無間の城の墓守姫

空烏 有架(カラクロアリカ)

ひと目惚れだったんです

 川辺に佇む貴婦人のように美しい城だった。


 中庭の花は踏み荒らされ、白亜の城壁は見るも無残に焼き壊されていく。城主は射られて虫の息、命を落としていく兵士たちを看取るのは、たった一人の娘だけ。

 幼くして母を失い、代わりに慕った侍女もすでに物言わぬ姿で横たわる。天涯孤独の身に絶望のドレスをまとった姫君は、自らの無力を呪うほかなかった。


 ――神よ。わたくしに皆を守る力があれば。


 逃げ場はなかった。通路はすべて敵に塞がれ、辺りは火の海と化している。

 どれほど涙を流しても、戦火を消すには足りぬと知りながら、滂沱として止まることはない。


 そんな彼女を憐れんだか、暗闇がふいに姫君を抱き締めた。そいつは蜜のように優しく甘い声で歌うように囁いた。


『助けてあげようか』



 ……。

 それから幾百の歳月を経て、噂が立った。

 川辺の廃城には今も姫君の亡霊が囚われている。彼女を真に愛する者のみが、その呪いを解けるという。


「さすがこの暮らしにも飽いてしまいました。それで賭けをしたのです」


 とうの昔に滅びたと伝わる城は、相応にみすぼらしく朽ちていた。唯一姿が変わらないのは番人となった姫君だけで、他の臣下は皆、彫像のように固まって蜘蛛の巣にまみれている。

 使用人がいないので身だしなみもままならず、髪は結わずに垂れ流し。幸いにして飲まず食わずでも死にはしない。

 ただ無為に過ぎる日々の退屈さだけが彼女を苛んでいた。


 彼女と城を繋いで時を止めてしまった悪魔――名言されなかったが、明らかにその類であろう――は、ときどき外から人間を迷い込ませる。もしも姫君がその者と恋に落ちたなら、この結界を解いてやると言って。


 最初に現れた者は怯えるばかりで、口もきかずに逃げていった。どうやら以降に廃城の姫の噂を広めたのはその男らしい。

 次からは城の財宝を与えることにした。それでなんとか話は聞いてもらえたが、奪うように受け取るとすぐに去っていった。あとから外で吹聴したのだろう、その後は、初めから宝を寄越せと言ってきた者もいる。

