その日以降、直樹はアパートと平屋の間を往来するようになった。行きは必ず手にデスマスクを、帰りは紙幣を持っている。なんて奇妙な交易なのだろうと私は思った。至尊くんの死を契機に、私たちと淡島さん夫妻の間では不平等な通商条約が結ばれたのだ。また私は、これほど多くのデスマスクを直樹はどこで作っているのだろうとも訝しんだ。閉店後のSHIVA CURRYの厨房で氷漬けの死体を石膏に浸しているのだろうか。

 とにかくその日から私たちの経済状況は徐々に好転していった。口止め料の支払いと共に店の収益も不思議と上がっていったのである。私は未だ以前と同じ仕事に就いていたが、昼の仕事に転職できる日もそう遠くはないだろう。その希望によって、かえって私は今の仕事への耐性を高めることに成功していた。いずれ辞めると思えばこそ目の前の仕事にも精が出るのである。

 椎葉さんの来訪も以前ほどの苦痛ではなくなった。返済のスピードが向上したことにより、椎葉さんの態度は著しく軟化したのだ。

「お二人も変わりましたね。貸し手冥利に尽きますよ」

そう椎葉さんがコーヒーを飲みながら言ったので、私は怯えつつも

「椎葉さんも変わりましたね」

と切り返してみた。すると椎葉さんは朗らかに笑い声を上げた。弛緩した空気。まったく、同一人物とは思えない。

 コーヒーを飲み終えると、室内の「監査」も程々に椎葉さんは部屋を出ていこうとした。いつもだったら安堵するところだが、私は思わず

「今日はこれくらいでいいんですか?」

と彼に問いかけてしまった。

「ええ。後が詰まってますから」

そう言うと彼はしばし表情を曇らせ、

「この地区に新しい借り手が現れましてね。額は直樹さんとほぼ同じなのですが、いかんせん事業計画が無いも同然なのでこちらとしても苦労してるんですよ」

と私に明かした。

「そうだったんですね」

「ええ。だからお二人に割く時間はこれから減ると思います」

そう言うと椎葉さんは扉を閉め、カツカツと音を響かせて階段を下りていった。部屋に静寂が戻る。私はコーヒーカップを洗いながら、生活の向上をひそかに喜んだ。

 そう、私はひそかに喜ばなければならなかった。私たちの成功は法にも倫理にも反していたからだ。たしかに直樹の言うとおり、私たち二人と淡島さん夫妻の関係は「ウィンウィン」だった。一日目こそややサディスティックだったものの、それ以降直樹の取り立ては至って良心的だったのである。しかしその互酬関係の根底には一人の子供の死体が埋まっていた。一人の子供の犠牲の上に成り立つ「ウィンウィン」とやらに果たしていかなる価値があるのか。いやしかし、正義を振りかざしたところで至尊くんが蘇ることはない。それなら生きている人間の利益を優先した方がいいのではないか……そのようなとりとめのない葛藤が、当時の私の脳裏には鳥影のように始終去来していた。それを察したのか、直樹はその頃しばしば私に高価なプレゼントを買い与えた。アクセサリーを貰うこともあれば、食事や映画に連れて行かれることもあった。そしてその瞬間だけ私の脳裏の雑音は不思議と鳴りを潜めた。それゆえ私は直樹からのプレゼントに対して心からの喜びを示した。しかし直樹が去って一人になると、葛藤は激しさを増して私の元へ再来した。お前はプレゼント程度で至尊くんの死に蓋をするのか? 現金な奴め。そのような囁きのせいで、生活が軌道に乗っているにもかかわらず私は未だ精神の安寧を見出せていなかった。

 そんなある日。私はスーパーへ向かう道の途中、いつも使うバス停の横で足を止めた。昼の光の下で見る恵比須さまは普段より色褪せて感じられる。思えばここで金運を願った日の夜、私たちは河原で至尊くんの死体を拾ったのか。不思議な縁だと思いつつ私が惰性で頭を下げていると、

