第16話 迷い
火曜日当日。朝食の為に一階に下りて行くと、祖母の方から、「おはよう」と言ってくれた。
「とうとう、その日になったわね」
「おばあちゃん。本当にいいの?」
祖母は軽く手を合わせてから、箸を手にした。そして、
「いいのよ。誰かに聞いてほしかったから、あの時沙羅ちゃんに話したんだと思うから。誰にも話してはいけないことって、話したくなるものよ」
祖母は、小さく笑って、味噌汁を飲んだ。「いいお味」と自分を褒めるのも忘れない。沙羅は、祖母を、可愛い人だ、と思った。沙羅がじっと見ているのを感じたのか、祖母はお椀をテーブルに戻すと、
「あら。沙羅ちゃんも食べてちょうだい。冷めない内にどうぞ」
「はい。いただきます」
「どうぞ」
祖母と同じように、手を合わせてから食べ始めた。
「そういえば、
「今日は、早く学校に行くって、急いで出て行ったわよ。朝ごはんも食べずに」
「そうなんだ」
そして、父はいつもの通りいない。この家に存在していないかのようだが、帰ってきてまた早くに出て行ったのは間違いなさそうだ。父の私物の配置が、昨日の夜と若干違う。
「あのバラ園に行くのは、随分久し振りだわ。沙羅ちゃんが四歳の頃に行ったから、もう十八年経つのね」
「あれって、四歳の頃だったんだ。そんなに昔なら、覚えてなくてもおかしくないね」
「そう。おかしくないわよ」
「今度は、ちゃんと覚えておくね。それで、誰にも話さない。約束するから」
「そうね。そうしてちょうだい」
祖母は微笑むと、ご飯を口に運んだ。その手の動きは、いつ見てもきれいだ。あのお屋敷に住んでいたのだから、自然とそういう振る舞いが出来るようになるのだろうか。
食事を終えて部屋に戻ると、出かける準備をした。下に行くと、祖母も支度を終えて、ソファに座ってくつろいだ様子だ。もう、覚悟が決まっているのだろう。
「おばあちゃん」
「沙羅ちゃん。そろそろ行く?」
「そうだね。行こうか」
二人で並んで歩き出した。沙羅は、祖母をちらりと見てから、
「この前の夜さ、外見てたの?」
「電話の日ね。そう。外を見てたのよ。暗くてよく見えなかったけど」
祖母の笑顔に、また少し翳りが見られた。が、そこには触れず、「ふーん。そうなんだ」と、軽く流すように言った。
「外を見ていたって言ったけど、本当は違うのかもしれないわ。どこでもない、遠い日を見てたのかもしれない」
「遠い、日?」
「そう。懐かしい日、でもいいけれど」
「後で、伊藤くんと一緒に聞かせてもらうね」
「そうしましょうか」
それきり祖母は黙った。沙羅も、何も言わずに道を歩いていた。
空は、青く澄み渡っていて、気持ちの良い天気だ。本当は曇りになるという予報だったが。そう言えば、と沙羅は思い出した。
「オレさ、晴れ男なんだよね。大事な日は、いつも晴れるんだ。だから、今日も。予報は雨だったのに、晴れただろう」
高校の卒業式の日、伊藤がそう言っていた。今日も、伊藤がいるから晴れたのかもしれない。偶然かもしれないけど、と思い直して、沙羅は一人、小さく笑った。それを祖母が見て、
「あら。沙羅ちゃんたら、思い出し笑い? 可愛いわね」
「思い出し笑い、じゃないけど。え? 可愛い?」
「おばあちゃんにとって、沙羅ちゃんはいつまでも可愛いのよ」
「えっと……ありがとう」
「いいえ」
祖母の優しい微笑。沙羅は、その顔に癒された。今までもずっと、辛い日に耐えられたのは、祖母の存在が大きかった。
母が出て行ってから、もう随分経った。父は、いつもその姿を見かけない。妹は、いくらしっかりしているとは言っても、やはり妹だ。いつも頼りにしてきたのは、祖母だった。そう考えてから、沙羅は、今日自分が祖母にさせようとしていることは、果たして正しいのだろうか、と迷う。大事な祖母を傷つけるのではないのか。
「おばあちゃん」
沙羅は、思わず祖母の方を向き、その腕を取った。驚いたように目を見開いた祖母が、沙羅を見る。沙羅は、唇を噛んだ後、
「あのさ……」
言葉が出て来ず、胸が詰まったようになっている。祖母は、空いている方の手で沙羅の頭を軽く撫でると、
「沙羅ちゃん。今日、本当に良いお天気ね。お出かけ日和だわ」
ふふっと笑う。沙羅は、泣きそうな気分のまま、軽く頷いた。
「行きましょう。ほら。伊藤くん、もう来てるわよ」
答えられず、もう一度頷いてから歩き出した。二人に気が付いた伊藤が、大きく両手を振っていた。
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