第3話 シェア

 伊藤いとうは、黙って俯く沙羅さらを急せかすでもなく、クリームソーダを飲んでいる。ちゃんと話せるのか、また迷い始めたが、首を振って顔を上げた。伊藤が、沙羅の視線を真っ直ぐ受け止めてくれる。沙羅は、息を吐き出すと、


「辞めたんだ、あのホーム。えっと……いろいろあって」


 強張った顔のまま沙羅がそう言うと、伊藤はただ頷いた。


「辞めたかったわけじゃない。そうじゃないけど。でもさ……辞めるしかなかったんだ」


 沙羅は、その時のことを思い出し、思わず目を閉じた。そうした所で、あの光景は消えてくれない。ただ、息苦しい。


 が、もっとわかるように話さなければ、と思い、目を開けた。伊藤は、相変わらず沙羅を見ていた。そして、その顔には、笑みが浮かんでいた。伊藤は、軽く頷くと、


「わかったよ」


 もうこれ以上話さなくていい、と言ってくれているような言い方に聞こえた。沙羅は、大きく息を吐いた。


 と、その時、沙羅の注文した物を持って、多香美たかみが来た。多香美は沙羅に笑顔を向けると、


三上みかみさん。お待たせしました。チョコレートケーキにちょっとだけクリームつけといたよって店長が」

「あ、本当だ。ありがとうございますって伝えてくれる?」

「了解しました」


 多香美は、またもや敬礼をすると、沙羅の耳のそばへ顔を寄せ、


「三上さん。店長に好かれてますね」

「は?」


 ふふっと笑うと、多香美は奥に戻って行った。沙羅は、顔をしかめてみたものの、すぐに笑い出してしまった。多香美は、沙羅にとって、不思議な存在だ。多香美のおかげで、さっきまでの憂鬱な気分が少しだけ軽くなった。


「あの子、面白い子でしょ。変なこと言う時もあるけど、何か憎めないんだ。誰とでも平気で話すし、あんまり気にしない性格みたい。ここの男の子たちにも人気があるよ。いとーちゃんもあの子を気に入った?」


 沙羅の問いに、伊藤は深く頷いて、


「三上さんと仲良くしてくれる子を、気に入らないわけないだろう」

「え? そういうことじゃなくて、ここの男の子たちと同じ感じで気に入ったかどうか訊いたんだけど」


 沙羅の答えに、伊藤は肩をすくめた。その行動がどういう気持ちの表れなのか、沙羅にはわからなかった。伊藤は、メロンソーダを一口飲んでから、


「ま、いいか。ところでさ、そのケーキ、おいしそうだね。一口欲しいんだけど」


 伊藤は、沙羅が人と食べ物をシェア出来ないと知っている。知っていながら、試すようにそう言ったのだ。


 沙羅は、チョコレートケーキを見つめながら、どうするべきか考えた。今までの沙羅なら、考えもしなかっただろう。すぐ、「ノー」と言っただろう。が、今は違う。迷っている。自分でもよくわからない感情だった。


 目を閉じると、あの時の光景が浮かんできて、負けそうになる。が、沙羅は目を開けると、


「いいよ。食べなよ」


 そう言って、伊藤にケーキの皿を差し出した。伊藤は小さく「え?」と言った後、


「あ。じゃあ、一口もらうよ」


 今までの沙羅を知っているからこそのためらいが、伊藤の表情に見て取れた。伊藤は、フォークで少しケーキを切ると、口に運んだ。沙羅は、真顔のまま、


「おいしいでしょ。甘すぎないから、私でも食べられる」

「そうだね。おいしいよ。ごちそうさま」


 伊藤が、ケーキの皿を沙羅に戻してきた。沙羅は、それを少しの間見つめてから、呼び出しボタンを押した。すぐに多香美が来て、


「ご用でしょうか」

「悪いんだけど、フォークを一本お願い」

「すぐに持ってきまーす」


 沙羅は、多香美が持ってきてくれた新しいフォークを手に取った。伊藤が食べたのとは逆の方にフォークを刺し、一口分に切ってから口に運んだ。最後の一口は、伊藤が切り離したそれと接していた面。そのことを思うと動揺したが、沙羅は、苦い薬を飲む時のように目をきつく瞑って、その欠片を口に入れた。そんなことが出来た自分を、沙羅は褒め讃えたい気持ちになった。


 伊藤は、何も言わなかったが、沙羅をじっと見ていた。見守ってくれていた、と言えるかもしれない。沙羅は、少し照れくさかったが、


「いとーちゃん。私、食べられたよ」


 それまで真剣な表情をしていた伊藤が、優しい顔になって微笑むと、


「頑張ったね。すごいよ」

「うん。頑張ったよ」


 沙羅は、泣きそうになるのを必死でこらえて、伊藤に向かって笑んだ。

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