「あの」

背後で女性の声がした。

 驚いて振り返る。と、そこには淡島さんの奥さんの姿があった。

「訓子さん」

そう私が名を呼ぶと、彼女は

「今、お時間ってありますか?」

と私に問いかけた。

「なんでですか」

「至尊のことで話があるんです」

訓子さんが声量を下げようともせず至尊くんの名を口にしたので、私は反射的に周囲を見回した。なんて無防備なのだろう。至尊くんの死が周囲に露見したら、私たちと淡島さん夫妻を結ぶ「ウィンウィン」の関係はただちに瓦解してしまうのに。

「今ここで、ですか?」

私は眉をひそめてそう尋ねたが、訓子さんは

「今ここで、です」

と言って譲らなかった。見ると周囲には恵比須さま以外誰もいない。屋内の喫茶店などを用いるよりも実はずっと安全なのかもしれない。そのようなことを思いながら、私は訓子さんと共にバス停のベンチへ腰を下ろした。

 暖かい日差しが家々を照らしている。排気ガスの混じった微風が私と訓子さんの髪を順番に撫でる。道には一台の車も見えない。私と訓子さん以外の人類はみな長い午睡でも貪っているのだろうか。祠の恵比須さまが私たち二人の後頭部を並べて睥睨している。

「奈桜さん、でよろしかったですよね」

訓子さんは私にそう尋ねた。

「はい」

そう私が答えると、訓子さんは若干の逡巡ののち

「至尊の件、奈桜さんの口から通報していただいてもよろしいでしょうか」

と私に要望を投げかけた。

 しばらくの間、私は訓子さんの意図を理解できずにいた。

「すみません、もう一度言ってもらってもいいですか?」

「はい。至尊が殺されたということを、奈桜さんの口から警察に通報していただきたいんです。奇妙なお願いだということは承知しています」

「なぜ」

私がそう問うと、訓子さんは至尊くん殺害の経緯をつらつらと明かし始めた。彼女が言葉を継げば継ぐほど私の混乱は深まっていった。彼女の告白は、直樹から聞かされていた事件内容から大きく乖離していたのである。

            ――――――

 私は息子を、至尊を愛していました。たしかにあの子はあまり出来の良い子ではありませんでした。しかしそんなことは大きな問題ではありません。行いがどうであれ、至尊は紛れもなく私の子供だったんです。

 ただ忠孝さんは……主人はそう思ってなかったようで。このあいだ直樹さんの前でも言ってましたが、主人は至尊に対して愛情というものを持とうとしなかったんです。いや、より正しくは、持てなかった、のかもしれません。努力はしたのでしょうが、主人はついに父親らしい感情を息子に向けることが出来なかったんです。

 忠孝さんが至尊に鬱憤をぶつけるたびに、私はやりきれない思いを覚えました。しかしそれでも私は忠孝さんを止めようとしませんでした。恐怖? うーん、どうでしょう……恐怖というよりも、申し訳なさ、のようなものをあの頃の私は忠孝さんに対して抱えてたんです。彼は反対してたのに、こんな出来の悪い子供を産んでしまって申し訳ない、って。今思えば異常な心理状態だったのかもしれません。

 それだけじゃありませんね。その頃の私は、至尊本人に対しても申し訳ないという思いを抱いていました。忠孝さんの虐待を止めてあげられずごめんね、駄目な母親でごめんね、そんな二重の申し訳なさに押し潰されそうになってたんです、私。

 虐待を止めるのは忠孝さんに申し訳ない。止めないのは至尊に申し訳ない。そんな葛藤に苛まされていたある日、ついに私は見つけちゃったんです。答えを。こんな問題が生じたのは私が至尊を産んだからだ。だったら私が至尊をなんとかしよう。そうすれば忠孝さんも、至尊も、そして私もこれ以上苦しむことはなくなる。そのとき家には私と至尊しかいませんでした。私は布巾を水道で濡らし、寝ている至尊の顔を上から押さえつけて窒息させました。しばらくもがいてましたが、既に随分と弱ってましたからね。数分後にはぐったりとなってしまいました。ああ、可哀想な至尊!(そう言って訓子はしばし泣き伏せた)

