待ち合わせは玄関で

あまくに みか

待ち合わせは玄関で

 日程 :四月六日(土) 

 行き先:みなとみらい

 持ち物:貴重品

 集合時間:十時半


 待ち合わせは、玄関で——。




--------------




 人間の三大欲求は「食欲・性欲・睡眠欲」だ。


 食欲は、生きることに一番直結している気がするし、食べると幸せな気持ちになるから必要だと思う。睡眠欲も、絶対必要。寝ないと死んでしまうもの。


 じゃあ、性欲は?


 三大欲求に性欲があるのは、昔、子孫を残すために必要な行為だったからではないか。人類が、生き残るために。


 けど、今の時代に性欲は、本当に三大欲求のうちの一つなのだろうか? 


 だって、同性カップルが認められている時代だし、代理出産だってある。男の子だってメイクをするし、女の子の制服だって、今はスカートが当たり前じゃない。甲子園球児だって、髪の毛があってもいい時代なのだ。



 だから、この行為は一体何の為なんだろうって私はいつも思っている。




****




 お互いの肌と肌が吸いついてしまうほど、湿った空気が布団の中にこもっている。


 私の体が上下に動いて、ヘッドボードにあたりそうになった頃、朝陽あさひの大きな手が伸びてきて、私の頭を包んでくれる。私はその薄い手首に唇を這わせた。



 結婚して五年。



 特に大きな喧嘩をすることもなく、自分で言うのも変な感じだけれど、仲良く過ごしてきたと思う。


 最近、友達が結婚して妊娠したとか、出産したという話をよく聞くようになった。私と朝陽は、同世代のみんなより少し早めに結婚したから、ちょうど今妊娠すれば、やっと周りと同じペース、なんて時々考えたりもする。



 でも私は、子どもを産みたくない。



 子どもを持たずに過ごす夫婦だって、今は珍しくない。だから、別におかしくない選択だと思う。


 いつかは子ども、欲しいとは思うけれど。それは、今じゃない。今じゃないんだ。



 じゃあ、この行為は一体何の為なんだろう?


 愛情を確かめるため? 

 朝陽を繋ぎ止めておくための手段?

 心の寂しさを埋めるため?

 男の人の抑えられない衝動?


 それとも、なんとなくの行為?



