第7話 退職
上司に呼ばれて会議室に行くと、上司はすでに来ていた。
「急に呼び出して、悪かったね。良かったら、どうぞ」
ペットボトルのお茶を沙羅に差し出した。沙羅は、「ありがとうございます」と言ってから受け取った。が、飲む気にはならない。これから何の話をされるのか、わかっているからだ。
上司はしばらく黙って沙羅を見ていたが、沙羅がお茶を飲むつもりがないのをわかったのか、腰を浮かせて座り直すと、少し身を乗り出すようにして、
「教育担当、大変だろう。いつも頑張ってくれて、感謝してるよ」
「ありがとうございます」
いきなり本題に入ったりはしない。
「三上さんは、今までずっと、急に休んだりすることもなかったし、みんな頼りにしてるんだよ」
上司は、ニコニコと笑顔で話す。そろそろか、と思った時、
「だからね、とても残念なんだよ」
とうとう来た、と沙羅は思ったが、
「残念、ですか? 私、何かしましたでしょうか」
何も知りません、という
「僕はね、信じてないよ。だけど、噂が……」
「噂って、どんな噂ですか?」
「君が、
「山田さんと、何ですか?」
上司は、はーっと息を吐き出すと、
「信じてないけどね。君と山田さんが、付き合ってるって噂なんだ。山田さんには家族がいる。君は、それを知ってて付き合ってるのかな」
一気に言った。沙羅は、上司をじっと見つめた後、
「それは、嘘です。私は、誰とも付き合ってません」
「でもね、三上さん。君と山田さんが、かなり親しそうだって聞いてるんだけど」
「えっと……誰から聞いたんですか?」
上司は、困ったように顔を歪めると、
「まあ、誰だっていいじゃないか。僕はね、本当に残念だよ。君がそんなことをする人だとは思わなかった」
「だから、私は誰とも付き合ってませんけど」
「事実か事実じゃないかは問題じゃないんだ。噂が広まっていることが問題なんだ。わかるかな?」
「それは、どういうことでしょうか」
上司が沙羅に何を言わせようとしているかはわかった。が、あえて問うてみた。上司は、イライラしているのか、頭を掻いた後、沙羅に投げつけるように、
「わかるだろう。訊き返さないでくれよ」
「わかりません。わかりたくないです。私は、何も悪いことはしてません」
真面目に仕事に取り組んでいたのに、これはどういうことだろう。何故、こんなことになったのだろう。沙羅は、唇を噛んで、涙をこらえた。
「さっきも言ったけどね、事実かそうじゃないかは問題じゃないんだ。僕の耳に届くほど、噂が広まっていることが問題なんだ。つまり……」
「私は悪くない。でも、私の口から、『やめます』って言わせたい。そういうことですよね」
上司の顔に笑みが戻った。
「わかってるじゃないか。で、どうかな」
「部下を信用しないような上司がいる所では働きたくありません。辞めさせてください」
「残念だな。でも、君がそこまで言うなら仕方ない。退職を認めるよ」
この人は、何を言ってるのだろう、と心底頭に来たが、沙羅は立ち上がり頭を深々と下げると、
「大変お世話になりました」
沙羅はそのホームを退職した。すぐにも何か仕事を始めなければ、と思ったものの、そう上手くは行かず、就職先を決めるまで、近所でアルバイトをすることにした。
「って、こんな感じなんだ。それで退職した。何か、馬鹿みたいだ。良い上司だと思ってたのに、手のひら返したみたいに、あんなひどいこと言ってさ。でも、私にスキがあったんだよね。誰かにそんな噂されるなんて。私が悪いんだ」
「悪くないだろ。何で三上さんが悪いことになるんだよ。全然悪くない。オレは、三上さんを信じてるよ」
それまで黙って沙羅の話を聞いてくれていた伊藤が、怒ったような口調で言った。沙羅は俯いて、首を振った。何に対してそうしたのか、自分でもわかっていなかった。
その時、沙羅の頭の上に伊藤の手が乗った。そして、優しく撫でながら、
「オレは三上さんを信じてる。絶対味方する」
囁くように言う。沙羅は、また首を振った。そのたびに、「信じてる。味方する」と繰り返す。沙羅の目から、涙が流れ出した。
今まで、こんなに優しい言葉を掛けてくれた人がいただろうか。いなかったような気がする。この人は、どうしてこんなに温かいのだろうか。わからない。
「ねえ、三上さん。オレさ、年取って介護が必要になったら、三上さんにお世話してほしいな」
伊藤がおどけたように言った。沙羅は、涙を拭って小さく笑った。
「いいよ。やってあげる。ただじゃないよね? こもれびホームよりお給金くれる?」
沙羅も、ややふざけた感じで言い返すと、伊藤は「ああ。わかったよ」と即答して、笑顔を見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます