七
「女性の方に替わっていただけますか?」
柔道耳の青年巡査にそう伝えると、巡査はやや不機嫌そうにオフィスの奥へと去っていった。制服を纏った巨大な背中がロッカーの裏に消えていく。体つきこそ逞しかったが、巡査の顔立ちは未成年のように若々しかった。おそらく私より年下、ハリーと同年代だろう。自分よりもずっと若い人間が警察官として働いているさまを眺め、私は自分がとっくに子供ではなくなっているということを改めて思い知らされた。
そのとき私は女性の警官を求めていた。先日訓子さんは私に対して感情を長々と吐露した。しかし、私が彼女と同じ性別でなかったら彼女は私に同じ内容を告白しなかったのではないだろうか。彼女は私という女性を選んでバトンを渡したのだ、私も女性にバトンを繋ぐべきだろう。
ややあって、私の望み通り女性の警官が姿を現した。髪を短く切り揃えている。職務のために最適化されたヘアスタイルなのだろうが、硬質な毛髪のせいでそのフォルムからはどことなくパンクロック的な美意識が感じられた。警官とパンクなんて正反対なのに。そう私が心の中で勝手に彼女の風貌を皮肉っている間、女性警官は私を階段の上へ案内し、廊下をまっすぐ進んだ先の小部屋へと向かっていった。そして私たちは平衡を欠いたパイプ椅子に座り、再び向かい合った。
「遠野と言います」
警官はそう名乗ったあと、
「今日はどういったご相談でしょうか」
と言って両手の指を組み合わせた。ご相談。その言葉に私はほのかな同情の香りを嗅ぎ取った。そうか、遠野さん、と名乗ったこの警察官、は私のことをなんらかの被害を訴えに来た人間だと思っているのか。それも、同性にしか話せないようなデリケートな被害を。
「通報に来ました」
誤解を晴らすために私はあえてそうハキハキと遠野さんに伝えると、続けて
「殺人です」
と女性警官に告げた。
「殺人」
予想に反して遠野さんは平静を保ったままそう私に聞き返した。警官にとっては殺人事件など日常の範疇なのかもしれない。
「はい。私の隣の家にいた至尊くん、という子供、それが親に殺されたんです」
「なるほど」
子殺しですか、と遠野さんは小さく呟いた。
「なぜあなたは至尊くんが殺されたということに気付いたんですか?」
そう遠野さんから尋ねられ、私は
「死体を発見したんです」
と答えた。
「死体を?」
この返答はさすがにいささか予想外だったようだ。遠野さんは書類になにかを書き加えると、
「いつ、どこで死体を発見したのでしょうか」
と私に問いかけた。
「そうですね、時期は×ヶ月前、場所は……」
そう言って私が部屋を見回すと、窓の外にはちょうど私が死体を見つけた川が流れていた。此岸と彼岸を繋ぐように飛び石が敷かれ、その上を子供たちが楽しそうに跳ね回っている。これほど牧歌的な川で私は入水自殺を試みたのか。私は数ヶ月前の自分を改めて愚かしく思った。
「そう、この川の岸辺です。あの辺、今シロサギが飛び去ったあたりですね」
そう言って私が窓の外を指差すと、遠野さんはその方向を眺めて
「ちょうど本署の裏手ですね」
と言った。
「奈桜さん。疑うようなことを言って申し訳ないのですが、数ヶ月前に発見していたのならなぜそのときに通報しなかったのですか? 署まで出向かずとも、一一〇番してくださればよかったのに」
そう遠野さんが言った瞬間、私は
「そう、そこなんですよ」
と言って身体を前に傾けた。
「私は直樹って人間と同居してるんですけど、彼が私に提案したんです。この死体を使って、隣の夫婦をゆすろう、って」
そう私が告白すると遠野さんは目を見開き、
「ゆする? 脅迫ってことですか?」
と私に聞き返した。
「はい」
そう返答したあと私は今更ながら相手が警官であることに不安を覚え、
「まあ私は反対してたんですけどね」
と口早に付け足した。
「脅迫ですか……」
遠野さんはため息交じりにそう呟くと、
「それでは、至尊くん、という少年の死体は今どこに?」
と私に尋ねた。
「直樹は飲食店をやってるんです。死体はそこの冷凍庫にあります」
そう私は遠野さんに述べると、
「紙貸してもらっていいですか?」
と言って自発的にSHIVA CURRYの場所を地図に描いた。
「冷凍保存ですね、なるほど」
そう頷くと遠野さんはまたもや書類に何かを書き加え、
「先ほど奈桜さんは、志尊くんのことを『親に殺された』と言いましたね」
と私に確認した。
「はい」
「また直樹さんも、至尊くんの死体を使って至尊くんの両親をゆすろう、そう奈桜さんに提案したんですよね?」
「はい」
「なぜお二人は、死体を見ただけで至尊くんが両親に殺されたのだと分かったんですか?」
そう遠野さんに問われ、
「以前から虐待されてたからです」
と私は答えた。
「なるほど、至尊くんは虐待を受けていたんですね」
そう遠野さんは私の言葉を復唱すると、
「お二人は至尊くんの生前からそれに気付いていた?」
と私に問いかけた。
「はい」
「それでも止めようとはしなかった」
「はい」
「それで至尊くんが死んだら今度は両親をゆすりに行ったんですね」
「はい」
「そうですか……」
遠野さんはそう言うと唇を噤み、人格を疑うような眼差しで私の顔と書類を交互に眺めた。私はいたたまれなくなって再び弁明の言葉を吐いた。
「私には罪悪感があったんです。一度死んだ人間は戻ってこない、だとしても至尊くんをダシにして隣の夫妻からお金を巻き上げるのにはもう嫌気が差したんです。これ以上直樹に従っていてはいけないと思ったんです。胸が痛んだんです」
「なるほど、だから本署に足を運んだんですね」
「はい」
「そうやってあなたは全員を裏切ったんですね」
「え?」
顔を上げる。遠野さんは凍った湖面のような目でこちらを見ている。
「なんでもありません。こちらに署名よろしくお願いします」
そう言うと遠野さんはA4の書類を一八〇度回転させ、平然と私にボールペンを差し出した。聞き間違いだったのだろうか。先ほど耳にしたはずの言葉にうろたえながらも、私は促されたとおりに署名を行なった。
「今夜ご自宅に伺うかと思います。それまで他の人には通報したということを絶対に漏らさないでくださいね。関係者には特に」
部屋を出る寸前、遠野さんは私にそう釘を刺した。もちろんですと私は答えた。かくして私は密告を終えた。
警察署を出る。空はべらぼうに青い。照りつける太陽光がアスファルトをチョコのように溶かしている。そういえば至尊くんの死体を発見した頃、私は常時毛皮のコートを羽織っていた。それが今では色鮮やかなワンピース。季節は変わった、と私は思った。私の人生は一つの期間を脱出したのだ。ロケットが星雲を突き抜けるように、私の人生は暗く罪深くみっともない一つの帯域を突破したのである。そう思うと私は俄然爽快な気分になってしまった。私は両手を広げて地面に揺れる自らの影を眺めると、そのままくるくる回転しながらスキップで自宅へと帰っていった。足音に驚いて舞い上がった鳩の群れがそのまま風の中へと溶けてゆく。
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