔を押さえて泣き崩れた)
すいませんね、実を言うと具体的なことは今まで訓子にも話してなかったんです。まあ至尊がいなくなったのとか俺の表情とかで大体察しはついていたようですが……(訓子の方を向き)悪い、悪い、もっと先に言っておくべきだったよなあ。こんな大事な話。
いやね、言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、俺には俺なりの考えがあったんですよ? 俺としては、訓子の罪にしたくなかった、みたいな思いもあったんですよ。(訓子の方を向き)本当だって! 至尊が死んだ、この件に関しては俺一人のこととして罪を背負っていきたい、俺はそう思ったんです。だから直樹さん、あんたが何を求めているかは分かりませんが、この件に関しては男と男の問題としてどうにか処理していただきたい。俺一人の魂なら、いつでも差し上げますので。
――――――
忠孝さんの懺悔を伝え終えると直樹は一度コーヒーに手を伸ばした。窓の外で風が鳴っている。平屋の雨戸も揺れているだろう、と私は思った。喉の渇きを癒やすと、直樹は再び語り始めた。
「そう忠孝さんが言い終えたから、僕は『魂なんて取りませんよ』って言ったんだ。『忠孝さん、既にお気付きかと思いますが僕は天使ではありません。しかし悪魔でもありません。罪や汚れにまみれた同じ人間同士、話し合いで決着させようじゃありませんか』って」
そう言うと直樹は両手の指を折り、
「最初に僕が提示した額は――」
と言ってとある数字を私に示した。借金の残額にほぼ等しい。
「かなり厳しいはずなんだけど、忠孝さん、『それで勘弁していただけるんですか』って僕に言ったんだ。最初の対応に比べて異様に謙虚だから笑いそうになっちゃったよ」
そう言って直樹は頬をほころばせた。
「勘弁していただけるんですか。そう聞かれた時、僕は寛容そうに頷いてみせたんだ。『もちろん』って。『でも払えるんですか?』って聞いたら『いきなりは……』って言葉を濁すから、僕は『分割でいいですよ』って言ったんだ。『こちらのデスマスク、これを毎月一枚持ってきます。それをあなたは×万円で買ってください。この交換を×ヶ月行えばあなたは口止め料の全額を支払い終えます』って。快諾だったね。だから持ってったデスマスクもその場で売っちゃった。手持ちが丁度あったみたいでね」
そう言うと直樹はパーカーのポケットに手を突っ込み、中から言ったとおりの額の紙幣を無造作に取り出した。皺くちゃの紙幣が床に一枚また一枚と並べられていく。現金を目の前に広げられてはじめて、私は直樹が淡島さん夫妻から奪った金額の大きさを実感した。彼は、私が何週間も夜働いて稼ぐのと同額のお金を口八丁で手に入れてしまったのである。しかもその額は、夫妻が心中・失踪・自首などをしないかぎり毎月入ってくるのだ。
私が紙幣に目を奪われているうちに、直樹はゆっくりとこちらへ擦り寄ってきた。そして直樹は私の肩を抱き寄せると、
「交渉成立を祝して、っていうのも変だけど、久々にエッチしない?」
と私に囁いた。いいよと私は言った。「ありがと」と言って直樹は私を押し倒した。かくして私たちはその日、散らばった紙幣の横でセックスをした。
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