かみゆい

帆多 丁

神降ろし

 色づく山は火炎の如く。その山奥に庵が打ち捨てられてあった。

 軒先に沿って、堅牢な木格子きごうしが庵を囲み、その内側で朽ちかけた雨戸の隙間から、破れたふすまから、透き通るように白い房がこぼれ出ている。

 こぼれ出た房の幾筋かは格子に結いつけられ、この季節には朝露で光る。

 苔、むぐら、豆蔦、あざみ、女郎花。草花に覆われた縁側の奥には、若い男が座っていた。

 若草色の着流しに、桔梗をあしらった女物の着物を羽織る。その右手に柘植の櫛を握り、左手は膝の上の頭蓋骨を柔らかく包む。たとえば、膝枕をした恋人の髪を撫でるような形で、じっと止まっている。


 鳥の声、蟲の声、獣の声は山に絶えない。

 

 男の髪は雪より白く胡粉よりも艶やかで、長く長く庵の中に折り重なり、外へとあふれ出ていた。ただひとふさ、右耳にかかる髪が細く三つ編みに編まれていた。

 男は動かない。

 雉が鳴いている。


 その耳には、とても古い、いつかの声が聞こえている。

 夜伽の後、肢体のとろけるような中に、耳のそばでささやかれた娘の声が残っている。


 あたしが髪を結いましょう。やがてあたしの身が朽ちて一握の泥となっても、あたしが髪を結いましょう。


 あの年、雉の声はとんと聞こえなかった。

 祭り囃子が鳴っていた。

 祭だというのに、境内には祭にそぐわぬ緊張感があった。

 山の神へのにえとしてまないたに載せられた猪の首をみて、老人の一人が悲し気に呟いた。

 山に熊はいなくなり、猪もこんなにも小さなものしか獲れぬと。


 細々とした田畑の作物も育ちが悪く、さらに腹をへらした狸や狐が荒らしにくる。 

 今年の明けには四人が飢えて死んだ。この分では、次の冬を越せるかがわからない。

 村長むらおさは神主と相談し、神降ろしを行うことに決めた。


 かがり火に照らされ、奉納の舞を舞う娘がじっとこちらを見ていたのを、男は思い出している。その瞳が熱に潤んでいたのを思い出している。

 秋深い山の寒気で、娘の息も汗も白く揺蕩たゆたっていたのを覚えている。


 舞いを終えて娘は輿に入った。これより、奥山の庵へと担がれていく。


 ――あたしは山神様のお嫁に行かねばならないのです。熊をとる家の娘として、熊をとりつくしてしまった家の娘として、あたしは行かねばならないのです。


 娘はそのように言っていた。

 

 ――あたしはおそろしゅうございます。どうかお叱りにならないでくださいまし。父様や母様や、村の皆のための大切なお役目であるのはわかっておるのです。あたしの我儘で皆を飢え死にさせるわけにいかぬこと、わかっているのです。

 けれど、あたしは、あなた様を、お慕い申しておりました。

 どうか、どうか、あたしが奥山の庵へと入りましたら、夜のうちに一度、たったのいちど、お顔を見せに来ていただけませんか。

 そうすればあたしは、心を強く持つことができましょう。

 

 どうか、どうか、お願いいたします――


 

 輿を見送り、夜更けに男は山へと入った。

 秘密の逢瀬である。庵には寝ずの番もついている。灯りを使うことははばかられた。

 闇の腹の底、手探りで山に分け入り、半刻もすれば道を失い、さらに半刻もすれば天地を失い、次の半刻でことわりを失った。

 男はどこまでが男としてあり、どこからが山としてあるのかを見失った。何本の足で走っているのか。立っているのか、這っているのか、登っているのか、渡っているのか、それらが判然とせぬまま、男は山を進んだ。


 男が次に思い出すのは、庵から漏れ出る行燈あんどんの灯りであった。


 どこで道を見つけたものなのか、とんと思い当たらない。

 奇妙なことに寝ずの番の姿は見当たらなかった。

 光に誘われるように男は庵の正面へと向かう。

 娘は、桔梗の着物に着替えていた。男の顔を認めると、ああ、とため息をつき、娘は艶然と微笑んで言った。


 ――お待ちしておりました。

 ――不束者ではございますが、なにとぞよろしくお願いいたします。


 男には、祭りの前の記憶がない。


 男は、穴倉に三月みつきの間とじこもり、薬酒と沈香と謡をもって憑代よりしろとなった村長むらおさの末の子である。


 山の闇の中、神は降ろされた。

 娘が神を呼び、神は娘を夜這った。


 事が済むと、娘は柘植の櫛で山神の髪をいた。


 ――ご立派で、お美しい御髪おぐしでございます。あたしがカミを結いましょう。やがてあたしの身が朽ちて一握の泥となっても、あたしがカミを結いましょう。


 そうして、まどろむカミはこの娘に、この庵に、この山に結われた。

 神をとどめて、山は富んだ。

 娘は五年ののち、寒さに肺を病んだ。病がわかると、村の者は庵の周りに木格子を組んだ。

 飢えを味わい、神の力で一度満たされた者たちは、次の飢えを極度に恐れた。娘の死後、神が去ることを恐れた。

 山神たる男はかまわず、死んだ娘の着物を脱がせて丁寧にたたむと、亡骸をかき抱き、涙を流しながら肉をんだ。

 娘は役割を全うした。


 山は富み、村は富んだ。

 狩りつくされたはずの黒熊でさえ、いつの間にか山に帰って来ていた。

 さらに時は流れ、山での猟は時代の流れから取り残された。


 猟師は老い、若者たちは次第に村を離れ、奥山の庵は忘れられた。


 山神は膝の上で、娘の骨に左手を添えて慈しんでいる。遠い昔の五年の間の、短い花の命を懐かしんでいる。

 山の村が無くなってしまっても、庵はそこにあり、山は富み、獣は増え、増えた獣は新たに縄張りを広げていく。


 今日、人里に熊が出る。

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かみゆい 帆多 丁 @T_Jota

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