サーモンピンクのスクラブ【後編】
透明なピンク色の液体に満たされた直方体の真ん中で、ゆっくりゆっくりと育ってゆく小さな塊。それはまだ人の形にはほど遠いが、魂が宿っている。あと数ヶ月で、一人の大人の姿へと再生するだろう。
ビルの屋上から飛び下りた彼女の体はひどく損傷していたが、幸いにも魂が無傷で残っていた。
人間には魂、つまり命の源をゼロから作り上げることはできない。形を変えたり、癒すことも不可能だ。しかし、魂が宿った細胞さえあれば肉体を再構成することができる。
育成室は病院の地下二階、つまり隔離病棟である湖の下にある。私は井口と共に、上行きのエレベーターに乗った。うつむいたままで、互いに全く言葉を交わさない。薄暗く窮屈な箱の中、井口の足が小刻みに震えていることだけが分かる。
急に、ぱっと視界が明るくなった。思わず顔を上げる。湖を抜け、窓から日の光が差し込んだのだ。純白の光だった。同じように顔を上げた井口と目が合ってしまい、どちらからともなく微妙な笑みを交わした。
「一色先生の家、今めっちゃ大変らしい。旦那さんも医者やから、子どもの面倒見れる人がおらんねって」
私は、そうなんやと低い声で返した。
「先生、病院は解雇されるやろうって話や。事故やったらそうはならんかったやろうけど、自分で飛び下りた可能性が高いから……」
井口は最後まで言葉にせず、窓に顔を向けた。柱の青い影が次々に、彼女の上を滑り落ちては消えてゆく。今にも泣き出しそうに見えた。
「最後に話したの、うちかもしれん」
私は何も言えず、ただうなずいた。
「あれからずっと、誰と話しても不安になる。この人は大丈夫やろか。どっかに行ってしまわんやろか。壊れてることを隠してるんちゃうか、無理してるんちゃうか、うちが負担をかけてしまってるんちゃんか、って」
「井口……」
「ヒロノ、あんたはちゃんと」
手が伸びてくる。それは私の両肩を強く掴む。すがり付くように、私の胸の上でうなだれる。
「あんたはちゃんと、逃げるんやで。医療は……少なくとも今の時代の医療は、誰かの命を犠牲になんてせんでも成り立たなあかんのや」
長い沈黙。やっとのことで私が声を絞り出そうとしたとき、井口がぐすんと鼻をすすった。私から離れ、手を後ろで組んで壁にもたれかかる。
「一色先生がなんでサーモンピンクのスクラブ着てるか知ってる?」
「可愛いから、とか」
「人間が一番落ち着く色なんやって。血の通った指先の色や」
井口は目を伏せて、ふっと微笑んだ。
「うちは、あの人みたいには一生笑えんと思う。自分が一番大事やから」
「私は――」
私は多分、井口のことが。
自分よりも、世界よりも大事だ。
そんなことは、決して口には出さないけれど。
エレベーターが止まる。ドアが開き、潮風が吹き込んだ。夏のにおいがした。
【つづく】
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