隣人童子

黒井瓶

 生前の至尊くんには三度ほど会ったことがある。最初に会った時、至尊くんは両親と一緒に車から降りてくるところだった。淡島さん一家は私たちのアパートの住人ではない。彼らは坂の下にある古びた平屋にて生活していたのだ。ただその平屋からは公道に出ることが出来なかった。だから彼らは自分たちの車を無断で私たちのアパートの駐車場に置いていたのである。

 至尊くんと会う以前から私はよく淡島さん一家の住む平屋を見下ろしていた。私たちの部屋のベランダは、淡島さん一家の生活を観察するにあたって最適な場所だったのである。彼らの平屋は私たちのアパートから見てちょうど日陰に位置していた。アパートの一階の鉄柵を越え、雑草の茂る傾斜を下り、トタンの敷かれた用水路を渡るとそこには淡島さん一家の庭があった。庭といっても観賞に足るものは何ひとつない。ただ頭の悪そうな犬が涎を垂らしながら鎖の可動範囲をのろのろと歩いているだけだ。その奥には破れた網戸が立てかけてあり、雨樋の下に割れた瓦が何枚か積み重ねられている。

 そのような外観を見て、私は淡島さん一家の生活水準をかなり低く見積もっていた。それゆえ初対面の志尊くんから失礼な発言をされた時も、私は彼の言動を何ら不審に思わなかった。後部座席の床にやっと足がつくかつかないかほどの身長だった彼は、こちらに視線を向けるなり私に対して女性器を指す卑語を吐きかけたのである。

「至尊!」

淡島さんの奥さんは目を剥いてそう叫ぶと、志尊くんを車の奥に引きずり込んで何度も肩を揺さぶった。そのたびに至尊くんの頭は大きく前後に傾いだ。

「いやあすいませんね、失礼なガキで」

奥さんが至尊くんを叱っている間、旦那さんは運転席の窓を開けて薄笑いを浮かべながら私にそう謝罪した。私は旦那さんの顔を眺め、予想よりも公家的だな、と感じた。服装こそやんちゃだが、造形は肉食よりも草食寄り、どこか鹿のような印象。薄い唇、骨ばった頬、細い目の上に産毛のような眉がちょこんと乗っている。自分の子供を「ガキ」と呼ぶような人間には見えない。

 旦那さんと同じく奥さんもまたそれほど品のない見た目ではなかった。疲労によって頬が生白く弛んでいるが、若い頃はクラスで一、二を争う美少女だったに違いない。イノセントな垂れ目の童顔、何世代か前のアイドルによく見られた顔立ち。この二人の遺伝子からなぜ至尊くんのような醜い子供が形成されてしまったのだろう、と私はつくづく不思議に思った。

 二回目に会った時、私は近くのスーパーで買い物をしていた。当時そのスーパーでは小規模な配置変更が頻発しており、私は洗剤の詰め替えがどこにあるのか分からず通路を右往左往していた。お菓子売り場の辺りを通りかかった時、私はそこに至尊くんの姿を発見した。志尊くんは両親から離れ、棚に並ぶ色とりどりのお菓子をたった一人で物色していたのだ。乾いた鼻水の跡が下顎にまでこびりついている。彼の指がラムネの小箱を掴んだ時、

「至尊!」

と言って遠くから例の旦那さんが姿を現した。

 旦那さんの声が聞こえた瞬間、志尊くんは少しだけ身体を硬直させた。

「ほら行くぞ」

旦那さんは至尊くんにそう声をかけると彼の頭頂をラグビーボールのように掴み、そのまま小脇に抱えて元の売り場へと戻っていった。そういえばその時すでに至尊くんは最初の頃よりもずっと痩せ衰えていた。しかし当時の私は、縦に伸びたからかな、などと考えて自分の違和感に安直な答えを与えていた。

 三回目に会った時、志尊くんは明らかに衰弱していた。私は自分の住むアパートの外廊下で彼と出会った。私がゴミを出そうと扉を開けた時、至尊くんは消火栓の前のコンクリートにうずくまっていたのだ。至尊くんの手足はゴボウのように細く、そのせいで頭蓋の大きさだけがやけに際だって見えた。

 私たちの階はアパートの一番上である。なぜここまで至尊くんは上がってきたのだろう。隠れんぼでもして鬼から逃げているのだろうか。そう思った私は、

「どうしたの? 大丈夫?」

とゴミ袋を持ったまま彼に声をかけた。膝が内出血を起こしている。

 至尊くんは唇を尖らせたあと、私には聞こえない声量でぶつぶつと何かを呟いた。

「ん? どうしたの?」

そう私が至尊くんに聞き返していると、

「あああ、すいませんねええ!」

と階段の方から旦那さんの声が聞こえてきた。

「まったくこんなとこまで来てたとは。ほら至尊! 早く帰るぞ」

そう言うと旦那さんはとびきり温和な笑顔を浮かべ、至尊の小さな手を握って一緒に階段を降りていった。至尊くんの後ろ姿を見た時、私は彼が膝の裏側にも痣を負っていることに気付いた。普通に生きていて出来る傷ではない。しかしそのときも私は「よほど活発な子供なのだろう」などと考えて不穏な予感に蓋をした。そして結局、それが生前の至尊くんと私の最後の接触になった。

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