 どうして私は、子どもが欲しくないのだろう。欲しくないと思うことに、どうして後ろめたい気持ちがあるのだろう。



 青白い夜の中で、私は朝陽の背中をなぞった。背骨の上から下に。


 朝陽は、どう思っているのだろう。


 子どもが欲しいね、とかそういう話を朝陽はしない。けど、朝陽が街中で小さい子どもを目の端で追いかけていること、私は知っていて知らないふりをしている。


 なにが私を、留まらせているのだろう。




 春は、血の匂いがする。



 梅の花が散る季節になった。

 土の中がもぞもぞざわめいているような気配。

 沈丁花の香り。

 夜の輪郭が、やわらかく溶けているような時間。



 私たちはとても静かに、馬鹿みたいに声を押し殺して、体を重ね合わせていた。



 朝陽の揺れる毛先の、その向こう側をぼうっと眺めた。少しだけ開けたままの窓から、何かが入ってきたような気がした。



 ——あ、今だ。今、なんだ。



 啓示をうけたように、私は目を見開いた。


 両腕を伸ばして朝陽を抱き寄せる。耳元に唇を寄せて、囁く。

 それから、朝陽の首と肩の繋ぎ目のところを思いっきり噛んだ。



 赤く痕に残ればいい。



 これは、私の。

 女の最後の反撃なのだから。




*****




 朝陽の誕生日は、四月の六日。

 私は手紙を書いている。水色の便箋は、さっき買ってきたものだ。


 ドラマではヒロインが大袈裟に吐いたり、目眩を起こして倒れたりするけれど、実際、妊娠がわかったのは微々たる体の変化だった。


 おへそのすぐ下。ずしんと重たくなった。お尻もなんだか膨らんできているような気がした。


 私は、妊娠していた。

 朝陽にはまだ伝えていない。



「はい、これ。招待状」

「招待状?」


 帰宅したばかりの朝陽に、手紙を渡す。


「あ、俺の誕生日?」

「そうだよ」


 その場で手紙を開いて、朝陽は笑った。


「待ち合わせは玄関で、って」

「付き合ってる頃みたいでしょ?」

「でも、玄関なんだ。みなとみらいの駅でもいいよ?」

「いーや、玄関で」


 だって一緒にいたいんだもん、という台詞は言わないでおく。恥ずかしいから。もう結婚五年目なんだし。


「では、四月六日。玄関で会おう」


 そう言いながら、私たちは同じ布団に帰っていった。




 四月六日。

 私は相変わらず、ドラマみたいな劇的な変化のない妊婦生活を送っていた。それともツワリというのが、まだ起きない時期なのかもしれない。


 妊娠五週目。


 朝陽には内緒で、私は産婦人科で検査をしてもらっていた。エコーに写ったのは、人の形をしたものではなかった。楕円形の中に、結婚指輪みたいな形のリングが見えた。


 それが赤ちゃんだと、先生は言った。


 私は今、メイクをしながら産婦人科でもらってきたエコーの写真を、カバンにそっと滑り込ませた。


 お腹の中には、赤ちゃんがいる。私は、やはり、子どもを産むのかもしれない。

 



 十時半。

 待ち合わせは玄関で。



 

 電車に乗って、私たちは目的地へ向かう。

 予約していたレストランに入ると、大きな窓が目に飛び込んできた。窓の外は、一面の空と海。海の両端を囲んで、木みたいに高いビルが並んでいる。


 やはり、みなとみらいにして正解だったと私は思った。


 海らしくない、みなとみらいの海が今日という日に合っていた。同じ神奈川県でも藤沢の海は、砂浜があってサーファーがいて、潮の匂いがして、きちんと海らしい。


 そういう海は、帰る時なぜだか悲しくなる。


 繋いだ手を離してしまったら、もう二度と会えなくなるような気がしてしまって。「気をつけて帰ろう」と言いたくなる。


 振り返ったら、夜の波に連れて行かれてしまう気がして、心細くなるのだ。



「俺もとうとう三十歳か」

 

 朝陽がふにゃけた笑いを浮かべた。


「人生も折り返しだね」

「いや、もう少し生きるでしょ」


 笑ってから私は、メニュー表に視線を落とす。アルコールは、飲めない。カフェインも、ダメ。


「オレンジジュースください」


 朝陽が目を丸くして私を見ている。


「じゃあ、俺は——。アイスコーヒーで」


 本当はスパークリングワインを頼むところだ。朝陽もそう思ったのだろう。


 鼻の奥の上の方。熱くなって、焼けているみたいな感覚。誤魔化すように頬杖をついて、窓の外を眺める。机の下で、隠れるように私はお腹に手をあてた。



 ——こんなの、普通じゃない。



 カバンに手を伸ばす。今、伝えてしまおうか。でも——。


 私は横目で、朝陽の首筋を盗み見た。

 服のズレた襟元から、消えそうな赤い点々が見えた。


 ——もう、元に戻りそう。


 あの日、反撃を与えた傷は赤く腫れ上がって、紫色になった。


「夏じゃなくてよかった」と言った朝陽の表情を見て私は、怒りと嫉妬と、安堵が混ざったような、あべこべな感情を体の中でなんとか飼いならそうとしている。



「今日、具合悪い? 顔色良くないけど」


 私は笑って首を横に振った。

 今日は朝陽の誕生日なのだ。楽しい一日にしないといけないのに。


「実は、この後の予定を考えていなくって」


 カバンの中に入れたままの手を、私は引っ込めた。伝えるのは、まだ今じゃない。


「じゃあ、ぶらぶらする?」

「そうだね」


 手を繋いで、私たちは目的もなくお店からお店へと渡り歩いていく。可愛らしい小物や、変わった模様の靴下などを手にとって、見せ合って、笑い合った。


 のんびり、ゆっくり。

 私たち夫婦は、そうやって五年間過ごしてきた。



「やっぱり、帰ろうか?」


 私の顔を覗き込んできた朝陽は、ひどく心配した表情をしていた。誕生日の人に、こんな顔をさせてしまうなんてとんだ失態だ。

 

「大丈夫だよ」

「大丈夫じゃないよ。元気ないし、顔色もやっぱり悪い」


 朝陽が私の手をひいて、駅へと向かおうとする。


「お腹、痛いんでしょ?」

「えっ?」


 見透かされているのかと思った。

 一拍おいて、朝陽がちゃんと私の生理周期を把握してくれていることに気がつく。


「帰って、あったかくした方がいいよ」

「……うん。ごめんね」


 朝陽は、なんでこんなにやさしいのだろう。

 きっと、彼ならいい父親になるだろう。

 それなのに、私は——。


 