 それを幾たびも繰り返し、宝物庫はすっかり空になってしまった。


 悪魔は暇つぶしのために新たな客を連れてくる。手には古びた弓を提げ、ぼろの帽子に薄汚れた衣服の、いかにも貧しそうな男だった。

 与えるものなど何もない。また徒労に終わるだろうと諦観しながらも、姫君は何度めかわからない昔話を繰り返す。


「では、お帰りください。外の天気が変わらぬうちに」

「……え? いいんですか?」

「話を聞いていただけただけで充分です。それにこのような場所、貴方も長居したくはないでしょう」


 彼はぽかんとしていた。

 姫君としても、そうするのは初めてだった。これまではどう相手を引き留めようかとばかり思案してきたのだ。けれど今はもうそんな気力もない。

 何の土産も持たせてやれないことだけを詫び、彼が幾度か振り返りながら出ていくのを、申し訳ない気持ちで見送った。


 また暇になった姫君は、使用人たちの埃を払う。乾ききった皮膚は蝋のように硬くこわばり、何百年も同じ体勢のまま凍り付いて、口をきくことも叶わない。

 生ける石像と化した彼らを洗い清めながら姫君は思う。皆をこんな姿にしてしまったのは、己の罪だ。


 これでは死んでいるのと変わらない。

 ただ一人動いている自分も、もはや人間とは呼べない。

 ここは墓。城という名の墓地なのだ。

 ――ならば私は、墓守か。



「ごめんください」


 先日帰してやった男が、自ら再び城にやってきた。そんなことは初めてだ。

 驚いている姫君に彼は言う――調理場を貸していただけないか、と。


「俺は猟師なんです。ウサギを獲ってきました。下手な男料理ですけど、ご馳走させてください」

「構いませんが……なぜですか?」

「だって姫様、もう何年もなんにも食べてないんでしょう。それじゃああんまり可哀想だ」


 男はウサギの肉でスープを作った。それに丸パンを添えて……野菜やら調味料も、きっと城にはないだろうからと、持参してきたという。

 温かいうちにどうぞ。と湯気の立つ器を差し出したあと、男は当たり前のように姫君の向かいに腰を下ろした。

 よろしければ俺もご相伴を、と言い添えて、己の手にも器を一つ。


「飯ってのは、誰かと食ったほうが美味いですからね」


 素朴な味付けの、質素な食事だった。数百年ぶりの食事だった。ただ塩の味がした。

 久しぶりに、生きていることを思い出した。

 そんな泣くほど美味いんですかと猟師の男には笑われたが、その屈託のない笑顔に、姫君は思う。

 ――なるほど、人と一緒に摂る食事は温かい。



 それから猟師はちょこちょこ城に通うようになった。城内をあちこち案内して回ったが、何もない庭を散歩しても面白くなかろうにと、姫君は不思議に思っていた。

 他に連れて行ける場所がなくなったので、とうとう空っぽの宝物庫も見せた。これで二度と来てくれなくなったらどうしようと思いながら。

 ふと思い立って必死に鏡を磨き、数百年ぶりに見た己のみすぼらしさに愕然とした。髪に櫛を通しても、ドレスを着替えてみても、整える者がいなければ化け物のようだ。

 なるほど、これではみんなが怯えて逃げていったのも無理はない……。



「――姫様。俺、もうここには来られません」


 ある日猟師はそう言った。信じ難い言葉に、姫君は思わず彼の瞳をじっと見つめる。


「親がだいぶ歳なんで。隣村の娘と結婚して、孫の顔を見せろって言うんです」

「……そうですか」

「姫様」


 思えば彼の名前も知らない。知る必要もなかった。今の姫君の世界には、彼の他には誰もいなかったから。

 彼は深く憂うような顔をして、姫君の手をそっと握った。


「もし、……城の魔法が解けたら、姫様はどうなるんですか。貴女がただの人に戻って、……堰き止められてきた何百年って時間が、急に流れ出したら」

「それは……」

「すいません。……初めから、そうじゃないかとは思ってたのに、俺……俺は……」


 暗闇で悪魔が嗤っている。


 ――賭けをしようか。もしも君が、外から来た男と愛し合えたなら、時の凍結を解いて自由にしてあげるよ。

 彼が心底から君を愛して、そのかわいい唇にくちづけたなら……そんなことができるのなら、ね。


 期待しなかったと言えば嘘になる。こんな墓のような城に住む、化け物のような女を訪ねてくれる人だ。温かい食事を供してくれる人だ。

 この人から愛されたいと、願わなかったと言えば嘘になる。ずっと傍に居てほしいと祈らなかった夜などない。

 彼が来ない日は寂しさに枕を濡らした。彼が門を叩くたび、歓喜に自身の胸も震えた。


 わかっていたのに。悪魔が何の代償もなしに願いを叶えるはずがないことくらい。


「……わたくしは永く生きすぎました。いいえ、こんな暮らしは、亡霊と同じです。

 それでも……貴方とすごす間だけは、生きているように感じていました」


 ――お慕い申し上げております。貴方の矢は、とうにわたくしの心を射止めておいでです。


「ですから、どうかお願いです、このまま人間としてお別れさせてください。……貴方のいない永劫など、要りません」

「姫様……」

「貴方が終わらせてくださるなら、幸せです」


 姫君の懇願に、猟師は静かに涙した。そして、ぽつりと呟いた。

 ――ひと目惚れだったんです。



 昔々、滅ぼされた城があった。春には花が咲き乱れ、川辺に佇む白亜の城壁は、貴婦人のように美しかった。

 凍りついた時の牢獄で、その楔として亡霊のように生き続けた姫君は今、名も知らぬ猟師の腕の中で微笑んでいる。

 やがて二人の影が重なった。最初で最後のくちづけだった。



 この魔法のろいは、あと十秒で解けます。



 〖了〗

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