 ごめんなさいね、取り乱しちゃって。(顔を上げる。マスカラが流れてしまっている)至尊が動かなくなったあと、次は自分の番だ、と私は思いました。そこが天国であれ、地獄であれ、至尊と同じところに行こう。そう思って私は家を後にしたんです。それから……そうですね、日が暮れるまで私は色々なことを試しました。ビルの屋上に行ってみたり、橋の下を眺めてみたり、でもねえ、駄目ですね。どうしても恐怖には勝てなかったんです。忠孝さんを一人にしてはいけない、そんな思いを言い訳にしてその日はよろめきながら家へ帰りました。

 家に近づいた時、私は窓が明るいことに気付きました。忠孝さんが帰ってきていたのです。気付いてたらどうしよう、私のことをどう思っているだろう……そう怯えながらも、私は恐る恐る自分の家の敷居を跨ぎました。そこ以外に私の行く場所なんてないですからね。

 見回して驚きましたよ。家を出る前は布団にのびちゃってた至尊が、今じゃどこにもいないんですから。ただ部屋では忠孝さんがひとり畳の上で焼酎を飲んでいるだけでした。

「至尊は?」

そう私が聞くと忠孝さんは黙って腕を広げ、私を抱き寄せました。そしてあの人、

「訓子、許してくれ」

って言ったんです。

 その瞬間、私はあの人が至尊をどこかへ隠してくれたのだと悟りました。許しを乞いたいのは私の方でしたよ。至尊を殺したのは紛れもなく私だったんですから。

「ごめんなさい、私こそ」

って言ったら忠孝さん、

「いや、俺だよ」

って。その日はそのまま二人して泣き続けました。

 そんな経緯がありましたから、直樹さんが来るまで私は、私が至尊を殺したのだということを主人は察知しているのだろう、と思ってたんです。だから主人が至尊を捨てたいきさつを直樹さんに話したとき、私は思わず泣き崩れてしまいました。主人は至尊が自分の虐待によって衰弱死したと思ってたんです。大変な罪の意識を背負わせてしまった、そう私は思いましたが何も言い出せませんでした。今もなお、主人はその時と同じように至尊の死を捉えていると思います。

 直樹さんが来てから私たちの生活は大きく変わりました。忠孝さんが支払いを滞らせてしまったとき、直樹さんは忠孝さんを怒ろうとしませんでした。むしろ彼は忠孝さんに起業をしないかと勧めたんです。直樹さんは市役所からパンフレットを持ってくるとそれを主人に渡し、「公営マイクロファイナンス」について説明しました。なんでも、起業を考えている人には市が無担保でお金を貸してくれるそうですね。今まで主人はお金を作ることにあまり関心を向けてなかったのですが、直樹さんに勧められてからは新しい会社の計画を日夜考えるようになりました。直樹さんのおかげで、主人は以前よりもずっと仕事熱心になったんですよ。(そう言われたとき私は反射的に先日椎葉さんが言っていた「新しい借り手」のことを思い出した。また私は、近頃直樹の喋り方がどことなく椎葉さんに似てきた理由はこれだったのか、とも思った)

 意外に思うかもしれませんが、直樹さんに口止め料を払うようになってから忠孝さんの表情はずっと晴れやかになったんです。なんでだろうなんでだろうと疑問に思ってたんですけど、このあいだ忠孝さん本人から「罪滅ぼしだと思ってる」って言われて納得しました。もちろん至尊とは比較になりませんが、私たちにとっては直樹さんも奈桜さんもだいぶ年下じゃないですか。お金を払えばお二人の生活が向上する、そうすれば至尊に関する罪を相殺することが出来る。忠孝さんの脳内ではそのような理屈が組み立てられていたのかもしれません。

