サーモンピンクのスクラブ【前編】
病棟にあるナースステーションの隅っこで、電子カルテを意味もなく開いたり閉じたりしながらあくびをしていると、隣にあった丸椅子にぽすんと誰かが座った。
「ヒロノちゃーん、元気ぃ?」
「一色先生、お暇なんですか?」
卒後10年目のその医師は、明るい茶色に染めた髪にウェーブをかけていて、お化粧もバッチリのイケイケな見た目である。白衣の下のスクラブもサーモンピンクで、不良っぽいが患者からの評判は良い。どんな時でも微笑んでおり、どっしりと何でも受け止めてくれるような雰囲気があるからだろう。
「暇ではないけどさぁ、研修医に気を配るのも仕事の一つだからねぇ。ヒロノちゃん、最近ちょっと無理してるよね?」
一色先生の顔を見上げる。彼女は当たり前のようにニコニコしている。何の嫌味もかげりもない、ただ、心から何もかもが愛おしいと思っているかのような笑みだ。
それが演技なのか、私には分からない。神から与えられた天性のものなのかもしれない。
そんなことを頭で考えているくせに、心はほどけてゆく。だから、つい口が滑った。
「井口先生にも言われたんです。患者に入れ込み過ぎだって」
一色先生は笑顔のまま小首をかしげた。
「あー、それはあたしは分かんなかったわ。井口先生って君のことをよく見てるよね。仲良いの?」
「中学のころのクラスメイトです」
「なるほどねぇ。……あたしはただ、君があんまり遅くまで医局に残ってるから心配してるだけ。担当患者さん減らそうかぁ?」
「急に私が担当から外れたら、患者さんたちが不安になると思うので……」
一色先生の手が伸びてきたので、思わず身構える。彼女はくすっと息を漏らし、私の頭にぽんと手を置いた。
「良い子だねぇ」
多分、今、私の顔は赤くなっている。
「ヒロノちゃんはあたしの娘に似てるから、つい気にしちゃうんだよね」
「は、はあ」
「引っ込み思案で、真面目過ぎるところとかそっくりだよぉ。今、中学生なんだけどね。毎日心配でたまんないよ。苛められてないか、とか。過保護なんだよね」
先生は私の頭をしゃわしゃわと撫でると、ふらりと病棟を出て行ってしまった。
いつもと何も変わらない姿だった。当たり前の笑顔だった。
――と、私は、思っていた。
夜の十時。医局の電灯は必要最低限しかついておらず、しかも蛍光灯の一つがチカチカ点滅するので、どことなく異世界のような雰囲気がある。光につられたのか、数匹のイカが窓から侵入してくる。てらてらと光る彼らは美味しそうだが、私は自分で捌けないので捕まえるのを諦める。
よそ見をしながらもなんとかレポートを書き終え、スクラブから私服に着替えていると、廊下から足音が響いて来た。走っているようだ。大きな音を立ててドアを押し開けたのは、血相を変えた井口だった。
「どうしたん、そんな慌てて」
井口は胸に手を当てて、ゼエゼエ鳴る息を整えようとする。ごくりとつばを呑み、絞り出すように言った。
「一色先生が、救急車で運ばれて来た。ビルの屋上から飛びおりたらしい」
【つづく】
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