 私は、母親になりたくない。




 ガチャリと鍵が一周まわった音が聞こえて、朝陽の背中を見上げた。


 カバンの中に手を滑らせる。

 今、言わないと。

 乾いた紙を指先が見つけた瞬間、電気が走ったみたいに私は限界を迎えた。


 玄関の扉が開いて、驚いた朝陽が振り返る。


「どうしたの、急に。俺、なんかやらかした?」


 私は玄関の外で、体を震わせて泣きじゃくった。

 悔しかった。

 悲しかった。

 それでも、喜びはあった。

 どうしようもない流れに、逆らうことも抗うことも出来ない身になってしまったことに気がついて、情けなくて、怖かった。



「わ、私。子どもが、できた」



 嗚咽の間、しゃくりあげながら、私はやっと言葉を外に押し出した。涙で目の前がくもっていたから、その瞬間を朝陽がどんな表情をしたか、見えなかった。


「で、でも。私、嫌だ」

「梨香。外にいないで、中に入ろう?」


 私は首を横に振った。

 玄関を越えるかどうか。

 私はまだ、自分の気持ちが整理出来ていない。


「子どもが出来たら、何もかも変わっちゃう。でも、朝陽は何も変わらない。なんで、私だけ、変わるんだろう? 大好きなコーヒーも我慢して、甘いものも我慢して、苦しくて痛い思いもして、仕事だって今まで通り働けない。それなのに、私の中で命はどんどんふくらんでいく」


 もう、止められない。

 この小さな人間は、もうすでに時間を刻んでいるから。


 生きるのをやめさせる権利は、私にはない。

 だってもう一人の人間として、この体の中で生きているのだから。


 そんなこと、わかっているのに。

 私はこの理不尽な怒りを、朝陽に知って欲しかった。ずっとずっと、消えない傷として、朝陽を傷つけたかった。



「子どもが産まれたら、私の生活はどんどん変わっていくんだよ。子育てして、家事もして、仕事もして。なんで女ばかり、あれもこれもしているのがエライみたいな時代に生まれちゃったんだろう! 私には無理だよ。朝陽ともっと、のんびりしたり、ゆっくりしたりしたいよ。でも、もう無理なんだよ。そんな生活、戻れないんだよ」



 朝陽のせいにして、時代のせいにして。それから何より、子どものせいにしている自分が幼くて、格好悪くて、最低な人間に思えた。


 だから、母親になれないと思った。


 他の人は、子どもが出来て、喜んで。きちんと母親して、家族で愛し合ったりしているのに。


 私にはそれが出来る気がしなかった。



「俺さ。俺がサポートするからって、今言おうとしてさ。最低だなって思ったよ。そんなんじゃ、だめなんだよな。俺も。俺もさ……」


 朝陽の声が震えているような気がして、私は顔をあげた。

 

「俺、父親になるんだな」

 

 朝陽の顔が、見たこともないくらい歪んで、見たこともない表情で泣いていた。

 そんな顔を見たら、私、逆に笑えてきて噴き出してしまった。


「梨香」

「……なに?」


 玄関の前で大泣きしたことが恥ずかしくて、私は鼻をすする。


「家に入って」


 朝陽の大きな手が伸びてきて、私の頭を包んだ。


「なんでも一緒にやろうよ。これからも。家族が増えても」


 

 うなずいて、私の足は一歩、玄関を越える。

 全部、納得した訳じゃない。解決したわけじゃない。


 けれど、その時私たちは、傷を共有し合った気が確かにしたのだ。





 人間の三大欲求の一つ。性欲は、もしかしたらもういらないのかもしれない。


 人によっては、快楽であって。

 人によっては、自己の存在を確かめるものであって。

 人によっては、愛で。

 人によっては、子孫を残すものであって。



 たくさんのモノを自由に選べる時代だから、人によって定義がちがうだろう。



 私たち夫婦にとっては、境界を乗り越えることにちかい。


 手を繋いだまま。

 一緒に境界の向こう側の、同じ景色を見るためのもの。



 迷ったら、待ち合わせて。

 何度でも、何回でも、線を越えていくのだろう。



 恐らく正解はない。不正解もない。

 だからこそ、それでいいのだと私は自分自身に言い聞かせる。

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