 ただ、私はその理屈に乗っかることが出来なかったんです。直樹さんにお金を払うこと、それによってお二人の生活が改善されること、これと至尊の死の間にはなんの関係もないじゃないですか。それで罪滅ぼしになると考えるなんて虫が良すぎます。私たちは本当の意味で罪を償わなければいけない、そう私は決心しました。だから私は今日奈桜さんに声をかけたんです。至尊の件を警察に通報してください、そうお願いするために。

            ――――――

 訓子さんの長話がここまで行き着いた時、私は思わず彼女の言葉を遮った。

「なぜ私が通報しなきゃいけないんですか?」

罪を償いたいと思っているならあなたが自首すればいいじゃないですか。そう私が問うと訓子さんは少し顔を曇らせ、

「私にそれが出来ない理由は、あなたにもよく分かるでしょう」

と言いながら擦り寄ってきた。

「分かりません」

そう私が答えると訓子さんは困ったように眉尻を下げ、

「私は弱い人間なんです。今のまま直樹さんにお金を払い続けても罪を償うことにはならない、だから大人しく裁きを受けよう。そう強く誓っているにもかかわらず、主人を裏切ることがついに出来なかったんです」

「ちょっと待ってください」

私は苛立ちを隠しきれなくなった。

「たしかに訓子さん、あなたが自首すればそれは旦那さんへの裏切りになるでしょうね。しかし私が通報したらそれは直樹への裏切りになるんです。彼だって危ない橋を渡ってますからね。それを分かった上で、あなたは私に通報をお願いしてるんですか?」

そう私が反論すると訓子さんは私の目を見つめ、

「あなたは強い人間です」

と言った。

「なぜそう言えるんですか?」

「分かるんです。あなたは強い人間です、私のような弱い人間ではありません。奈桜さん、あなたは忠孝さんと直樹さんが交わした契約に違和感を覚えているはずです。私も同じです。でも奈桜さん、私には忠孝さんを裏切ることが出来ません。裏切った方がいいのに。裏切りさえすれば、私たちみんな本当の贖罪へと向かっていけるのに」

「あなたは身勝手です」

「私は身勝手です」

そう居直りながら訓子さんは私の腕を絞るように強く握り締めた。

「私はずっと身勝手でした。勝手に産んで勝手に殺して勝手に隠して勝手に明かす、そのたびに私は周りのみんなに迷惑をかけてきたんです。それは重々分かってます。でも私はこれ以上罪悪感を抱えたくないんです。もう限界なんです、私。でも私には、自分でこの罪のループを断ち切ることすら出来ないんです。それほど私は弱い人間なんです」

そう言いながら訓子さんは徐々に顔を歪めていった。耳がみるみる赤く染まっていく。また泣くのか、また泣くのか、そう思いながら見守っていると予想通り訓子さんは幼児のようにしゃくり上げ始めた。

「ごめんなさい、奈桜さん、お願いします、通報を、ごめんなさい、こんな」

「分かりました、通報します、しますから」

そう言って私が訓子さんの背中を撫でると訓子さんは赤く腫れた目をこちらに向け、

「本当ですか?」

と安堵したような声で問いかけた。

「はい。私も、ゆすりのお金で生きていくのには気が引けてたので」

そう私が宥めるように答えると、訓子さんは

「ありがとうございまずう!」

と叫んで私の左腕に顔をなすりつけてきた。濡れた両目が服の袖にちょうど二つの染みを作る。私はなおも訓子さんを慰めながら、あちゃあ、と心の中で呟いた。たしかに私の胸中には口止め料で生きていくことへの抵抗があった。しかし、今の直樹との暮らしをすべて破壊して裁きを受けることに一体なんのメリットがあるのか。その一瞬は罪悪感から解放されるかもしれない。しかし、いずれ後悔が押し寄せてくるだろう。

 そう薄々思いながらも、私は「絶対通報しますから」と言って訓子さんに別れを告げた。口約束を使ってでも訓子さんには大人しくなってもらおう。そのときの私は、私たちと淡島さん夫妻の関係のためにもそれがいいと考えていたのである。

 しかし次の日、私は訓子さんとの口約束を成就させてしまった。

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